詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉本徹「灰と紫」

2008-05-22 09:25:36 | 詩(雑誌・同人誌)
 杉本徹「灰と紫」(「ユルトラ・バルズ」15、2008年05月15日発行)
 詩はことばである、と書いてしまうと、ほんとうは何も書くことがなくなってしまう。しかし、ひさびさに「詩はことばである」と書きたくなった。杉本徹「灰と紫」のなかに美しい行がある。独立して輝いている。

わたしが植えたイデュメアの樹は
音のない天体に揺らぎ
……いつか人影のような昼を告げるだろう
水を掬うてのひらに、わずかな逆光の歌声が射すと
その掌の象りは永遠に十二月のまま、都市の
暗がりの羅針となり、……
忘却の北、忘却という廃線!

 書き出しの7行だが、その7行目で私は立ち止まってしまう。

忘却の北、忘却という廃線!

 こういうことばに出会うと、動けなくなる。杉本が何を書きたいかなど、どうでもいい、と思ってしまう。暗い北へ伸びる廃線。それが「羅針盤」のように誘う。忘却へと誘う。あ、私はとてもセンチメンタルな人間なのだと思い、センチメンタルであることがうれしくなる。その廃線がどこにあるか、私は知らない。杉本が具体的にどの廃線をイメージしながら書いたのか、どうでもいい。私には私の、暗い北を指した廃線がある、と気がつく。そして、それは必然的に「物語」を含んでいる。この物語に、もちろん杉本は関係ない。ただ、私の意識だけが暴走する。「忘却の北、忘却という廃線!」ということばに誘われて。
 詩はことばである。
 そのことばを通って、読者は、自分の望む方向へ突き進む。その方向が作者の書いたものと一致するかどうかは関係がない。ただ、そこを通ってどこかへ突き進むことができるかどうか、どこかへ進む運動のエネルギーになるかどうかが問題なのだ。
 詩はことばである。したがって、それは誤読されなければならない。正確に、つまり、作者の書いた意図のとおりに読んでいるかぎりは、それは詩にはなり得ない。作者の書いた意図とは違った具合にことばを読む。そのとき、私たちは実感はしていないけれど、そこには作者の感情と読者の感情のことばにできない衝突がある。それは一種の「ビッグバン」である。そこから、いままで存在しなかったことばが動きはじめる。読者のなかで、かってにことばが動き、かってに読者自身のイメージを展開する。
 それはほんとうにビッグバンとしかいいようがない。ことばは全方向に散らばり、燃え上がり、宇宙に輝く星になる。どの星が一番好きか、ということは、見るひとの気分(?)によって違ってくる。夜の星座を見上げ、北極星を頼りにするひともいれば、見えない南十字星にあこがれるひともいる。シリウスに焦がれるひともいる。読者はかってにさまざまな輝きを結びつけて、そこに自分自身の「物語」(想像力がつくりあげるイメージ)を追いかける。
 私は4行目の「逆光の歌声」ということばも好きである。透き通った声、透き通ったメロディー(きっと短調)が一瞬輝くのを感じる。それは音であると同時に、色であり、においでもある。肉体全部をいっきにとらえてしまう何かである。
 詩は、次のようにつづいている。

忘却の北、忘却という廃線!
七つの曲りかどのある記憶から、剥がれ落ちていった
すれ違う靴音の砕いた凍る葉の、脈拍へ
「雪の舞う旧約にそって、ひとりは六十年歩いた」
「ひとりは閃光(エクラ)の名を呼び当ててのち、残像の風を生きた」

 いったん詩のことばにとらえられると、あとはもう好きなことばを追いかけるだけである。「七つの曲りかどのある記憶」の「七つ」さえも美しい。単なる数字なのに、数字を超越してことばを誘う。「残像の風」もいい。「凍る葉の、脈拍」もいい。

 そんなふうに好きなことばを拾い上げながら、私はひとつのことに気がついた。「凍る葉の、脈拍」のなかの読点「、」。一瞬の呼吸。この読点は、「忘却の北、忘却という廃線!」のなかにもある。この一呼吸は、あることばから、別の次元へ飛躍するための「跳躍台」のようなものである。読点「、」がないと、たぶん奇妙な、べったりしたことばの羅列になる。ことばの羅列ではなく、ことばからことばへのジャンプ。その瞬間に、たぶん詩はある。ジャンプを誘うことばが詩なのである。
 このことばのジャンプ、飛躍には、たぶん音楽でいう「和音」のような一種の法則がある。きちんとした「何度」という決まりがある。この「決まり」をたぶん天性の詩人は自然に身につけている。そして、「和音」の美しさで自然にことばをととのえてしまうのだと思う。
 「忘却の北、忘却という廃線!」と「凍る葉の、脈拍へ」というときの読点の感じは、私には同じ広がり、飛躍の大きさに感じられる。
 この飛躍の大きさ(音楽でいう「和音」のたとえば「三度」の「三」のようなもの)は、ほかにも共通する。たとえば、ここでは連全体を引用しないが、「六千年の静脈の、うすい色彩」も、「忘却の北、忘却という廃線!」と同じ広がりである。

 杉本の書いている詩を、そういうことばの「音楽」として見ていくと、「和音」が何種類もあり、それが複合してひとつの楽曲のようになっていることにも気がつく。

写本とは、くちずさむもの
行きずりの冬の地が、照らすとき

 この2行の読点「、」の感じ。
 さらには、「その掌の象りは永遠に十二月のまま、都市の」と「あるフリーウェイの消えゆく西空をながめつつ、税関で」という行の呼吸。

 詩はことばである。別の表現で言えば、「詩は意味ではない」。
 私は杉本の詩を読みながら、意味など考えていない。ただ、ことばの飛躍、その飛躍のリズムが誘い出すものに体全体を預けている。酔っている。こういう瞬間が、私は好きである。詩は、たぶん私にとっては「音楽」と同じようなものなのだ。「音楽」にも「意味」があるというひとはいるかもしれないが、私は「意味」を感じない。メロディーとリズムが、私を、いま、ここから違う時間、違う場所へつれていく。そこで私は私のことばではあらわすことのできないものを、ただ感じている。こういう「感じ」があるのだ、と感じている。それに似たものを、私は杉本のことばから受け取る。




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