詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「叩かれる少年」

2008-05-13 00:18:44 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「叩かれる少年」(「白黒目」11、2008年05月発行)
 豊原のことばを読んでいると、感情・精神こそが肉体なのだ、と、ふと思う。--感情・精神が肉体である、というのは、少し説明がいるかもしれない。いや、かなり説明が必要なことがらである。そして、私はそれについてきちんと語れるかどうかわからない。いつでも語ることのできないものを語ろうとするしかない、語ることができないからこそ語りたいと思ってしまうのだけれど……。

 連続小説「叩かれる少年」。小学校に入学した清と真裕子の話である。そこに描かれている二人の感情・精神に肉体がある。肉体の手触りがある。それは「過去」の積み重ねと言い換えてもいいかもしれない。
 豊原にとって、精神は(ちょっとプラトンあたりを想像してもらうと、私の説明がわかりやすくなるかもしれない)、どこかに肉体から離れて、肉体の逸脱を制御しながら、人間をととのえるものではない。肉体の奥で「過去」を生きていて、肉体そのものとして、表面に出てくる。肉体を破って誕生する肉体以外のものが感情・精神なのである。
 次のような部分。清が奈良よし子から話しかけられる。そのつづき。

「多良くんと平賀さんって、好き同士なん?」
清はびっくりして口を開けて言った。
「まだおともだちだよ。」
その声を聴いて真裕子は不安になり、ことばを失った。
夕暮れ。不安がうごめいた。
「清さん、わたしのことが好きじゃないの?」
真裕子は、弱弱しい子声で清に尋ねた。
「ち、ちがう。好き。真裕子さんのこと、大好き!」
「でも、よし子さんが話しかけたとき、今よりずっと、自然に答えていたやん。やっぱりわたしとは距離があるのね。わたし。悔しくて悲しい。」
しばらく間がふたりの間で流れた後、
「わたし、清さんのこと大好き。清さんもおなじと思っていた。」
清は返す言葉が見つからなかった。
「真裕子、ちゃんって言っていい?」
清はとってつけたようなことを言った。

 清と真裕子のことばのやりとりのなかに、そこには書かれていない「過去」が一気に噴出してきている。どうして真裕がそう思うか、という具体的な「過去」が書いてないにもかかわらず、書かれていない「過去」がなまなましく思い浮かぶ。肉体として思い浮かぶ。精神・感情ではなく、いっしょに遊んでいる無邪気な顔、笑い、目の輝き--そういう瞬間に共有した感情が、まっすぐに存在できずにねじ曲がる、その瞬間の不思議な苦悩、ねじ曲がってしまう力が肉体として立ち上がってくる。ねじ曲がってしまうのは、「過去」が肉体となって、そこに存在しているからである。
 小学1年生が「でも、よし子さんが話しかけたとき、今よりずっと、自然に答えていたやん。やっぱりわたしとは距離があるのね。」ということばをそのまま話すはずはないのだが、読んでしまうと、そのことばしかないなあ、と思う。
 人間の肉体のなかで生きている「過去」は精神・感情になってしまうと、肉体を突き破って(小学1年生であることを飛び越えて)、一気に「おとな」になってしまう。時間をひっくりかえし、幼いこどもの肉体のなかで生まれる嫉妬が、一気に時間を超える。時間の攪乱--そこに、「今」がある。精神・感情の「今」のなかには、「過去」と体験していないはずの「未来」が同居し、それが抑制から逸脱し、暴走する。

 豊原は「過去」を書かない。「未来」も書かない。ただ「現在」(いま)だけを書く。あらゆる瞬間を「いま」として書く。それが「肉体」を書くということかもしれない。
 精神・感情には「過去」「未来」がある。「肉体」には「いま」しかない。



夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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