詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

進一男『指の別れ』

2008-05-17 00:24:49 | 詩集
 進一男『指の別れ』(本多企画、2008年05月01日発行)
 「あとがき」によれば親指に腫瘍ができて、手術をしたとある。そのころに書いた作品を集めて一冊にしている。ことばに、そのときの思いが色濃く反映している。「生きていた薔薇」が私は好きである。

生きていた薔薇よ
幾月か私は病院に通いそして入院した
死ぬ程の目にあっていたわけではないが
それなりにそれなりの苦痛を味わわされた
その間私は自分のこと以外のことを忘れていた
もちろん愛していた鉢植えの薔薇のことも

薔薇よ
その間薔薇はどうしていたのだろうか
雨ざらし陽ざらしのなかでもがいていたか
優しい人がいて手入れして貰っていたか
私が退院してきた時に驚くべきことには
もとのように大輪とは言えないまでも
薄い朱色の美しい薔薇が咲いていた

 1連目の5行目「自分のこと以外のことを忘れていた」という率直さがいい。そして、いまは自分のこと以外についても思いが行くようになっている。それが現在だけではなく、過去、未来とつながっている。3連目がそのことを明確に語っている。

生きて
生きてきた薔薇
更に生きていくであろう薔薇よ

 入院をし、一瞬の死の恐怖も感じ、それが進の「時間」感覚をくっきりとさせた。そして、そこから祈りが生まれる。薔薇を描いて、実は、進自身の命への祈りを書いている。「更に」に強い感情があふれている。「あろう」という未来形を、なんとしてでも実現させようとする「更に」。
 「更に」は確かにこんな具合につかうべきことばなのだ。
 「現代詩」の「現代」とは、今流通している言語に対してどれだけ「現代」を拮抗させるか、つまり批評的な言語として洗い直すかということを基準にすると批評がしやすい。批評的な言語であるほど「現代詩」であると言える。
 この作品では、「祈り」が「更に」ことばを批評している。無意識につかうのではなく、「祈り」をこめてつかう。そういう批評の仕方もあるのだ。
 進はこの過去-現在-未来を「私は何をするか」でもう一度書いている。薔薇に託さず、進自身の意識を掘り下げようと試みている。

私は何をしたか 私は何をするか 私は何をするであろうか

 その結果。

私は何をしているかと問う時 私は何もしていないと答えるより外はないのである 毎日がそうである 今日も明日も次の日もそして次の日も 全く同じことであると言わねばならないのである

しかし不思議なことと言えば不思議なことでもあろうが 毎日々々同じことを繰り返しているうちに 白い紙の上に言葉が書き綴られているのである

 意識は動く。意識はことばになる。それが生きることである。進は生をしっかりと確認している。生を確認するために詩を書いている。「生きていた薔薇」にも、この作品にも、「祈り」と「感謝」がこめられている。
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ジョー・ライト監督「つぐない」

2008-05-17 00:08:54 | 映画
監督 ジョー・ライト 出演 キーラ・ナイトレイ、ジェームズ・マカヴォイ、シアーシャ・ローナン、ヴァネッサ・レッドグレーヴ

 この映画には、いくつか不思議な映像がある。
 ひとつは、キーラ・ナイトレイがこわれた花瓶の一部を噴水のある池に飛び込んで拾い上げるシーン。なぜか2回繰り返される。ただし、その2回はまったく同じではない。私の見間違えかもしれないが、1度目は濡れた下着を通してキーラ・ナイトレイの恥毛が見える。2度目は見えない。
 もうひとつは、ジェームズ・マカヴォイがキーラ・ナイトレイにあてた手紙を、シアーシャ・ローナンが読むシーン。部屋の中央、天井から光が降ってきている。その中央までシアーシャ・ローナンがつつつっと走り、ぴたっと停まる。そして手紙を読む。映画の人物の動きと言うよりは舞台の上での動きである。舞台なら美しく見えるが、映画のなかでは違和感がある。リアリティーがない。
 なぜ、こんな不思議なシーンがあるんだろう。
 ほかにもキーラ・ナイトレイの手とジェームズ・マカヴォイの手がそっと確かめるようにふれあうシーン、キーラ・ナイトレイがジェームズ・マカヴォイに「帰って来て」と耳元でささやくシーンなど、わざとメロドラマ風に撮ったシーンがある。
 なぜだろう。
 疑問は、最後になって解ける。
 この映画は実際にあったことを、作家が小説にした。実際にあったことと、小説に書かれた世界が映画のなかで繰り返されているのである。実際にあったことと、小説に書かれたことは少し違う。実際にあったことそのままでは、主人公たちが救われない。主人公たちに、せめて小説のなかだけでも幸福な時間を与えたい--そう思って作家が脚色したのである。
 少し文学的すぎるというか、構造がメタ映画になっており、私はこういう作品は嫌いなのだが、この映画に限って言えば、とてもいい印象を持った。最後の最後になって、あ、こういう美のあらわし方があるのか、と正直驚いてしまった。
 そして、この最後の最後を支えるバネッサ・レッドグレープの演技に感激してしまった。バネッサ・レッドグレープは「ジュリア」でのジェーン・フォンダとの再会シーンがすばらしいが、それと同じように、「眠りにつく前に」のメリル・ストリープとの再会のシーン、そしてこの「つぐない」でのテレビインタビューのシーンもすごい。ほとんど動きのない演技なのに、ひきこまれる。ことばを語るときの表情の一つ一つが真実になっている。ほんとうに名優だ、とつくづく思った。バネッサ・レッドグレープの声と顔によって、彼女が登場するまでのシーンが全部、もう一度、記憶のなかに甦る。まるでバネッサ・レッドグレープが過去を思い出しているそのままのように。そして、そのとき「つぐない」という意味がくっきりと浮かび上がるのだ。

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