詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「悪意」

2008-05-21 02:01:46 | 詩(雑誌・同人誌)
 坂多瑩子「悪意」(「鰐組」227 、2008年04月01日発行)
 一読して、あ、いい詩だなあ、と思っても、なかなかそのいいと感じたことをことばにできない。そういう詩がある。こういう詩が一番手ごわい。坂多瑩子の「悪意」はそういう詩である。
 電車のなかで見かけた風景。人物。そこで、不思議なことが起きる。

標準と少しはずれたアクセントで
いつもの車内放送があった
座席はほぼ満席だったが
誰もが消えかかっているようで
そのせいかとても静かだ
白いソックス洗ってくれる?
突然言われた

 さりげなくはじまる。「誰もが消えかかっているようで」と感情の通路を通って、突然、「洗ってくれる?」。奇妙にも生々しい。とても生々しい。「消えかかっている」「とても静か」の雰囲気とまったく違っている。そのまったく違っているという感じが有無をいわさず迫ってくる。
 坂多瑩子はこれをどうやって回避するのだろうか。

電車は走っている
髪を三つ編みにしたその子はにっとわらった
わたしはきっとどきまぎしていたのだ
洗ってくれる?じゃなく
はいてくれる?と聞こえた

 聞こえたことばを、聞こえなかったことばに置き換える。「洗ってくれる?」と言われても電車の中では洗えない。不可能である。だから、可能なことに置き換えてみる。「どぎまぎ」したまま。「はいてくれる?」。これも奇妙な会話(依頼)だけれど、「洗ってくれる?」よりは可能性としては高い。そこへ逃げ込んでみる。しかし、逃げ込んでみれば、そこは安定した場所、隠れ家ではない。よりいっそう身ぐるみを剥がれ、無防備な「わたし」になってゆくしかない。

手渡されたソックスをはいてみた
綿の厚手のソックスでゴムがゆるんでいる
ずるずるとさがる
さがりはじめるとゆっくりだが
ちっともとまらない
くるぶし手とまるはずが
とまらない
深い井戸に落としたみたいに
どこまでも落下していく

 だんだん、取りかえしがつかなくなる。ソックスの世界に引き込まれていく。この感じが、とてもスムーズ(? スムーズと言っては、たぶんいけないんだろうけれど)で、とても不思議である。悪夢とわかっていながら見続ける夢のように、これが夢であると言い聞かせれば言い聞かせるほど、夢は、むくむくと太り続ける。

その子は青い制服を着て白い靴をはいていた
その子は低い声でわらった
しつこくわらう
耳障りなので
両手で耳をふさいだ すると
わらう声は
わたしの内部から聞こえてくるようだった
車内はがらんとして
ごくふつうの日の光に照らされていた

 坂多の書いていることは「白昼夢」なのか。
 たぶん、そう考えると、読んでいてとても落ち着く。「白昼夢」の証拠(?)を「わたしの内部から聞こえてくる」という行に求めれば、とても簡単にこの詩の世界は説明がつく。
 気がつけば(夢から覚めれば)、「車内」は「ごくふつうの日の光に照らされてい」るだけである。「がらん」としている。「座席がほぼ満席だった」というのは勘違いである。
 だが、ほんとうに「夢」であったのなら、そんなものはわざわざ書く必要がない。

 坂多は何が書きたかったのか。

 坂多はルーズソックスをはいた高校生(?)に違和感を感じている。その違和感を感じている視線に高校生も反応する。そして、そこに一種の敵意のようなものがぶつかりあい、それが「悪意」となって、「空気」を歪める。そういう感じをことばに定着させたかったのだと思う。
 問題は、その「空気」の歪みを、どんなふうに説明できるか、ということである。批評は、それを説明できないかぎり批評にはなりえない。そして、私はそれを説明することばを持っていない。

 一方で、私には、坂多の今回の詩のなかのいくつかのことばが、とても生々しく感じられる。そうい強い印象がある。そしてこの印象の強さが、この詩を「いい詩」だと感じさせるのである。--私が生々しく感じることば、そこにたぶん、この詩をきちんと評価するための出発点があるのだろう、という気がする。
 気になることばのひとつが「わらう」である。「笑う」ではなく「わらう」。「低い声でわらった」という行があるが、その「わらう」はとても低い。とても暗い。それは「肉体」のなかでの「声」である。外には出てこない。「空気」にまで、ならない。「空気」にならないことによって、より深い「空気」に鳴る。「肉体」のなかにある「空気」に。胸の中にある「空気」に。あるいは血液中の酸素も、その「空気」かもしれない。「肉体」にあたためられて、「肉体」の内部で動いている「空気」なのかもしれない。

 「耳をふさいだ」と坂多は「ふさぐ」も「わらう」と同じように「ひらがな」で書いている。この「ひらがな」になにか秘密がある。「さがる」「とまる」「はく」も「ひらがな」である。
 漢字で書くと、それらの動詞はみな「絵」になる。イメージがくっきりと浮かぶ。(私だけの場合かもしれないが。)だが、ひらがなだとイメージではなく「運動」になる。動いている、その動き。動きがかかえこむ「時間」というものが浮かび上がってくる。

 この作品には、動きと時間が書かれている。そしてそれは、「絵」になるのではなく、「絵」になる前のもの、あるいは「絵」を拒絶したものになる。
 この作品は、どの行をとってみても、一瞬「絵」そのものである。きちんとしたイメージが浮かぶ。ところが、そのイメージははっきりと浮かび上がりながら、浮かびあがり続けていることを拒絶する。動いていってしまう。動いているという印象がそのつど強くなる。けっして、その全体像を、全体像として留めていてくれない。
 そのかわりに、不定形の(うごめいている)肉体が感じられる。動きつづいている、という感じがする。この動くは 100メートル競走のようにすばやく動く動きではなく、椅子に座って少し姿勢を変えるような、自分のなかだけで感じるような動きである。

 「悪意」というものがあるとしたら、たしかに、そんなふうに動き続け、うまくとらえることのできない何かかもしれない。--と書いてきてわかるのは、私は、詩についてよりも、「悪意」というものについて書こうとしている。詩から逸脱しはじめている、ということである。詩から逸脱させる力が、坂多のこの詩にはあるということかもしれない。詩を忘れ、詩から逸脱していくことを勧める詩。
 矛盾している。
 そして、その矛盾の中に、たぶん私の一番好きなものがある。詩を読む理由がある。でも、それを書き表すことばを私はまだ持っていいない。

 (書きはじめてみたが、やはり書きとすことができない。どう書いていいか私にはよくわからない。このまま「中断」しておく。いつか、この文章を整理し直すことができるかもしれない。永遠にその時間はやってこないかもしれないが。)


コメント
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