廿楽順治「四方拝」、小峰慎也「ずしりときた。それでいいのだよ」(「酒乱」1、2008年04月15日発行)
廿楽の作品は東西南北の4つの作品で構成されている。そして、その作品のいずれにも( )によって区切られたことばがある。
「西」では次のような具合である。
何が書いてあるか、実は、私にはわからない。そして、不思議なことに、この(西くん)だけは、わかった気持ちになる。私はふいに宮沢賢治を思い出してしまう。風の又三郎を思い出してしまう。「西さん、東さん、」である。
ふいに何か、現在とは関係ないものの出現--そこに「現実」というものがある。それがたとえ「空想」としても、それは「空想」という現実である。いま、ここ。そして、いまではない、ここではないの出会い。そういう「出会い」を演出する「場」としての廿楽という「肉体」--廿楽は、彼自身の「肉体」を詩にしようとしている。
そんなふうに読むことはできないだろうか。
「北」は、引用であることが明確かもしれない。
便器を「泉」と名付けて展覧会に出した人間がいる。その衝撃。「便器」と「泉」の出会いは、それから「既成事実」になってしまった。既成事実になってしまったが、かならずしも、いつもいつも便器が「泉」であるわけではない。思い出すときだけ「泉」になる。
思い出す--というのは、現在に、過去が噴出してくることである。
「便器=泉」という過去の体験(記憶)がふいに噴出してくる。噴出してきて、現在を揺さぶる。揺さぶられても現在はかわらない、かもしれない。しかし、そういうものが噴出してくる瞬間の、なんともだらーっとした感じ。緊張とは反対にあるなにか、はてしない「ゆるみ」。そこに廿楽の詩がある。
(西くん)も同じ。ふいに宮沢賢治が出現してくる。おいおい、いま、ここで宮沢賢治かい、それはないだろう、と思わず言いたくなるが、それはないだろうということばを支える何かがはっきりしていて、そういうのではない。ふいに、いま、ここが、だらーりとひろげられた感じ、弛緩した感じがある。
そしてこの弛緩は、「泉」「西くん」に共通していることだが、あまりにも有名であるがゆえの「固さ」ももっている。そういう不思議さがある。そういう不思議なものを、廿楽は見つけ出してきて、ことばにすることができる詩人である。
この弛緩と、強固な結晶が同時に存在することから、論を、弛緩のなかにある強固さ、ということろまで語りはじめると、それはそのまま廿楽の作品論になりそうである。廿楽の作品はたいていどれも「のどか」というか「のんびり」というか、はやりのことばでいえば「まったり」した感じがするが、そのいっけんふにゃふにゃ、やわらかそうなものががっしりしている。そういうものに出会ってしまうので、廿楽の詩は作品としておもしろいのだ。
*
小峰慎也が田中宏輔の『The Wasteless LandⅢ』の批評を書いている。少し驚いた部分がある。田中の「●ぼくの金魚鉢になってくれる●草原の上の●ビチグソ●しかもクリスチャン●笑●それでいいのかもね●そだね」を引用して、次のように書いている。
私は、ほんとうにほんとうにほんとうに驚いた。えっ、そんなこと、どこに書いてある? これは二人の会話。「ぼく」を田中と仮定して言えば、田中は「連れ」に対して、「ぼくの金魚鉢になってくれる」と甘えてたずねたのである。「いっしょの名字になってくれる?」「いっしょの墓に入ってくれる?」というのと同じと考えれば、これは愛の告白である。それに対して連れは「おれってさ、野原でビチグソしちゃったことなるんだぜ、クリスチャンなのにさ」と「笑い」のなかで答えをはぐらかした。あるいは、「それでもいい?」と逆に問い返した。だから「それでいいのかもね」「そだね」となる。ここでは、愛の告白があり、愛の合意がある。ビチグソそのものが「金魚鉢」になるわけではない。「金魚鉢」とか「ビチグソ」「クリスチャン」というのは、どうでもいいものである。単なる「比喩」だ。大切なのは「なってくれる」という「甘え」である。「甘え」なのかで語ることである。甘えながら語るのは愛、というのが相場である。
小峰の引用している部分が会話であるからこそ、それにつづいて「●ジミーちゃんと電話してて」という状況もつながってくる。「●ジミーちゃんと電話してて●たれる●もらす●しみる●こく●はく●さらす●といった●普通のことばでも●なんだか●いやな印象の言葉があるって●」が、「ビチグソ」と呼応することになる。普通のことばの、たれる、もらす、などが「いやな言葉」であるのと同じように、普通じゃないことば「ビチグソ」が「いとしいことば」「あいらしいことば」であるときもあるのだ。それが愛である。よほどうれしかったのか、「●こく●はく●さらす」と種明かしのように田中はことばをまき散らしている。「告白」、つまり自己の内部を「さらす」。
小峰は、詩を読む前に、愛し合っているひとと、くだらない(?)というか、つまり他人からみれば何を言ってるんだか、というような、親密な会話をまず実際にやってみることが必要なのではないのか。小峰はリズムについても語っているが、会話をしないでリズムのことを語っても意味はない。会話のなかの、飛躍。親しければ親しいほど、二人だけにしかわからない飛躍の軽さというものがある。愛は、その軽い軽い飛躍に励まされて舞い上がる。
小峰は「ずしりときた」と書いているが、私から見ると、まあ、よくもまあ、こんなにぬけぬけと、いちゃいちゃと、と思う。でも、「それでいいのだよ」と私も言うのだけれど。愛なんて、二人が満足なら、他人なんかどうだっていい。あっぱれ、あっぱれすぎるくらいあっぱれ、それでいいのだよ、と私は田中には言いたい。
廿楽の作品は東西南北の4つの作品で構成されている。そして、その作品のいずれにも( )によって区切られたことばがある。
「西」では次のような具合である。
はじめて
のときはみんな爆音がなったのである
あせったなあ
(西くん)
でも死んで
しまうことと
この丘の高さをむすびつけてはいけない
何が書いてあるか、実は、私にはわからない。そして、不思議なことに、この(西くん)だけは、わかった気持ちになる。私はふいに宮沢賢治を思い出してしまう。風の又三郎を思い出してしまう。「西さん、東さん、」である。
ふいに何か、現在とは関係ないものの出現--そこに「現実」というものがある。それがたとえ「空想」としても、それは「空想」という現実である。いま、ここ。そして、いまではない、ここではないの出会い。そういう「出会い」を演出する「場」としての廿楽という「肉体」--廿楽は、彼自身の「肉体」を詩にしようとしている。
そんなふうに読むことはできないだろうか。
「北」は、引用であることが明確かもしれない。
われわれにゆるされているものはこれか
べんきがひとつ
(泉かよ)
便器を「泉」と名付けて展覧会に出した人間がいる。その衝撃。「便器」と「泉」の出会いは、それから「既成事実」になってしまった。既成事実になってしまったが、かならずしも、いつもいつも便器が「泉」であるわけではない。思い出すときだけ「泉」になる。
思い出す--というのは、現在に、過去が噴出してくることである。
「便器=泉」という過去の体験(記憶)がふいに噴出してくる。噴出してきて、現在を揺さぶる。揺さぶられても現在はかわらない、かもしれない。しかし、そういうものが噴出してくる瞬間の、なんともだらーっとした感じ。緊張とは反対にあるなにか、はてしない「ゆるみ」。そこに廿楽の詩がある。
(西くん)も同じ。ふいに宮沢賢治が出現してくる。おいおい、いま、ここで宮沢賢治かい、それはないだろう、と思わず言いたくなるが、それはないだろうということばを支える何かがはっきりしていて、そういうのではない。ふいに、いま、ここが、だらーりとひろげられた感じ、弛緩した感じがある。
そしてこの弛緩は、「泉」「西くん」に共通していることだが、あまりにも有名であるがゆえの「固さ」ももっている。そういう不思議さがある。そういう不思議なものを、廿楽は見つけ出してきて、ことばにすることができる詩人である。
この弛緩と、強固な結晶が同時に存在することから、論を、弛緩のなかにある強固さ、ということろまで語りはじめると、それはそのまま廿楽の作品論になりそうである。廿楽の作品はたいていどれも「のどか」というか「のんびり」というか、はやりのことばでいえば「まったり」した感じがするが、そのいっけんふにゃふにゃ、やわらかそうなものががっしりしている。そういうものに出会ってしまうので、廿楽の詩は作品としておもしろいのだ。
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小峰慎也が田中宏輔の『The Wasteless LandⅢ』の批評を書いている。少し驚いた部分がある。田中の「●ぼくの金魚鉢になってくれる●草原の上の●ビチグソ●しかもクリスチャン●笑●それでいいのかもね●そだね」を引用して、次のように書いている。
ビチグソが「ぼくの金魚鉢」になるという状態もわけがわからないし、それがクリスチャンであるということにいたっては、たしかに「笑」うしかないかもしれない。
私は、ほんとうにほんとうにほんとうに驚いた。えっ、そんなこと、どこに書いてある? これは二人の会話。「ぼく」を田中と仮定して言えば、田中は「連れ」に対して、「ぼくの金魚鉢になってくれる」と甘えてたずねたのである。「いっしょの名字になってくれる?」「いっしょの墓に入ってくれる?」というのと同じと考えれば、これは愛の告白である。それに対して連れは「おれってさ、野原でビチグソしちゃったことなるんだぜ、クリスチャンなのにさ」と「笑い」のなかで答えをはぐらかした。あるいは、「それでもいい?」と逆に問い返した。だから「それでいいのかもね」「そだね」となる。ここでは、愛の告白があり、愛の合意がある。ビチグソそのものが「金魚鉢」になるわけではない。「金魚鉢」とか「ビチグソ」「クリスチャン」というのは、どうでもいいものである。単なる「比喩」だ。大切なのは「なってくれる」という「甘え」である。「甘え」なのかで語ることである。甘えながら語るのは愛、というのが相場である。
小峰の引用している部分が会話であるからこそ、それにつづいて「●ジミーちゃんと電話してて」という状況もつながってくる。「●ジミーちゃんと電話してて●たれる●もらす●しみる●こく●はく●さらす●といった●普通のことばでも●なんだか●いやな印象の言葉があるって●」が、「ビチグソ」と呼応することになる。普通のことばの、たれる、もらす、などが「いやな言葉」であるのと同じように、普通じゃないことば「ビチグソ」が「いとしいことば」「あいらしいことば」であるときもあるのだ。それが愛である。よほどうれしかったのか、「●こく●はく●さらす」と種明かしのように田中はことばをまき散らしている。「告白」、つまり自己の内部を「さらす」。
小峰は、詩を読む前に、愛し合っているひとと、くだらない(?)というか、つまり他人からみれば何を言ってるんだか、というような、親密な会話をまず実際にやってみることが必要なのではないのか。小峰はリズムについても語っているが、会話をしないでリズムのことを語っても意味はない。会話のなかの、飛躍。親しければ親しいほど、二人だけにしかわからない飛躍の軽さというものがある。愛は、その軽い軽い飛躍に励まされて舞い上がる。
小峰は「ずしりときた」と書いているが、私から見ると、まあ、よくもまあ、こんなにぬけぬけと、いちゃいちゃと、と思う。でも、「それでいいのだよ」と私も言うのだけれど。愛なんて、二人が満足なら、他人なんかどうだっていい。あっぱれ、あっぱれすぎるくらいあっぱれ、それでいいのだよ、と私は田中には言いたい。
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