詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

内山登美子「降る、さらさらと」

2008-05-27 10:33:37 | 詩(雑誌・同人誌)
 内山登美子「降る、さらさらと」(「現代詩2008」2008年06月01日発行)
 時間をどうとらえるか。過去-現在-未来と一直線に進むものと見るか。あるいは春-夏-秋-冬、そしてふたたび春-夏-秋-冬のように、繰り返すものと見るか。たいていはどちらかである。どちらであっても、そんなに珍しい(?)ものではない。
 内山は、時間を繰り返すもの、と見ている。「降る、さらさらと」には、そういう感覚が静かに書かれている。

言葉にはならないものが降る
仰いでいた天が
大きく傾(かし)いで
さらさらと 銀の
砂子のようなものを降らせている

私の躯も ぐっと傾いだようだ
なにやら 一回転したみたいだ
それが一瞬のことであったか
あるいは
百代の彼方までめぐってきたものか

てのひらを見る
斜めに 一文字 古い傷が走っている

あの時のものだ
よろけて 倒れて 一回転した あの時
夢中で掴んだ草の名は知らない
草は私を草むらから引き起こしたが
強靱な草はまた鋭利な鋼だった
血がにじんだ
痛みはあとからきた

これも一瞬のことであったか
あるいは 長い長い時間の痛みか

よくわからないものが降る
天は 時折 傾く

 雪。雪の季節になると古傷が痛む。一瞬にして、過去が現実に重なる。過去が現実に噴出してきて、現在を一瞬見えなくさせる。雪ではなく、内山は古傷を見る。寒さではなく、痛みを感じる。--こういうとき、内山は、過去と現在の関係を「一回転」ととらえている。その「一回転」のなかに、内山の時間感覚がある。
 こういう感覚自体には、私はすでに驚かない。「輪廻する時間」というものに、私はすでに驚かなくなってしまっている。
 しかし、一か所、とても驚いた。
 「一回転」を「傾ぐ」と結びつけている点である。
 輪廻というとおおげさかもしれないけれど、時間が回転する、過去が現在に甦るとき、そこには「軸」の傾きが影響している--そういう視点に驚いた。確かにそうなのだろう。地球に関して言えば、四季は、地軸が傾いているから起きる。宇宙の動き、宇宙の摂理、宇宙の真理と、内山は、意識してのことなのか無意識のことなのか1篇の作品だけではわからないが(私は内山の作品を読んだことがない、たぶん読んだことがないと思う)、内山の哲学は、輪廻というような東洋の哲学とは別のものと結びついている。抽象的なものではなく、物理的、科学的なものと結びついている。きわめて論理的である。
 それはたとえば、次の行、独特な行に端的にあらわれている。

草は私を草むらから引き起こした

 これは草を掴んだから「私」はがけ(たぶん)をころがり落ちることなく、身を立て直すことができた。草を掴んでいなかったら「私」はがけしたにころがり、草の上に倒れていた。
 「草は私を草むらから引き起こしたが」は正確に(?)言えば、「私の掴んだ草は、私が倒れるはずだった草むらから、私を引き起こした状態にした、つまり私は草を掴んだがゆえに草むらに倒れずにすんだ」なのである。
 「私」ではなく「草」を主語にして、一連の運動を書き換えているのである。
 天動説から地動説への移行のような、視点の変化がその1行に凝縮している。その視点を内山は「感覚」ではなく、きちんと「物理」で説明している。
 この感覚が「傾ぐ」を季節の巡り、雪から引き出している。雪が降るのは地球の軸(地軸)が傾いているから。地軸の傾きゆえに、四季は存在する。

 最終行の「天は 時折 傾く」は正確には、「天は 時折 地球が傾いていることを思い出させる」である。
 天がそうであるなら、私たち人間もどこかにその傾きに呼応するように傾きを持っている。そして、その傾きゆえに、人間は季節のように、ある思いを時折思いめぐらす。季節のように定期的にではないかもしれないが、同じことを感じるのである。それは個人のことでもあれば、「百代」をこえる時代、他人が感じたことがらのこともある。人間は、そして、その傾きの重なり、繰り返される同じ思いによって、互いに結びつく。--内山の哲学は、そういうところまで探り当てているようである。直感としてというより、しずかに現実を、物理をみつめることによって。このしっかりした視点ゆえに、ことばが清潔さを保っているのだと思った。





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