岡井隆「百年の後」(「現代詩手帖」2008年06月号)
岡井隆の散文力(?)というのだろうか、ことばの動きは、まったくゆるみがない。それはぐねぐねとうねったときにいっそう力を発揮する。ぐねぐねうねるのに、きわめて論理的なのである。論理的といっても、その論理は意識の流れ(あ、こういう言い方は古いかも)の論理であって、いわゆる「科学的論理」の類ではない。意識の流れが、何かにぶつかると、そのぶつかったことを利用してするりとうねる。そのうねりに無理がない、ということである。論理的=無理がない。これが、たぶん岡井の散文力なのである。ふいに私は吉田健一を思い出してしまうのだが、岡井の散文力は吉田健一の文章の力に似ている。何かにぶつかっても、そのぶつかったことを、水が岩をこえるように、あるいは岩を抱き込んで流れるように、するりと流れていく。するりだけてはなく、きらりと光ながら流れていく。そのときの、するり、きらり、に乱れがない。乱れているのに、その乱れ方に何か一定の力(水量の確かさ)があり、そのために安定して見えるのである。
どこで引用をやめるべきなのかわからないことばである。うねりに無理がないので、どうしてもひきずられてしまうのである。
この引用の部分で、私が「きらり」と感じるのは
この部分の「思想」であるけれど、そういう「きらり」よりもすごいのは、実は「するり」である。「きらり」は誰にでもというと語弊があるけれど、ある程度ことばを書いている人なら可能なことだろうと思う。もっとも、たいていは「きらり」ではなく、「きらきら」しすぎて、うんざりするのだが……。
私が「するり」と感じるのは「こちらが」である。
私は、この「こちらが」のひとことにうなってしまった。
「私」でも「ぼく」でもなく、「こちら」。それは「あちら」を前提としている。そして、「こちら」とあちら」はつながっている。この「つながり」。そこに、私が感じている岡井の思想がある。「つながり」を維持したまま、ことばが動いていく。意識の流れとは、別のことばで言えば、意識の「つながり」である。そして、そのつながりは、岡井に逢っては「こちら」「あちら」という別個のものを前提としたつながりなのである。「こちら」と「あちら」には、ほんとうは断絶がある。断絶があってもいい。しかし、それを断絶にさせずに「つなげる」。「こちら」と「あちら」として存在させ、それを「つなげる」。そのとき、ことばはうねるのだ。
「つながり」ながら、ことばは「向う岸」まで動いてゆく。それは「川」の「向う岸」をこえて「彼岸」まで行ってしまう。と、岡井は書いてはいないが、私は「誤読」して、「彼岸」を想像する。そして、「彼岸」を想像すると「見えないもの」というものが、実にくっきりと見えてくる。
「見えないもの」とは「現実」(此岸)のことがらではないからである。「彼岸」だからである。
そして、「見えないものを見ている」というのは、実は、その「彼岸」が未知のものではなく、熟知したものだからである。人間は「此岸」のことは何もわからない。しかし、「彼岸」のことはよく知っている。周知している。人間は誰でも、その前にあることは何もわからないが、「彼岸」にあることはよく知っている。だからこそ、「此岸」から「彼岸」へ動いてゆくのだ。「此岸」を「彼岸」に「つなげる」ことができるのだ。
この「此岸」「彼岸」の関係を、岡井は、前の歌から離れ、ジュール・シュペルヴィルの「馬」に結びつけて書いている。
その部分は引用しないが(「現代詩手帖」06月号で読んでください)、そこに「百年」に類似した「時間」が登場する。「二萬世紀」という時間が登場する。書かれた瞬間に「百年」と「二萬世紀」は、その「数字」違うにもかかわらず、ぴったりさ重なり合う。
それは螺旋階段がぐるりとまわることで重なり合うのに似ている。この「ぐるり」を「うねり」と読み替えてほしい。そうすれば、私が岡井のことばに見ているものが見えるだろうと思う。
それはもしかすると「まだ誰も見た事もないもの」であるかもしれないし、「まだ見た事もないもの」といえるのは、実はそれが周知のことだからかもしれない。周知なのだけれど、周知のものとはほんの少し違っている。だから正直に言おうとすると「まだ見た事もないもの」というのであって、そういいながら「あ、これは、あれだよ」と承知している。
この阿吽の呼吸のようなことばの動き、意識の流れを、岡井はすべてことばにすることができる。ことばにしている。あ、教養のある人のことばとはすごいものだと、ただただ感心するしかない。
岡井隆の散文力(?)というのだろうか、ことばの動きは、まったくゆるみがない。それはぐねぐねとうねったときにいっそう力を発揮する。ぐねぐねうねるのに、きわめて論理的なのである。論理的といっても、その論理は意識の流れ(あ、こういう言い方は古いかも)の論理であって、いわゆる「科学的論理」の類ではない。意識の流れが、何かにぶつかると、そのぶつかったことを利用してするりとうねる。そのうねりに無理がない、ということである。論理的=無理がない。これが、たぶん岡井の散文力なのである。ふいに私は吉田健一を思い出してしまうのだが、岡井の散文力は吉田健一の文章の力に似ている。何かにぶつかっても、そのぶつかったことを、水が岩をこえるように、あるいは岩を抱き込んで流れるように、するりと流れていく。するりだけてはなく、きらりと光ながら流れていく。そのときの、するり、きらり、に乱れがない。乱れているのに、その乱れ方に何か一定の力(水量の確かさ)があり、そのために安定して見えるのである。
「向う岸に菜を洗ひゐし人去りて妊婦と気づく百年の後」(前登志夫)を五行に分けて板書してゐると教室のあちらこちらで笑ひ声が起きるので耳ざはりだと思ひながらとはいつても「百年の後」の結びの四文字を書くまでは失笑はされなかつたのだから此の五音四文字が人々の意識の歩みをつまづかせたに違ひなくさりとてここで振り向いて注釈するのもあざといやうでむろん「妊婦」つていふのがかつて妊婦だつたことのなる聴き手たちをしげきしたのにはこちらが「思想」の外は懐妊したとこのないジェンダーであつてみれば(二三のわかりやすくまた周知の前例をあげる気にもならないほど)重い性差のひびきが笑ひにはこもつてをりさう思つて改めて読み直してみれば
どこで引用をやめるべきなのかわからないことばである。うねりに無理がないので、どうしてもひきずられてしまうのである。
この引用の部分で、私が「きらり」と感じるのは
こちらが「思想」の外は懐妊したとこのないジェンダーであつてみれば
この部分の「思想」であるけれど、そういう「きらり」よりもすごいのは、実は「するり」である。「きらり」は誰にでもというと語弊があるけれど、ある程度ことばを書いている人なら可能なことだろうと思う。もっとも、たいていは「きらり」ではなく、「きらきら」しすぎて、うんざりするのだが……。
私が「するり」と感じるのは「こちらが」である。
私は、この「こちらが」のひとことにうなってしまった。
「私」でも「ぼく」でもなく、「こちら」。それは「あちら」を前提としている。そして、「こちら」とあちら」はつながっている。この「つながり」。そこに、私が感じている岡井の思想がある。「つながり」を維持したまま、ことばが動いていく。意識の流れとは、別のことばで言えば、意識の「つながり」である。そして、そのつながりは、岡井に逢っては「こちら」「あちら」という別個のものを前提としたつながりなのである。「こちら」と「あちら」には、ほんとうは断絶がある。断絶があってもいい。しかし、それを断絶にさせずに「つなげる」。「こちら」と「あちら」として存在させ、それを「つなげる」。そのとき、ことばはうねるのだ。
重い性差のひびきが笑ひにはこもつてをりさう思つて改めて読み直してみれば「向う岸」も或いはそこいらの野川の向う岸ではなく対岸の大河かも知れず「菜」の青さも大儀さうにかすかに膨れた腹部を回転させつつ遠ざかる女の姿も実は見えないものを見ているかも知れず
「つながり」ながら、ことばは「向う岸」まで動いてゆく。それは「川」の「向う岸」をこえて「彼岸」まで行ってしまう。と、岡井は書いてはいないが、私は「誤読」して、「彼岸」を想像する。そして、「彼岸」を想像すると「見えないもの」というものが、実にくっきりと見えてくる。
「見えないもの」とは「現実」(此岸)のことがらではないからである。「彼岸」だからである。
そして、「見えないものを見ている」というのは、実は、その「彼岸」が未知のものではなく、熟知したものだからである。人間は「此岸」のことは何もわからない。しかし、「彼岸」のことはよく知っている。周知している。人間は誰でも、その前にあることは何もわからないが、「彼岸」にあることはよく知っている。だからこそ、「此岸」から「彼岸」へ動いてゆくのだ。「此岸」を「彼岸」に「つなげる」ことができるのだ。
この「此岸」「彼岸」の関係を、岡井は、前の歌から離れ、ジュール・シュペルヴィルの「馬」に結びつけて書いている。
その部分は引用しないが(「現代詩手帖」06月号で読んでください)、そこに「百年」に類似した「時間」が登場する。「二萬世紀」という時間が登場する。書かれた瞬間に「百年」と「二萬世紀」は、その「数字」違うにもかかわらず、ぴったりさ重なり合う。
それは螺旋階段がぐるりとまわることで重なり合うのに似ている。この「ぐるり」を「うねり」と読み替えてほしい。そうすれば、私が岡井のことばに見ているものが見えるだろうと思う。
それはもしかすると「まだ誰も見た事もないもの」であるかもしれないし、「まだ見た事もないもの」といえるのは、実はそれが周知のことだからかもしれない。周知なのだけれど、周知のものとはほんの少し違っている。だから正直に言おうとすると「まだ見た事もないもの」というのであって、そういいながら「あ、これは、あれだよ」と承知している。
この阿吽の呼吸のようなことばの動き、意識の流れを、岡井はすべてことばにすることができる。ことばにしている。あ、教養のある人のことばとはすごいものだと、ただただ感心するしかない。
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