鈴木志郎康「位置として、柔らかな風」(「モーアシビ」13、2008年04月30日発行)
鈴木志郎康の想像力は粘着力がある。
きのう読んだ大橋政人の想像力は「手」という肉体と関係していたが、鈴木の場合は「目」である。目は直接他人には触れない。他人に触れるのは「視線」である。目を他人にくっつけてしまうと、何も見えない。目と他人との間には「距離」がある。そして、この「距離」は、伸び縮みする。変な言い方になるが、大橋の伸ばした「手」には「手」の玄海がある。簡単に言えば、普通「手」を伸ばして触れることができるのはせいぜい1メートル先である。ところが「目」というか、「視線」は「距離」を超えてしまう。1メートル先のものも2メートル先のものも、さらには10メートル先のものにも簡単に触れることができる。それだけではなく、「距離」の間に障害物があっても「想像」することで、障害を取り除き、「距離」をゼロに、さらにはゼロを通り越してマイナス(?)の部分、他者の内部にも触れることができる。
この「距離」の伸び縮みを担っているのが「ことば」である。
「目」が「視線」が、自己(鈴木)と他者の「距離」を自在に伸び縮みさせて、そこに、誰も書かなかった世界を繰り広げるのが鈴木の詩である。
この作品では、鈴木は、電車の中に座っており、前の座席に女性の姿をみつめる。
鈴木は「目」にこだわる。「見える」ものを次々と細かく数え上げていく。このとき、「目」と対象の「距離」はまだ一定である。
ところが「見えない」もの(この詩では「容貌」、顔の細部、目鼻だち、のことだろう)にぶつかると、「目」の動き、「視線」の動きが急に変化する。それにともなって「距離」も変わる。
鈴木の「目」は、その「肉眼」は「肉弾」では見えないものを「見る」。見はじめる。
それを鈴木は「想像」と呼ぶ。そして、その「想像」の特徴は「伸びる」ということにある。「降り曲がった(谷内注・「折れ曲がった」の誤植だろうか)腹部から乳房へと想像が伸びる。」という行に、はっきりと「伸びる」ということばがつかわれている。鈴木の「想像」は「伸びる」のである。延長・拡張。想像力による「自己拡張」が鈴木のことばの特徴である。(これは、またあとで触れる)そして、この「伸びる」は「視線」なのだが、その「視線」は「肉眼」ではなく、「ことば」によって成り立っている。「ことば」が「視線」となって動くこと、それが鈴木の「想像」である。
「想像」が、たとえば「映像」ではなく、あくまで「ことば」であるからこそ、次の行が成立する。
この2行は、鈴木以外の誰にも書けない行である。
「女の裸体」。それは「目」(視線)の対象である。鈴木は「女の裸体」を「目」(肉眼)で見ているのではないと気がついている。「肉眼」ではなく「意識」の「目」として見ていることに気がついている。だから、「意識」を形作っている(「意識」を見えるものにする)ことばを動かすことで、「意識の目」を裸体からそらしてしまう。「花粉症」ということばで「意識の目」(想像)を別な方向へ動かしてしまう。その対象からの視線の動きを、鈴木は、ここでは「回避」と呼んでいる。いったん近づき、裸体にまで触れた視線が突然裸体から遠ざかる。この「距離」の伸び縮み--その操作に、ことばがからんでいる。ことばで、距離が伸び縮みするのである。
「肉眼」から出発した「想像」は「ことば」として明確になり、「想像」が「ことば・意識」であることをしっかり認識した上で、さらに動く。逸脱しはじめる。
肉眼は「マスク」によって視線をさえぎられ、見えないもの(不明の顔)に触れることで「女の裸」へと逸脱したが、次は、「ことば(意識)」の視線(想像力)が「どこ」という「不明」のものにぶつかり、さらに逸脱する。目的地を「想像」することを通り越して(逸脱して、超越して)、あるいは目的地を「女」になりかわって明確に「想像」するために、「身体」そのものへと逆に凝縮する。「距離」を縮めてしまう。「意識(ことば)」を「身体」に還元し、もう一度「想像」しはじめようとする。
「目」と「目のつくりだす距離」は「ことば」によって、伸び縮みし、現実にはありえないものへと変質する。この変質が、鈴木にとっての詩である。
この変質の、変質を、変質と感じさせないようにおさえつけている(?)のが
の「その」である。指示代名詞。ぐいとつかんで、対象を放さない。ここから鈴木の粘着力が出てくる。鈴木の想像力の粘着性が生まれる。
「その」という粘着力、それが呼び寄せることばによって、鈴木は「自己拡張」をはじめる。
「女性とわたしの身体が入れ替わる」と鈴木は書いているが、実際は、「女性の身体」と「わたしの身体」、さらには「わたしの意識」と「女性の意識」(これは、またあとで触れる)を二重に生きる。「入れ替わり」は便宜上のことばであって、実際にそこでおこなわれていることは、鈴木自身を粘着力で「女性」とぴったり重ねるということである。鈴木を「女性」の領分(領域)まで拡大することである。
これから先、ことばはでは、その自己拡張をどこまで続けることができるか、という世界へ進んで行く。
女性の「身体」だけではなく、女性の「意識」にまで自己拡張をつづける。そして女性の「意識」にまで自己拡張をした瞬間に、ふっと、鈴木と女性は分離する。
ここにほんとうは、この詩というか、鈴木のことばの一番のおもしろさがある。
肉体はそれぞれ分離している。それは互いに触れることはできてもけっして「一体」にはならない。二人の「肉体」の一致・融合ということはありえない。逆に「意識」のばあいは「融合・一体」ということはあり得る。それなのに「意識」を分岐点にして、鈴木の場合、人間は別れて行く。意識は全体に融合しないのである。意識・ことばはあくまで「個人」のものである。絶対に、他人とは一体にならない。どんなにことばを積み重ねてみても、ことばはあくまで個人に属する。
これは、別の言い方をすれば、どんな「空想」(想像)をしようが、それがことばであるかぎり「個人」のものであるから、何を、どんなふうに考えたっていい、ということである。「個人的」であればあるほど、それは「ことば」である、ということである。
「極私的」ということばが鈴木の「代名詞」のようにつかわれたことがあるが、「極私的」とは、そういうものであろう。「個人的」であることによって、ことばが完成する。ことばは詩になる。それが鈴木の世界だ。
鈴木志郎康の想像力は粘着力がある。
きのう読んだ大橋政人の想像力は「手」という肉体と関係していたが、鈴木の場合は「目」である。目は直接他人には触れない。他人に触れるのは「視線」である。目を他人にくっつけてしまうと、何も見えない。目と他人との間には「距離」がある。そして、この「距離」は、伸び縮みする。変な言い方になるが、大橋の伸ばした「手」には「手」の玄海がある。簡単に言えば、普通「手」を伸ばして触れることができるのはせいぜい1メートル先である。ところが「目」というか、「視線」は「距離」を超えてしまう。1メートル先のものも2メートル先のものも、さらには10メートル先のものにも簡単に触れることができる。それだけではなく、「距離」の間に障害物があっても「想像」することで、障害を取り除き、「距離」をゼロに、さらにはゼロを通り越してマイナス(?)の部分、他者の内部にも触れることができる。
この「距離」の伸び縮みを担っているのが「ことば」である。
「目」が「視線」が、自己(鈴木)と他者の「距離」を自在に伸び縮みさせて、そこに、誰も書かなかった世界を繰り広げるのが鈴木の詩である。
この作品では、鈴木は、電車の中に座っており、前の座席に女性の姿をみつめる。
前の座席の若い女性を見ている。
女の胸元の、小さな宝石の飾りに視線を止める。
白いブラウスの襟が僅かに開いて、
グレーの柔らかいカーディガンに黒いコート。
膝の上に金具のついた黒い革のバッグ。
女は白いマスクをして目をつむっている。
容貌は見えない。
わたしは、彼女の華奢な女の裸体を想像する。
降り曲がった腹部から乳房へと想像が伸びる。
鈴木は「目」にこだわる。「見える」ものを次々と細かく数え上げていく。このとき、「目」と対象の「距離」はまだ一定である。
ところが「見えない」もの(この詩では「容貌」、顔の細部、目鼻だち、のことだろう)にぶつかると、「目」の動き、「視線」の動きが急に変化する。それにともなって「距離」も変わる。
鈴木の「目」は、その「肉眼」は「肉弾」では見えないものを「見る」。見はじめる。
それを鈴木は「想像」と呼ぶ。そして、その「想像」の特徴は「伸びる」ということにある。「降り曲がった(谷内注・「折れ曲がった」の誤植だろうか)腹部から乳房へと想像が伸びる。」という行に、はっきりと「伸びる」ということばがつかわれている。鈴木の「想像」は「伸びる」のである。延長・拡張。想像力による「自己拡張」が鈴木のことばの特徴である。(これは、またあとで触れる)そして、この「伸びる」は「視線」なのだが、その「視線」は「肉眼」ではなく、「ことば」によって成り立っている。「ことば」が「視線」となって動くこと、それが鈴木の「想像」である。
「想像」が、たとえば「映像」ではなく、あくまで「ことば」であるからこそ、次の行が成立する。
意識として、
花粉症なんだな、と想像を言葉で回避する。
この2行は、鈴木以外の誰にも書けない行である。
「女の裸体」。それは「目」(視線)の対象である。鈴木は「女の裸体」を「目」(肉眼)で見ているのではないと気がついている。「肉眼」ではなく「意識」の「目」として見ていることに気がついている。だから、「意識」を形作っている(「意識」を見えるものにする)ことばを動かすことで、「意識の目」を裸体からそらしてしまう。「花粉症」ということばで「意識の目」(想像)を別な方向へ動かしてしまう。その対象からの視線の動きを、鈴木は、ここでは「回避」と呼んでいる。いったん近づき、裸体にまで触れた視線が突然裸体から遠ざかる。この「距離」の伸び縮み--その操作に、ことばがからんでいる。ことばで、距離が伸び縮みするのである。
「肉眼」から出発した「想像」は「ことば」として明確になり、「想像」が「ことば・意識」であることをしっかり認識した上で、さらに動く。逸脱しはじめる。
意識として、
花粉症なんだな、と想像を言葉で回避する。
あの先の尖ったローヒールの靴を細かく運んで、
どこへ行くのだろう。
その「どこ」が不明。突然、不明にわたしは脱線して、
特殊意識として、
わたしは、その女性とわたしの身体が入れ替わる空想をはじめる。
肉眼は「マスク」によって視線をさえぎられ、見えないもの(不明の顔)に触れることで「女の裸」へと逸脱したが、次は、「ことば(意識)」の視線(想像力)が「どこ」という「不明」のものにぶつかり、さらに逸脱する。目的地を「想像」することを通り越して(逸脱して、超越して)、あるいは目的地を「女」になりかわって明確に「想像」するために、「身体」そのものへと逆に凝縮する。「距離」を縮めてしまう。「意識(ことば)」を「身体」に還元し、もう一度「想像」しはじめようとする。
「目」と「目のつくりだす距離」は「ことば」によって、伸び縮みし、現実にはありえないものへと変質する。この変質が、鈴木にとっての詩である。
この変質の、変質を、変質と感じさせないようにおさえつけている(?)のが
その「どこ」が不明。
の「その」である。指示代名詞。ぐいとつかんで、対象を放さない。ここから鈴木の粘着力が出てくる。鈴木の想像力の粘着性が生まれる。
「その」という粘着力、それが呼び寄せることばによって、鈴木は「自己拡張」をはじめる。
「女性とわたしの身体が入れ替わる」と鈴木は書いているが、実際は、「女性の身体」と「わたしの身体」、さらには「わたしの意識」と「女性の意識」(これは、またあとで触れる)を二重に生きる。「入れ替わり」は便宜上のことばであって、実際にそこでおこなわれていることは、鈴木自身を粘着力で「女性」とぴったり重ねるということである。鈴木を「女性」の領分(領域)まで拡大することである。
これから先、ことばはでは、その自己拡張をどこまで続けることができるか、という世界へ進んで行く。
しかし、それにしても、
わたしと交代で
わたしの身体に入れ替わった女性は驚いて、
困るだろうな。
突然、白髪の杖を突いた老人にナッテシマッテ。
女性の「身体」だけではなく、女性の「意識」にまで自己拡張をつづける。そして女性の「意識」にまで自己拡張をした瞬間に、ふっと、鈴木と女性は分離する。
ここにほんとうは、この詩というか、鈴木のことばの一番のおもしろさがある。
肉体はそれぞれ分離している。それは互いに触れることはできてもけっして「一体」にはならない。二人の「肉体」の一致・融合ということはありえない。逆に「意識」のばあいは「融合・一体」ということはあり得る。それなのに「意識」を分岐点にして、鈴木の場合、人間は別れて行く。意識は全体に融合しないのである。意識・ことばはあくまで「個人」のものである。絶対に、他人とは一体にならない。どんなにことばを積み重ねてみても、ことばはあくまで個人に属する。
これは、別の言い方をすれば、どんな「空想」(想像)をしようが、それがことばであるかぎり「個人」のものであるから、何を、どんなふうに考えたっていい、ということである。「個人的」であればあるほど、それは「ことば」である、ということである。
「極私的」ということばが鈴木の「代名詞」のようにつかわれたことがあるが、「極私的」とは、そういうものであろう。「個人的」であることによって、ことばが完成する。ことばは詩になる。それが鈴木の世界だ。
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