監督 ポール・トーマス・アンダーソン 出演 ダニエル・デイ・ルイス、ポール・ダノ、ディロン・フレイジャー、キアラン・ハインズ
冒頭の音楽とダニエル・デイ・ルイスの手にびっくりさせられる。ひっぱりこまれる。映画は音楽と映像でできている。その至福が冒頭からやってくる。不安が緊張に高まって輝く音楽。それを背景にして石まみれ(泥まみれというやわらかさはない)の手。役者の手ではない。大地を掘り進むつるはしのような手である。この手で、つまり肉体そのものでダニエル・デイ・ルイスは金(きん)を手に入れ、石油を手に入れ、金(かね)を手に入れる。石油に比べると、金(かね)なんてなんでもない。ふにゃふにゃしている。ふにゃふにゃはその手触りのよさで、手を解放する。手から労働を解放する。そのふにゃふにゃ、ふにゃふにゃの夢ににつられて農家(地主)たちはふりまわされる。いいようにあしらわれる。ダニエル・デイ・ルイスも金を手にするけれど、そんなものはふにゃふにゃだと知り尽くしている。手が、大地が、手と大地の戦いこそがすべてなのだと知っている。その剛直な戦いを象徴する、激しく、強い音楽である。映像も、ダニエル・デイ・ルイスの手だけではなく、すべてが固い。スクリーンにうつっているというよりも、強固な岩盤に切り刻まれている映像という印象である。冒頭から、大傑作なのである。これから起きることがすべて語られているような一瞬がそこにあった。
ダニエル・デイ・ルイスの演じる役所は極悪人である。金(かね)を、金になる石油を追い求めている。だれも信用していないようである。野卑である。欲望の固まりである。平気で嘘をつく。嘘のためにこどもも利用する。ひとも殺す。その一方で「家族」をもとめている。絆を探している。矛盾している。--それなのに、ひきつけられる。冒頭の手について書いたが、その肉体の、労働をくぐり抜けてきた力、大地と戦ってきた力が反映されている肉体の強さに引きつけられる。
この肉体があってはじめて、大地も大地足りうる。石油を噴出させ、火を吹く。ひとの命を奪う。大地もまた地球という存在の「肉体」なのだということがわかる。
ダニエル・デイ・ルイスの肉体が大地そのものになっている。その奥には石油のように欲望が、愛憎が、矛盾がどろどろとしたまま眠っている。それが匂うのだ。オーラとなってあふれるのだ。とてもいやな人間なのに、ひかれてしまう。夢中になってしまう。こんな人間にはなりたくない、などと思う余裕もなく、その強さにひきずられてしまう。引き込まれてしまう。
ダニアル・デイ・ルイスが石油が眠る大地に吸いよせられていくように、私は、ダニエル・デイ・ルイスの肉体に吸いよせられていく。細身の体が大地と素手で戦うことでとてつもなく強靱になっている。その細い体の中から、欲望が、愛憎が、洗練されず、(精製されず)、原油のまま、真っ黒のままあふれてくる。時には火を噴き、ダニエル・デイ・ルイス自身を破壊して噴出する。そういう感じが、一瞬一瞬、一刻一刻、スクリーンにあふれる。ほとんど出ずっぱりで、スクリーンそのものをひっぱって行く。ひっぱって行く--というのは、映像としてだけてはなく、ほんとうに、石油の眠る大地へ、荒野へ、海へ、街へ、文字通りひっぱってゆく。スクリーンにそれぞれの場所が映し出されるのではなく、スクリーンがダニエル・ダイ・ルイスとともに異動していくのである。
このダニエル・デイ・ルイスの肉体にポール・ノダのことば(宗教)が絡む。肉体と宗教はぶつかりあう。どちらも相手を偽物(信頼できないもの、生きるために命が利用するだけのもの)と考えている。反対のものであるだけに、相手が、すべてわかる。肉体が欲望なら、宗教も欲望である。肉体が鍛えられて美しいなら、宗教も鍛えられて美しい何かである。だが、鍛え上げられて美しい何かというのは、それが肉体であれ、精神であれ、普通の人間の何かとは違う。はりつめた緊張。そのなかにしかない矛盾の力のようなものが、その美を動かしている。
そして、この肉体と宗教という相反するものが「家族」のなかで、ぶつかり、「家族」を破壊して行く。「家族」ではなく、人間をひとりの人間そのものに引き戻す。孤独に引き戻す。孤独を、肉体と、宗教とが、矛盾しながら引き受けるのである。
そして、その矛盾を、音楽が増幅する。役者のことばかり書いたが、この映画の音楽はとてつもない。何が起きているのかわからない。まるでダニエル・デイ・ルイスの肉体のように強靱なのである。そこから不安と緊張と暴力と血があふれてくる。
この映画の強さに、私はたじろいでいるままである。私は、まだこの映画と真っ正面から向き合ってはいない。ただ圧倒されている。圧倒されるままに、論理も何も考えず、ただことばを書いている。私のなかでことばがいつか整うことがあるかもしれないけれど、それまで待っていられない。
傑作である。ほんとうに傑作である。
アカデミー賞をとった「ノーカントリー」もいい作品だが、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の方がはるかに優れている。コーエン兄弟は「ファーゴ」で作品賞を取り損ねている。だから、今回賞がまわってきたのかもしれない。(アカデミー賞は、いつでも後手後手で賞を送っている。イーストウッドの「ミッシング・リバー」は賞を逃した。そして、次の「ミリオンダラー・ベイビー」で賞を獲得している、という風に。もちろん「ミリオンダラー・ベイビー」もいい作品だが「ミッシング・リバー」の方が傑作である。)ポール・トーマス・アンダーソンも「ブギーナイト」で賞をもらえず、今回ももらえない。でも、次はきっと賞を獲得する。その作品が、今回を上回る傑作であるかどうかは、予測がつかない。これを上回る作品が出てくるのは、たぶん奇跡である。この作品そのものが奇跡だからである。傑作である。何度でも書きたい。ほんとうに傑作である。
「ノーカントリー」は見逃してもいい。DVDで見てもいい。しかし、この映画はスクリーンで見ないと、映画を語れない。そういう傑作である。
冒頭の音楽とダニエル・デイ・ルイスの手にびっくりさせられる。ひっぱりこまれる。映画は音楽と映像でできている。その至福が冒頭からやってくる。不安が緊張に高まって輝く音楽。それを背景にして石まみれ(泥まみれというやわらかさはない)の手。役者の手ではない。大地を掘り進むつるはしのような手である。この手で、つまり肉体そのものでダニエル・デイ・ルイスは金(きん)を手に入れ、石油を手に入れ、金(かね)を手に入れる。石油に比べると、金(かね)なんてなんでもない。ふにゃふにゃしている。ふにゃふにゃはその手触りのよさで、手を解放する。手から労働を解放する。そのふにゃふにゃ、ふにゃふにゃの夢ににつられて農家(地主)たちはふりまわされる。いいようにあしらわれる。ダニエル・デイ・ルイスも金を手にするけれど、そんなものはふにゃふにゃだと知り尽くしている。手が、大地が、手と大地の戦いこそがすべてなのだと知っている。その剛直な戦いを象徴する、激しく、強い音楽である。映像も、ダニエル・デイ・ルイスの手だけではなく、すべてが固い。スクリーンにうつっているというよりも、強固な岩盤に切り刻まれている映像という印象である。冒頭から、大傑作なのである。これから起きることがすべて語られているような一瞬がそこにあった。
ダニエル・デイ・ルイスの演じる役所は極悪人である。金(かね)を、金になる石油を追い求めている。だれも信用していないようである。野卑である。欲望の固まりである。平気で嘘をつく。嘘のためにこどもも利用する。ひとも殺す。その一方で「家族」をもとめている。絆を探している。矛盾している。--それなのに、ひきつけられる。冒頭の手について書いたが、その肉体の、労働をくぐり抜けてきた力、大地と戦ってきた力が反映されている肉体の強さに引きつけられる。
この肉体があってはじめて、大地も大地足りうる。石油を噴出させ、火を吹く。ひとの命を奪う。大地もまた地球という存在の「肉体」なのだということがわかる。
ダニエル・デイ・ルイスの肉体が大地そのものになっている。その奥には石油のように欲望が、愛憎が、矛盾がどろどろとしたまま眠っている。それが匂うのだ。オーラとなってあふれるのだ。とてもいやな人間なのに、ひかれてしまう。夢中になってしまう。こんな人間にはなりたくない、などと思う余裕もなく、その強さにひきずられてしまう。引き込まれてしまう。
ダニアル・デイ・ルイスが石油が眠る大地に吸いよせられていくように、私は、ダニエル・デイ・ルイスの肉体に吸いよせられていく。細身の体が大地と素手で戦うことでとてつもなく強靱になっている。その細い体の中から、欲望が、愛憎が、洗練されず、(精製されず)、原油のまま、真っ黒のままあふれてくる。時には火を噴き、ダニエル・デイ・ルイス自身を破壊して噴出する。そういう感じが、一瞬一瞬、一刻一刻、スクリーンにあふれる。ほとんど出ずっぱりで、スクリーンそのものをひっぱって行く。ひっぱって行く--というのは、映像としてだけてはなく、ほんとうに、石油の眠る大地へ、荒野へ、海へ、街へ、文字通りひっぱってゆく。スクリーンにそれぞれの場所が映し出されるのではなく、スクリーンがダニエル・ダイ・ルイスとともに異動していくのである。
このダニエル・デイ・ルイスの肉体にポール・ノダのことば(宗教)が絡む。肉体と宗教はぶつかりあう。どちらも相手を偽物(信頼できないもの、生きるために命が利用するだけのもの)と考えている。反対のものであるだけに、相手が、すべてわかる。肉体が欲望なら、宗教も欲望である。肉体が鍛えられて美しいなら、宗教も鍛えられて美しい何かである。だが、鍛え上げられて美しい何かというのは、それが肉体であれ、精神であれ、普通の人間の何かとは違う。はりつめた緊張。そのなかにしかない矛盾の力のようなものが、その美を動かしている。
そして、この肉体と宗教という相反するものが「家族」のなかで、ぶつかり、「家族」を破壊して行く。「家族」ではなく、人間をひとりの人間そのものに引き戻す。孤独に引き戻す。孤独を、肉体と、宗教とが、矛盾しながら引き受けるのである。
そして、その矛盾を、音楽が増幅する。役者のことばかり書いたが、この映画の音楽はとてつもない。何が起きているのかわからない。まるでダニエル・デイ・ルイスの肉体のように強靱なのである。そこから不安と緊張と暴力と血があふれてくる。
この映画の強さに、私はたじろいでいるままである。私は、まだこの映画と真っ正面から向き合ってはいない。ただ圧倒されている。圧倒されるままに、論理も何も考えず、ただことばを書いている。私のなかでことばがいつか整うことがあるかもしれないけれど、それまで待っていられない。
傑作である。ほんとうに傑作である。
アカデミー賞をとった「ノーカントリー」もいい作品だが、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の方がはるかに優れている。コーエン兄弟は「ファーゴ」で作品賞を取り損ねている。だから、今回賞がまわってきたのかもしれない。(アカデミー賞は、いつでも後手後手で賞を送っている。イーストウッドの「ミッシング・リバー」は賞を逃した。そして、次の「ミリオンダラー・ベイビー」で賞を獲得している、という風に。もちろん「ミリオンダラー・ベイビー」もいい作品だが「ミッシング・リバー」の方が傑作である。)ポール・トーマス・アンダーソンも「ブギーナイト」で賞をもらえず、今回ももらえない。でも、次はきっと賞を獲得する。その作品が、今回を上回る傑作であるかどうかは、予測がつかない。これを上回る作品が出てくるのは、たぶん奇跡である。この作品そのものが奇跡だからである。傑作である。何度でも書きたい。ほんとうに傑作である。
「ノーカントリー」は見逃してもいい。DVDで見てもいい。しかし、この映画はスクリーンで見ないと、映画を語れない。そういう傑作である。
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