詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

 広岡曜子「春の嵐」

2008-05-19 10:40:40 | 詩(雑誌・同人誌)
 広岡曜子「春の嵐」(「ことのは」2、2008年04月25日発行)
 広岡のことばは繰り返す。反復する。ことばは現実を反復するもの--といってしまえばそれまでだけれど、現実をことばで反復し、そのことばをもう一度反復する。そうすることで、無意識で向き合っていた現実・現実と向き合っている無意識--その奥の方へ静かに身を沈めていく。その静けさが、あ、これは反復することで、繰り返し同じものをみつめることでつかみ取った何かなのだという印象を確かなものにする。
 「春の嵐」の全行。

いやなことがあると
私は猫に逢う
いきなり背中から猫を抱きしめる

猫の
ふわりとまるい背中に顔をうずめて
いっしょに
ゆっくり ゆっくり
息をする

気まぐれな桜が一枚
灰色の屋根に舞い落ちる
猫といっしょに
その不思議なものをみつめる

風の流れる方向に
ふたりして首をかたむけ

そうして
いつしか私も
まるい背中になって
「居る」ということそのものになって
猫の喉の奥のほうで鳴り響く
安らぎに
身をまかせていく

 2連目の「ゆっくり ゆっくり」の繰り返し。何でもないことばのようであるけれど、これが「ゆっくり」と一回だけだったら、広岡のことばは動いて行かない。くりかえすことで、ゆっくりを確認する。そうすると「いっしょに」がとけあう。一体になる。一体にはならない別の存在、舞い散る桜の一枚が、「私」と「猫」の一体感をさらに強くする。だからこそ、3連目で「猫といっしょに」と「いっしょに」がもう一度反復される。反復することで、しっかりと現実のなかにある「一体感」を確認する。その結果、

風の流れる方向に
ふたりして首をかたむけ

 「私」と「猫」とで「ふたり」。国語の教科書からは逸脱した数の数え方(単位の取り方)にたどりつく。こういう乱れがあって、はじめて、

「居る」ということそのものになって

 という「哲学」のようなことばが生まれる。「哲学」というのは、乱れである。それまでのことばがうまく語れないこと、それを何とか別のことばで言い換えようとして乱れてしまうことば。乱れることで、いま、ここ、ではない深みへ(あるいは高みへ、さらには広がりへといってもいいけれど)、動いて行くことである。
 こういう動きへたどりつくために、広岡がとる方法が「繰り返し」「反復」である。

 「桜」にもおなじような繰り返しがある。

黒光りする古い虫籠窓のその奥で
とんとん……
と、狭い箱段をあがっていく若き日の母の白い足首

(略)

とんとん とんとん、と
何本もの傷ついた 旧い町家の暗く急な階段をあがって

 「とんとん」が繰り返される。そのとき広岡の感覚は「耳」だけではない。視覚は、実際には見ていないけれど「白い足首」を見ている。かつて見たものを思い出し、そのいま、実際にはみていないものが、「音」といっしょに動いている。この聴覚と視覚の融合は、さらに「母」の、そして「女」の時間へと重なって行く。京都の町の女たちの生き方、暮らしへと重なって行く。(詩には書かれているけれど、長くなるのでここでは省略)
 広岡にとって繰り返すこと、反復することは、いま、ここを超えて、いま・ここにはない真実(ここにはないけれど、ここの「奥」には常に生きている真実--哲学)を抱きしめている。





落葉の杖
広岡 曜子
詩学社

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