詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎「キツネ その二」

2008-05-25 01:30:53 | 詩(雑誌・同人誌)
 時里二郎「キツネ その二」(ロッジア」2、2008年05月31日発行)

 時里のことばは虚構を追いかける。そして、その虚構のなかで、虚構と現実がひっくり返る。虚構はことばでできているが、虚構をていねいにていねいに、さらにていねいに築き上げていく内に、ことばの方が現実をうわまわってしまい、ことばこそが現実であり、そのことばを動かしている「私」の方が虚構なのではないか、というところまで進んでゆく。

 ぼくは口に出しはしなかったが、彼の言葉を継いで、もっとやっかいな推論にたどり着いていた。本が作り上げたものがしばしばぼくたちの前に現れるということは、ぼくたちもまた、本を蔵した空間に巣くう世界の残像ではないのかと。

 こうした文学のなか(ことばのなか)で世界の虚構と現実が逆転するという作風は時里独自のものではない。中国には夢のなかで蝶を見たのか、それとも蝶が夢見たのかという詩があるし、ボルヘスはその作品に一編の小説も捧げている。
 そうしたことを踏まえて、時里のことばの特徴をあげるならば、時里は、そういうことをはっきりと自覚しているということである。いま引用した行のうちに、その自覚を裏付けることばがある。

彼のことばを継いで、

 ことばを「継いで」ゆく。それが時里の「思想」である。
 ことばを新しくつくりだすのではない。ことばはいつでも、すでに存在している。そしてあらゆることは書かれてしまっている。ギリシャの時代から「もうすべて書かれてしまった。書くことは何もない」という考えは存在している。だから、ことばは書いていくものではない。「継いで」ゆくものなのだ。
 「キツネ その二」という作品は、次のように書きはじめられている。

 ぼくがその大学図書館で初めて与えられた仕事はキツネ探しだった。その旧館の閉架式書庫のなかのどこかに潜んでいる。それを見つけ出してもらいたいというのである。最初は冗談だとばかり思っていた。それが剥製のキツネだと知らされても腑に落ちない話だった。

 ここにすでに、ことばを「継いで」ゆく基本的な姿勢がある。キツネは実際に存在するかどうかわからない。あくまで「腑に落ちない話」の「話」なのである。「はなし」というのは「ことば」である。時里は、この語られた「ことば」(話)を「継いで」ゆくのである。
 現実を追っていくのではない。「話」から出発して、現実を追うというよりは、現実を歪めてゆくのである。ことばのなかへ入っていくのである。なぜ、そんなふうな「話」が存在しうるのか--それを追っていくのである。
 こういう姿勢をさらに強調するのが「閉架式書庫」の「閉」である。「ぼく」は「図書館」という建物のなかの(つまり閉ざされた空間のなかの)、さらに閉ざされたもののなかへ入っていく。「ことば」のなかの、閉ざされたことばのなかの、さらに奥へ奥へと入っていく。けっして外へは出ない。「話」の外へは出ないで、閉ざされたものの内部を、さらに閉ざしながら、ことばを「継いで」ゆく。
 時里にとって、ことばとは何かを開いてゆくものではなく、何かを閉ざすためのものである。閉ざしながらことばを「継いで」ゆくとき、ことばが濃密になる。ことばの空間がびっしり埋められてしまって、外部への出口を一切なくしてしまう。そういう状況に達したとき、その内部は外部と同じものである。外部は内部を「閉ざして」存在する。一方、内部は外部を「開いて」存在する。
 矛盾した言い方になるが、完全に閉ざしてしまうと、外部は内部へは入ってこれない。内部は外部へは出てゆけない。相互に出入りはできなくなる。出入りができなければ、内部も外部もなくなる。相対的なあり方にすぎなくなる。あるのは、ただことばが作り上げた「話」だけである。どちらを「現実」と思うにしても、それは「思う」ときに現れてくるものにすぎない。
 時里がつかっていたことばを借りれば「推論」するときにだけ、外部と内部は現れてくるのであって、そのどちらが外部・内部であるかは、判断する基準がない。
 時里がめざしている「文学空間」は、そういう世界である。そして、その世界をつくるエネルギーというか、運動の基本が「ことばを継いで」ゆくということなのである。

 *

 時里は「『歌稿ノオト』注釈」を書いているが、これもまたことばを「継いで」ゆく作業である。「父」の残したノート。そこに書かれていることばを「継いで」ゆく。注釈とは、時里にとってことばを「継いで」ゆく作業である。分析するのではない。ただ「継いで」ゆく。「継いで」ゆくことで、ことばがどこまで動いてゆけるかを確かめる。
 ことばを「継いで」「継いで」「継いで」「継いで」ゆくとき、そして、それを「継ぎきって」完結したとき、ことばの「内部」は「外部」を上回るのである。
 宇宙は広い。無限大である。しかし、脳もまた無限大である。その内部は宇宙の外部を想像できるほどに大きい。頭蓋骨の内部、その脳の内部が、宇宙を上回るということはあり得るのである。
 宇宙は何も想像しない。ところが人間はことばを「継いで」想像する。その想像は、脳は宇宙よりも広大であり、宇宙は脳の内部に存在するのだという矛盾さえも想像できるほどなのである。そういう世界へ、ことばを「継いで」ゆけば必ず到達できる--時里を突き動かしているのは、そういう思いである。そういう思想である。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする