原子朗「雛まつりの歎語」(「現代詩2008」2008年06月01日発行)
雛祭りの託して「反戦」の願いを書いている。2連目からがとてもおもしろい。
「戦争反対」ということばに異議を唱えるのはなかなかむずかしい。
戦争には反対である。でも、反戦運動には参加したくない。声をあわせて「戦争反対」と叫びながらデモをするのは、なんとなく自分が自分でなくなるような気持ちがする。確かに戦争には反対だけれど、「戦争反対」と叫びながら歩くと、戦争に反対する理由が「自分は戦場へ行って死にたくないだけなのだ」という気持ちをどこかでごまかしている、「正義」を掲げて自分の不正(? 不道徳、不正直)を隠している--そんな感じもする。「世界平和」ではなく、自分の平和を願っている、という感じを、「正義」を旗印にして、みんなでごまかしている、という感じもする。
原の詩は、そういう「正義」の方へは行かない。「正義」を旗印にして、戦争反対とはいわない。自己中心的である。「おとこ」が出てくるが、それは「正義」をふりかざす「男」ではない。「男」という概念になるまえの、もっとやわらかな「にくたい」のまま登場してくる。
そのやわらかな「にくたい」と響きあう「おと」がとてもいい。この詩は「おと」が魅力的だ。「おと」が、ことばを概念になってしまうのを防いでいる。「戦争反対」が「戦争反対」ということばに結晶し、「頭」のなかのことばになってしまうのを防ぎながら、「にくたい」の内部と結びつく。「頭」ではなく、「ほんのう」と結びつく。「怒り」ではなく「わらい」と結びつき、緊張を解きほぐす。
「戦争反対」と声に出して叫ぶことは緊張する。「戦争なんか、いやだよ」とぼそっとつぶやくと、にくたいがゆるむ。そういう感じがいっぱいに広がっている。
「おと」がほんとうにいいのだ。
詩は、あるいはことばは、文字で伝えることもできるが、声で伝えることもできる。原の詩は声で(「こえ」で、とひらがなで書いた方がいいかもしれない)伝える詩である。いっしょに、その場にいて、相手の「にくたい」を見ながら、相手の反応にあわせて「こえ」の調子をかえる。「こえ」の色をかえる。そうやって伝える詩である。(文字で伝える詩は、相手の反応を見ながら「字」をかえる、という芸当ができない。)相手の反応にあわせる、というのはことばを「頭」から「にくたい」へと引き下ろすことでもある。相手の「にくたい」の生きてきた時間(体験)に常に直接触れるようにしながら「こえ」をかえる。
このことば遊び。ことばが「意味」になってしまうのを防ぎながら、ちらりちらりと、まるでおんなが着物のすそを翻して、その奥のやわはだを見せるような、チラリズム。その、ちらりちらりの「おと」。
さらには、
という戯れ口のひびき。
それは「戦争反対」を絶対に「頭」には渡さないぞ、という原の強い意志さえ感じさせる「おと」である。「戦争」というのはいつでも「にくたい」を無視している。「にくたい」の存在を「概念」(数)にしてしまっている。
そういう「概念」から、ことばを奪い返し、「にくたい」のなかで、もう一度、まったく別のことばを鍛え上げる。原の試みていることは、そういうことだと思う。
美しい行はいつくもいくつも出てくる。
私は、この2行が好きだ。
「あふれるあなたのむねのしろざけを」の「あ」「お」(「の」「ろ」「を」に含まれる「お」)の変化が美しい。「おとこのあしのうらにぬめらせ くすぐり」の「おと」のゆらぎが楽しい。「のうらにぬめらせ」の「な行」「ら行」の「おと」の動き、そのときの舌と口蓋のくっついたり離れたりする感触がディープキスのように気持ちがいいし、「くすぐり」というときの舌の動き、濁音「ぐ」のときの喉の奥の広がりも快感である。
ことばの「意味」ではなく、ことばの「おと」が直接、「にくたい」を刺激する。「にくたい」はこんなに楽しく、豊かだと、それこそ「くすぐる」のである。
もとても好きだ。「まいにち いちんち」の「い」の「おと」、そして「いちんち」の口語のひびき。さらに「しろざけ」と「なさけ」の押韻。
たっぷりと酔える詩である。
雛祭りの託して「反戦」の願いを書いている。2連目からがとてもおもしろい。
しろざけをふるまってください
あなたのもものはなをうるませ
おとこたちの血をぬきとってください
骨のずいまで
あふれるあなたのむねのしろざけを
おとこのあしのうらにぬめらせ くすぐり
あなたの乳くびさながらに
あられもないもものあられのあられ星
もう二度と立てなくしてください
あなたがあんまりすがしがおなので
あるいはおとこたちがあなたになれすぎ
もしかしたらあなたがなれすぎ
おとこたちはあなたからはなれていき
鉄のカプセルをそらに発射させようとしています
そしてアンポ インポとわめきあっています
おとこたちの根源 雛よ
いますぐおとこたちをあなたの部屋に
そしていつまでも雛まつりを
まいにち いちんちしろざけを
つよいなさけを
陶酔を
ふくよかなひしもちのまくらを
地上にみたせ
雛まつり
「戦争反対」ということばに異議を唱えるのはなかなかむずかしい。
戦争には反対である。でも、反戦運動には参加したくない。声をあわせて「戦争反対」と叫びながらデモをするのは、なんとなく自分が自分でなくなるような気持ちがする。確かに戦争には反対だけれど、「戦争反対」と叫びながら歩くと、戦争に反対する理由が「自分は戦場へ行って死にたくないだけなのだ」という気持ちをどこかでごまかしている、「正義」を掲げて自分の不正(? 不道徳、不正直)を隠している--そんな感じもする。「世界平和」ではなく、自分の平和を願っている、という感じを、「正義」を旗印にして、みんなでごまかしている、という感じもする。
原の詩は、そういう「正義」の方へは行かない。「正義」を旗印にして、戦争反対とはいわない。自己中心的である。「おとこ」が出てくるが、それは「正義」をふりかざす「男」ではない。「男」という概念になるまえの、もっとやわらかな「にくたい」のまま登場してくる。
そのやわらかな「にくたい」と響きあう「おと」がとてもいい。この詩は「おと」が魅力的だ。「おと」が、ことばを概念になってしまうのを防いでいる。「戦争反対」が「戦争反対」ということばに結晶し、「頭」のなかのことばになってしまうのを防ぎながら、「にくたい」の内部と結びつく。「頭」ではなく、「ほんのう」と結びつく。「怒り」ではなく「わらい」と結びつき、緊張を解きほぐす。
「戦争反対」と声に出して叫ぶことは緊張する。「戦争なんか、いやだよ」とぼそっとつぶやくと、にくたいがゆるむ。そういう感じがいっぱいに広がっている。
「おと」がほんとうにいいのだ。
詩は、あるいはことばは、文字で伝えることもできるが、声で伝えることもできる。原の詩は声で(「こえ」で、とひらがなで書いた方がいいかもしれない)伝える詩である。いっしょに、その場にいて、相手の「にくたい」を見ながら、相手の反応にあわせて「こえ」の調子をかえる。「こえ」の色をかえる。そうやって伝える詩である。(文字で伝える詩は、相手の反応を見ながら「字」をかえる、という芸当ができない。)相手の反応にあわせる、というのはことばを「頭」から「にくたい」へと引き下ろすことでもある。相手の「にくたい」の生きてきた時間(体験)に常に直接触れるようにしながら「こえ」をかえる。
あられもないもものあられのあられ星
このことば遊び。ことばが「意味」になってしまうのを防ぎながら、ちらりちらりと、まるでおんなが着物のすそを翻して、その奥のやわはだを見せるような、チラリズム。その、ちらりちらりの「おと」。
さらには、
そしてアンポ インポとわめきあっています
という戯れ口のひびき。
それは「戦争反対」を絶対に「頭」には渡さないぞ、という原の強い意志さえ感じさせる「おと」である。「戦争」というのはいつでも「にくたい」を無視している。「にくたい」の存在を「概念」(数)にしてしまっている。
そういう「概念」から、ことばを奪い返し、「にくたい」のなかで、もう一度、まったく別のことばを鍛え上げる。原の試みていることは、そういうことだと思う。
美しい行はいつくもいくつも出てくる。
あふれるあなたのむねのしろざけを
おとこのあしのうらにぬめらせ くすぐり
私は、この2行が好きだ。
「あふれるあなたのむねのしろざけを」の「あ」「お」(「の」「ろ」「を」に含まれる「お」)の変化が美しい。「おとこのあしのうらにぬめらせ くすぐり」の「おと」のゆらぎが楽しい。「のうらにぬめらせ」の「な行」「ら行」の「おと」の動き、そのときの舌と口蓋のくっついたり離れたりする感触がディープキスのように気持ちがいいし、「くすぐり」というときの舌の動き、濁音「ぐ」のときの喉の奥の広がりも快感である。
ことばの「意味」ではなく、ことばの「おと」が直接、「にくたい」を刺激する。「にくたい」はこんなに楽しく、豊かだと、それこそ「くすぐる」のである。
まいにち いちんちしろざけを
つよいなさけを
もとても好きだ。「まいにち いちんち」の「い」の「おと」、そして「いちんち」の口語のひびき。さらに「しろざけ」と「なさけ」の押韻。
たっぷりと酔える詩である。