監督 高橋伴明 出演 西田敏行、池脇千鶴
三味線がとても効果的である。とても色っぽい。最後にラジオ体操と「丘を越えて」の伴奏をする。このときが非常にいい。三味線に、この映画のすべてがある。
映画は菊池寛を秘書の目をとおして描いている。そして、その秘書の目というのが三味線の目なのである。若い秘書と三味線を弾かない。しかし、彼女の母は三味線を弾き、その音、そのリズムが若い秘書の肉体になじんでいる。昭和の初期なのだが、女性はまだ着物をきており、そのこころはまだ江戸時代である。その「江戸」を三味線が代弁しているのである。古い。そして古いけれど、新しい音楽を奏でることができる。外から入ってきた音楽を三味線で伴奏する。新しいメロディーと古いこころがいっしょになって動いていく。そのときの新鮮な新鮮な動き。--この映画は、古いこころのまま生きている若い秘書が、それまで知らなかった新しいものに触れる。たとえば文士。菊池寛。そして、その新しいものに触れながら、そのなかにある古いものを発見する。
若い秘書は江戸のこころを持っているがゆえに、菊池寛の江戸のこころをきちんと受け止める。人情。涙。そういうものをしっかり受け止めながら、その古いものが新しい「文学」をつくっていくその瞬間に立ち会う。古いものと新しいものがぶつかりあう瞬間に立ち会っていく。その衝突と、そこから生まれてくるものに、そっと伴奏をそえる。母親が弾く三味線のように。
そこに「色」がにじみでる。「艶」がにじみでる。いいなあ。とても、とても、とても、いい。全面に出るのではなく、伴奏--脇で控える。あるいは、すっと身を引く。それでも隠し通せないものがある。それが「色」「艶」。にじみでる、としかいいようのないもの。粋である。自己主張しないことで、しっかりと存在感を浮かび上がらせる。この「色」「艶」の美しさは、絶品としかいいようがない。
映画では、菊池寛と秘書、文藝春秋の社員の若い男と秘書、菊池寛の運転手と秘書、という三つの恋(いずれも相手は若い秘書)が描かれるが、これも「色」「艶」に花を添えている。そういうストーリーは、すべて三味線のおもしろさを浮かび上がらせる小道具である。三味線が小道具なのではなく、ストーリーが、役者が小道具なのである。このアンサンブルの処理の仕方は、ほんとうにすばらしい。
いつくもすばらしいシーンがあるが、映画のタイトルにもなっている「丘を越えて」を三味線で歌うシーンは、スクリーンで見ているのがもったいない。スクリーンじゃなくて、その音を生で聞きたい。私は思わず席を立ち上がりそうになりましたよ。ほんとうに。生きているというのは、ほんとうにすばらしい。生きているというのは、こんなに色っぽく、艶っぽく、美しいのか--その美しさを、直に見たい、聞きたい、という思いと襲われました。
これは、それにつづく出演者全員での「丘を越えて」のダンスにもつながる。丘の上で、全員でダンスを踊る。そのシーンの美しさ。「 丘を越えて」という曲に託された思いを、出演者が踊って表現する。生きる喜び、生きる願い、命があることの美しさ--そういうものが、ぱあーっと広がる。
私は音痴で歌を歌うことはないが、映画館を出たあと、歩きながら思わず「丘を越えて」を口ずさんでいた。思わず、歌を口ずさみたくなるように、この映画はできている。そしてまた、あ、どこかで三味線を習いたいなあ、という思いにもさせてくれる。
私は不勉強で高橋伴明の映画を見るのは今回が初めてなのだが、こんなにおもしろい監督とは知らなかった。朝鮮へ帰る若い編集者と秘書の最後のダンスのときの、「君を忘れない」という字幕のつかい方も気に入った。粋である。
三味線がとても効果的である。とても色っぽい。最後にラジオ体操と「丘を越えて」の伴奏をする。このときが非常にいい。三味線に、この映画のすべてがある。
映画は菊池寛を秘書の目をとおして描いている。そして、その秘書の目というのが三味線の目なのである。若い秘書と三味線を弾かない。しかし、彼女の母は三味線を弾き、その音、そのリズムが若い秘書の肉体になじんでいる。昭和の初期なのだが、女性はまだ着物をきており、そのこころはまだ江戸時代である。その「江戸」を三味線が代弁しているのである。古い。そして古いけれど、新しい音楽を奏でることができる。外から入ってきた音楽を三味線で伴奏する。新しいメロディーと古いこころがいっしょになって動いていく。そのときの新鮮な新鮮な動き。--この映画は、古いこころのまま生きている若い秘書が、それまで知らなかった新しいものに触れる。たとえば文士。菊池寛。そして、その新しいものに触れながら、そのなかにある古いものを発見する。
若い秘書は江戸のこころを持っているがゆえに、菊池寛の江戸のこころをきちんと受け止める。人情。涙。そういうものをしっかり受け止めながら、その古いものが新しい「文学」をつくっていくその瞬間に立ち会う。古いものと新しいものがぶつかりあう瞬間に立ち会っていく。その衝突と、そこから生まれてくるものに、そっと伴奏をそえる。母親が弾く三味線のように。
そこに「色」がにじみでる。「艶」がにじみでる。いいなあ。とても、とても、とても、いい。全面に出るのではなく、伴奏--脇で控える。あるいは、すっと身を引く。それでも隠し通せないものがある。それが「色」「艶」。にじみでる、としかいいようのないもの。粋である。自己主張しないことで、しっかりと存在感を浮かび上がらせる。この「色」「艶」の美しさは、絶品としかいいようがない。
映画では、菊池寛と秘書、文藝春秋の社員の若い男と秘書、菊池寛の運転手と秘書、という三つの恋(いずれも相手は若い秘書)が描かれるが、これも「色」「艶」に花を添えている。そういうストーリーは、すべて三味線のおもしろさを浮かび上がらせる小道具である。三味線が小道具なのではなく、ストーリーが、役者が小道具なのである。このアンサンブルの処理の仕方は、ほんとうにすばらしい。
いつくもすばらしいシーンがあるが、映画のタイトルにもなっている「丘を越えて」を三味線で歌うシーンは、スクリーンで見ているのがもったいない。スクリーンじゃなくて、その音を生で聞きたい。私は思わず席を立ち上がりそうになりましたよ。ほんとうに。生きているというのは、ほんとうにすばらしい。生きているというのは、こんなに色っぽく、艶っぽく、美しいのか--その美しさを、直に見たい、聞きたい、という思いと襲われました。
これは、それにつづく出演者全員での「丘を越えて」のダンスにもつながる。丘の上で、全員でダンスを踊る。そのシーンの美しさ。「 丘を越えて」という曲に託された思いを、出演者が踊って表現する。生きる喜び、生きる願い、命があることの美しさ--そういうものが、ぱあーっと広がる。
私は音痴で歌を歌うことはないが、映画館を出たあと、歩きながら思わず「丘を越えて」を口ずさんでいた。思わず、歌を口ずさみたくなるように、この映画はできている。そしてまた、あ、どこかで三味線を習いたいなあ、という思いにもさせてくれる。
私は不勉強で高橋伴明の映画を見るのは今回が初めてなのだが、こんなにおもしろい監督とは知らなかった。朝鮮へ帰る若い編集者と秘書の最後のダンスのときの、「君を忘れない」という字幕のつかい方も気に入った。粋である。