野木京子「どの人の下にも」(「スーハ!」3、2008年03月15日発行)
この最後の3行に野木の書きたい「意味」があらわれている。だが、詩は「意味」ではないので、これは単なる「枠組み」をつくってみせたというだけのもの、読者を安心させるための3行だろう。
私は、こういう行が好きではない。それでもこの作品にひかれる。ひかれる行が2か所ある。
しつこく「亀裂」を追い求める、その追い求め方に体温(肉体)を感じる。「引き裂かれた」「隙間」「亀裂」の3つのことばは、どれも同じものを「意味」する。同じものを「意味」するけれど、それはほんとうは違うのである。頭にとっては同じ「意味」であっても肉体にとっては違うのである。そして、その違いは、実は、肉体にはわからない。
私の書いていることは一種の言語矛盾だが、肉体は、「引き裂かれた」「隙間」「亀裂」の3つ状態を感じているが、それを識別できない。実際にそれに触れたときに「引き裂かれた」「隙間」「亀裂」の3つが違うことを感じることはできるが、その違いを誰にも伝えることができない。伝えることができないものがあるからこそ、野木は書こうとする。
そして頭は、とりあえず「引き裂かれた」「隙間」「亀裂」の3つのことばにする。頭はなんだって区別できる。なんだって「わかる」ものとして状況を把握する。9999角形と10000 角形の違いさえ、頭は、ことばとして提出できる。肉体は、敏感に鍛えれば9999角形と10000 角形の違いを感じることはできる。だが、それを具体的にあらわすとなると、同じように肉体感覚をとぎすました人間にしか伝えられない。手触り、光のつやののび方--そういうものを手がかりにして、こっちの方がすべすべ、こっちの方がつややかという具合にしか伝えられない。
そういうほんとうは同じ体験をした人間にしか伝えられないものを、なんとか伝えようとして、他の読者と共有できるものにしようとして、野木は同じことを、同じ「意味」を少しずつ違えることで、「頭」を混濁させ、「頭」を肉体そのもののようにしようとする。
「頭」を混濁させ、人間であることをすてて、もっと原始的(?)なもの、「生き物」というレベルにまで、すべてを解体し、その人間になる前の、「肉体」のうごめき、「生き物」としか言いようのないものにまでなって、「引き裂かれた」「隙間」「亀裂」の3つのことばの差異のなかへ、野木がほんとうに語りたいもののなかへ入り込もうとする。それと直接触れようとする。「這って、地を覗きこんだ」には、そういう肉体の動きがつまっている。
この2行と対照的なのが次の5行。(あるいは3行というべきなのかもしれないけれど。)
「いきもの」のレベルになって存在している「私」に石が語りかける。そのことばの鮮烈さ。「沼」と「天空」が一瞬のうちに交錯する。同じものになる。石はほんとうにそらから降ってきたのか。石はもしかすると地面の底、沼から浮き上がってきたものではないだろうか。たぶん、どちらでも同じなのだろう。ひとつの肉体がある。それを起点にして天空と地面の底の沼がある。地面を起点にして天空と沼がある。「亀裂」とはそのとき「私」であり、「地面」そのものでもある。
「私」が亀裂であり、「地面」が亀裂である。そして、「亀裂」はどこにもない。探しても探しても、ない。ただ感じる。その感じを頼りに、野木は「私」と「地面」を一致させようとする。「生き物」となって地面に「這いつくばる」。接する肉体を増やすことで「一体」になろうとする。そして、それが「一体」となったとき、たしかに「沼」は存在するのだ。
詩、として。「沼」は詩、である。
あ、おもしろいなあ、と思う。ことばが肉体をくぐり、肉体か変質して行く。その瞬間に、たしかにあらわれる詩があるのだと思う。
ただし、最後の3行のように、その詩が「どの人」「にも」あると仮定するのは少し厳しいのではないか。「どの人」「にも」ではなく、野木だけにある、という風になると、これまた言語矛盾でしか語れないことなのだが、それは野木だけのものを超越し、他人にまで(どん人にも、という段階にまで)ひろがって行く。共有されるものになるのではないだろうか。
最後の3行、読者を安心させるための3行が、私には、あまりおもしろくない。ちょっと手抜きをしている、自分の考えを追い込んでいない、という印象が残る。残念だ。
地面の下に蓋をされて沈められた、ずっとずっと下のほう
どの人の下にも
その人の沼が横たわっているのだと
この最後の3行に野木の書きたい「意味」があらわれている。だが、詩は「意味」ではないので、これは単なる「枠組み」をつくってみせたというだけのもの、読者を安心させるための3行だろう。
私は、こういう行が好きではない。それでもこの作品にひかれる。ひかれる行が2か所ある。
都市の、引き裂かれた建物、地面の隙間に(あなたの仕事だから)、亀裂を探して、足を擦る
それで私は片方が潰れた生き物のように、這って、地を覗きこんだ
しつこく「亀裂」を追い求める、その追い求め方に体温(肉体)を感じる。「引き裂かれた」「隙間」「亀裂」の3つのことばは、どれも同じものを「意味」する。同じものを「意味」するけれど、それはほんとうは違うのである。頭にとっては同じ「意味」であっても肉体にとっては違うのである。そして、その違いは、実は、肉体にはわからない。
私の書いていることは一種の言語矛盾だが、肉体は、「引き裂かれた」「隙間」「亀裂」の3つ状態を感じているが、それを識別できない。実際にそれに触れたときに「引き裂かれた」「隙間」「亀裂」の3つが違うことを感じることはできるが、その違いを誰にも伝えることができない。伝えることができないものがあるからこそ、野木は書こうとする。
そして頭は、とりあえず「引き裂かれた」「隙間」「亀裂」の3つのことばにする。頭はなんだって区別できる。なんだって「わかる」ものとして状況を把握する。9999角形と10000 角形の違いさえ、頭は、ことばとして提出できる。肉体は、敏感に鍛えれば9999角形と10000 角形の違いを感じることはできる。だが、それを具体的にあらわすとなると、同じように肉体感覚をとぎすました人間にしか伝えられない。手触り、光のつやののび方--そういうものを手がかりにして、こっちの方がすべすべ、こっちの方がつややかという具合にしか伝えられない。
そういうほんとうは同じ体験をした人間にしか伝えられないものを、なんとか伝えようとして、他の読者と共有できるものにしようとして、野木は同じことを、同じ「意味」を少しずつ違えることで、「頭」を混濁させ、「頭」を肉体そのもののようにしようとする。
「頭」を混濁させ、人間であることをすてて、もっと原始的(?)なもの、「生き物」というレベルにまで、すべてを解体し、その人間になる前の、「肉体」のうごめき、「生き物」としか言いようのないものにまでなって、「引き裂かれた」「隙間」「亀裂」の3つのことばの差異のなかへ、野木がほんとうに語りたいもののなかへ入り込もうとする。それと直接触れようとする。「這って、地を覗きこんだ」には、そういう肉体の動きがつまっている。
この2行と対照的なのが次の5行。(あるいは3行というべきなのかもしれないけれど。)
天空には水鏡なんかなかったさ、と
石たちが声を出した
来る途中にそんなもの、なんにも見なかったさ
私は片方を潰された生き物のように、いつまでも地の縁に這いつくばって
亀裂を覗き込んでいる
「いきもの」のレベルになって存在している「私」に石が語りかける。そのことばの鮮烈さ。「沼」と「天空」が一瞬のうちに交錯する。同じものになる。石はほんとうにそらから降ってきたのか。石はもしかすると地面の底、沼から浮き上がってきたものではないだろうか。たぶん、どちらでも同じなのだろう。ひとつの肉体がある。それを起点にして天空と地面の底の沼がある。地面を起点にして天空と沼がある。「亀裂」とはそのとき「私」であり、「地面」そのものでもある。
「私」が亀裂であり、「地面」が亀裂である。そして、「亀裂」はどこにもない。探しても探しても、ない。ただ感じる。その感じを頼りに、野木は「私」と「地面」を一致させようとする。「生き物」となって地面に「這いつくばる」。接する肉体を増やすことで「一体」になろうとする。そして、それが「一体」となったとき、たしかに「沼」は存在するのだ。
詩、として。「沼」は詩、である。
あ、おもしろいなあ、と思う。ことばが肉体をくぐり、肉体か変質して行く。その瞬間に、たしかにあらわれる詩があるのだと思う。
ただし、最後の3行のように、その詩が「どの人」「にも」あると仮定するのは少し厳しいのではないか。「どの人」「にも」ではなく、野木だけにある、という風になると、これまた言語矛盾でしか語れないことなのだが、それは野木だけのものを超越し、他人にまで(どん人にも、という段階にまで)ひろがって行く。共有されるものになるのではないだろうか。
最後の3行、読者を安心させるための3行が、私には、あまりおもしろくない。ちょっと手抜きをしている、自分の考えを追い込んでいない、という印象が残る。残念だ。
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