詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大橋政人『歯をみがく人たち』

2008-05-14 08:33:14 | 詩集
 大橋政人『歯をみがく人たち』(ノイエス朝日、2008年05月01日発行)
 大橋の詩は過剰な想像力を拒否している。想像力が過剰に動いたあとは、それをしっかりと修正し、平穏へともどってくる。たとえば「命座」。

私たち
一人一人の命というのは
夜空の星の
一つ一つみたいだ

まっ暗で
恐ろしいだけの
宇宙という広がりの中に生まれて

右も左も
前も後ろも
上も下もわからず
かぼそい光を発している

さみしいので
互いに手を伸ばす

みんな
無闇に手を伸ばす

手と手を
やっとつなぎ合って
鳥とか
犬とか
熊とか
何かの形
のようなものをつくろうとするが

どの形にも
どこか
無理がある

コジツケ
みたいだ

 想像力を「コジツケ」と呼んで拒絶する。
 想像力が、ことばが、どこまで動いて行けるか追求する「現代詩」とは違っている。かといって、大橋に想像力がないのかといえば、そうではない。「私たち/一人一人の命というのは/夜空の星の/一つ一つみたいだ」という比喩は想像力が産み出したものだし、その比喩の射程(ことばが動いて行ける距離)をことばで追い求める2連目以下はことばの可能性、想像力の可能性を追求しているということもできる。
 大橋は、ただし、そういう追求におぼれない。どこかで想像力を追い求めすぎると人間が人間でなくなる、と考えているのかもしれない。
 6連目に「つなぎ合って」ということばがある。大橋のキーワードは、たぶん、この「つなぎ合って」(つなぐ)である。想像力とは、何かと何かをつなげることだが、そのつなぎ合いにはある一定の「尺度」が必要である。何でも「想像力」でつなげればいい、というものではない。
 この詩のなかでは、大橋は「手」を「つなぐ」ものとして取り上げている。「肉体」である。「肉体」でつなぎ合うものは信じることができる。けれど、その「つなぎ合って」が「手」を離れ、空想になると「コジツケ」と感じる、ということだろう。
 「肉体」の及ぶ範囲に想像力を限定し、そこから人間をみつめていくのである。それが大橋の詩である。

 「つなぐ」を中心に大橋の作品を見ていくと、もう一つの特徴が見えてくる。大橋の「思想」が見えてくる。「下から上へ」は独り暮らしの男が、電気をつけたり消したりしながら1階の部屋から2階の寝室へ移動し、眠るまでを描いている。
 その最後の部分。

家の中に
男一人だけの日の夜は
明るさと暗さが断崖のようになっているので
ていねいに電気をつなげていく

一つ消し
一つつけて
人間とともに
明かりが下から上へと動いていくのが
外からも見えるかもしれない

 「ていねいに電気をつなげていく」の「ていねいに」が大橋の「思想」である。手順を整えて、つなぎ目をしっかりさせる。絶対に「つなぎ合って」が崩れないように、無理な(コジツケめいた)ことをしない。その「ていねいさ」は男の内部でのことである。大橋の内部でのことである。
 しかし、その「ていねい」がほんとうにていねいであれば、それは内部にとどまらない。「外からも見える」ものにかわる。「ていねい」は見えるのである。ここに大橋の、日常に対する祈りと願いが結晶している。

 こういう思想、「ていねい」な思想は、現代には不向きかもしれない。誰にも通じずに、ていねいさだけが、何もできずに漂うことになるかもしれない。それは悲しいことかな? そうでもないかもしれない。それでいいのだ、と大橋は、ていねいさが漂ってしまうことを受け入れている。
 そのことを象徴するのが「春」である。全行、引用する。

春には毎年
先を越されてばかり

どっちから来るのか
わかっていれば
遠くまで
出迎えに行くことだってできる

あしたとか
あさってとか
その次の午前九時とか
いつと言ってくれれば
心の準備の一つや二つ
あろうというものだが

春は
いつだって断りなし
気がついたら
もうここに来ている

気がついたときは
すっかり春に囲まれていて
万事休す

降参の格好で
両手を挙げてフラフラ

あっちへ後ずさり
こっちへ後ずさり

 「ていねい」を大橋は「心の準備」と言い換えている。「ていねい」とは「心」がこもっているかどうか、ということなのだ。「心」とは、具体的には? この詩では「出迎え」という表現で言いなおされてもいる。「ていねい」とは「こころ」、「こころ」とは「出迎え」--「ていねい」とは、誰かを(何かを)「出迎え」(受け入れる)準備のことなのである。誰かを、何かを、出迎え、しっかりと「つなぎ合う」。そういう生活、そういう日常。それを、大橋は、ことばを「ていねい」に「つなぎ合」わせて、詩に定着させている。
 とても気持ちのいい詩集である。




春夏猫冬
大橋 政人
思潮社

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ワン・チュアン監督「トゥヤーの結婚」

2008-05-14 00:48:48 | 映画
監督 ワン・チュアン 出演 ユー・ナン

 この映画の美しさを伝えることばを私は持っていない。
 どんなふうに書きはじめたらいいのかも見当がつかない。冒頭、結婚式(披露宴)の最中に、主人公トゥヤー(ユー・ナン)が宴を抜け出す。外でけんかする子供を仲直りさせようとして、うまくいかず涙を流す。その涙が、とても奇妙に見えた。少しも悲しい感じが伝わってこない。ユー・ナンという役者のことも知らないし、ワン・チュアン監督の映画を見るのも初めてである。素人(内モンゴルのほんとうの遊牧民)をつかって作られた映画かと思った。ようするに、「へたくそ」と思ったのである。
 そして、画面がかわって、トゥヤーがラクダに乗って羊を追ったり、水を汲んだり、お茶をわかしたりするシーンを見ると、ますます素人をつかって作っている映画という感じがしてくる。トゥヤーがあまりにも大地に似合っている。それも、溶け込む、というのではなく、大地と対等に向き合っている。荒涼とした大地、羊を飼いつづけて来た女、女手ひとつで子供の面倒を見て、歩けなくなった夫の面倒も見ている。苦しい生活に耐えて、その耐えてきた力が、まるごと肉体になっている。顔を覆う紅いスカーフ、分厚い茶色のコート、いかつい長靴。そういうものがあまりにもぴったり身についている。彼女が乗りこなしているラクダも、すっかり彼女の肉体の一部になっている。役者とはとても思えない。実際に内モンゴルで遊牧をしている女性でなくては、こんなふうにはスクリーンに映し出されないだろうと思う。生活感、というより、存在感が違うのだ。圧倒的なのだ。
 そのトゥヤーは再婚相手を探している。夫が歩けなくなってしまったので、夫といっしょに暮らすことを条件に結婚してくれる相手を探している。奇妙な話で、奇妙ゆえに「実話」という感じがする。そのうえ、その再婚相手との見合い、やりとりが、またとても生々しい。トゥヤーのかたくなな態度、夫といっしょに結婚--というような虫のいい(?)条件を受け入れる相手などいそうにないのだが、それでも絶対に条件を譲らないという態度が、非常に生々しい。笑いだしたいくらいに、生々しい。目の前で、素人の実生活を見ているような、不思議なおかしさがある。そして、ユー・ナンには、そのおかしさを、だからどうした、ほんとうのことなんだ、と言ってのけるような強さがある。清潔感というか、凛とした輝きがある。
 これに似た映画を探すとすれば、チャン・イーモー監督、コン・リー主演の「菊豆物語」だろうか。中国の現実の生活と、それに真っ正面から向き合って自己主張する女のたくましさ、たくましさがひきだすユーモア。そういう感じがいつもあふれている。スクリーンにあるのは、架空ではなく、現実だ、という感じがする。
 それに圧倒される。
 そして最後。トゥヤーは隣の男と結婚する。その男はだらしない(?)男で、妻のいいなりになっている男である。男の妻は、いつも浮気をしている。浮気をされても、なお妻のいうがままになっている男である。何人かの再婚相手を拒絶し、トゥヤーはその男と再婚することになるのだが、見方によっては、結局それしか選択肢はなかったのか、という思いになってしまいそうな映画である。それしかなくて、トゥヤーはトイレでひとり涙を流しているのだ--という映画になってしまいそうである。
 ところが、私のストーリーだとそういう紹介になってしまうのだが、実際に映画を見ると、そうではなく、最後がとても幸福な気持ちになる。悲しい涙、へたくそな演技の涙ではなく、安心の涙だと気がつく。あ、こういう安心があるのだ、ということに驚かされるのだ。これが「母の愛」だと気づかされ、はっと胸を打たれるのである。
 トゥヤーの願いは一つ。家族全員、愛した人全員にただただ生きていてほしいということ。それがやっと実現して、トゥヤーは涙を流す。それまでこらえていた涙を流す。どんな苦労のなかでも流さなかった涙を流す。
 披露宴で酔いつぶれる前の夫。それは前の夫自身が、妻とこれからもずーっといっしょにくらしていけるという安心からの酔いである。このシーンの前に、施設で泥酔して自殺を図るシーンがあるが、そのときはどれだけ酒を飲んでも酔えなかった。不安だから、酔えなかった。それがいまは、祝宴の少しの酒で我を忘れるくらい酔っている。一方で、息子と新しい夫の息子は兄弟げんかをしている。結婚式・披露宴なのに、そんなことには関係なくけんかをしている。「お父さんが二人いるなんて変だ」と言われて、困ってしまってけんかしている。それは見方によっては不幸の始まりだけれど、トゥヤーはそうは考えないのだ。けんかするというのは兄弟にとってありきたりのことである。本心をぶつけあうからこそけんかがはじまる。もう「家族」がはじまっているのだ。それを実感して、トゥヤーは涙を流す。ああ、家族がみんな生きている。それは安心の涙だ。
 冒頭の涙で感じた違和感。へたくそな演技。それは、そうではなかった。うますぎたのだ。安心の涙があるなどと、私は想像していなかった。最後の最後になって、安心の涙、その頬の輝きに触れ、びっくりし、とても幸福な気持ちになった。
 そして、素人のかたくなな顔に見えていたユー・ナンが突然美人に思えてきた。あらゆる瞬間の一途な堅苦しさ、主張の強さ--それはすべて「母」の愛ゆえだったのだ。「家族」全員を絶対に手放さない、という決意が彼女を強固にしていたのだ。その強固さを、それまで私は勘違いしていたのだ。
 母になることで女性は美しくなる。母になる瞬間、あらゆる女性は凛として輝く。--という言い方は平凡かもしれない。しかし、そう思った。こういう「母」がいて、人間の暮らしはつづいて行くのである。大地に根を張って生きて行けるのである。ユー・ナンはそういう女性を具現化していた。完璧な演技である。映画も傑作だが、ユー・ナンの演技こそ、映画を貫く芯である。



この映画と比較してみよう。


菊豆

パイオニアLDC

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