大橋政人『歯をみがく人たち』(ノイエス朝日、2008年05月01日発行)
大橋の詩は過剰な想像力を拒否している。想像力が過剰に動いたあとは、それをしっかりと修正し、平穏へともどってくる。たとえば「命座」。
想像力を「コジツケ」と呼んで拒絶する。
想像力が、ことばが、どこまで動いて行けるか追求する「現代詩」とは違っている。かといって、大橋に想像力がないのかといえば、そうではない。「私たち/一人一人の命というのは/夜空の星の/一つ一つみたいだ」という比喩は想像力が産み出したものだし、その比喩の射程(ことばが動いて行ける距離)をことばで追い求める2連目以下はことばの可能性、想像力の可能性を追求しているということもできる。
大橋は、ただし、そういう追求におぼれない。どこかで想像力を追い求めすぎると人間が人間でなくなる、と考えているのかもしれない。
6連目に「つなぎ合って」ということばがある。大橋のキーワードは、たぶん、この「つなぎ合って」(つなぐ)である。想像力とは、何かと何かをつなげることだが、そのつなぎ合いにはある一定の「尺度」が必要である。何でも「想像力」でつなげればいい、というものではない。
この詩のなかでは、大橋は「手」を「つなぐ」ものとして取り上げている。「肉体」である。「肉体」でつなぎ合うものは信じることができる。けれど、その「つなぎ合って」が「手」を離れ、空想になると「コジツケ」と感じる、ということだろう。
「肉体」の及ぶ範囲に想像力を限定し、そこから人間をみつめていくのである。それが大橋の詩である。
「つなぐ」を中心に大橋の作品を見ていくと、もう一つの特徴が見えてくる。大橋の「思想」が見えてくる。「下から上へ」は独り暮らしの男が、電気をつけたり消したりしながら1階の部屋から2階の寝室へ移動し、眠るまでを描いている。
その最後の部分。
「ていねいに電気をつなげていく」の「ていねいに」が大橋の「思想」である。手順を整えて、つなぎ目をしっかりさせる。絶対に「つなぎ合って」が崩れないように、無理な(コジツケめいた)ことをしない。その「ていねいさ」は男の内部でのことである。大橋の内部でのことである。
しかし、その「ていねい」がほんとうにていねいであれば、それは内部にとどまらない。「外からも見える」ものにかわる。「ていねい」は見えるのである。ここに大橋の、日常に対する祈りと願いが結晶している。
こういう思想、「ていねい」な思想は、現代には不向きかもしれない。誰にも通じずに、ていねいさだけが、何もできずに漂うことになるかもしれない。それは悲しいことかな? そうでもないかもしれない。それでいいのだ、と大橋は、ていねいさが漂ってしまうことを受け入れている。
そのことを象徴するのが「春」である。全行、引用する。
「ていねい」を大橋は「心の準備」と言い換えている。「ていねい」とは「心」がこもっているかどうか、ということなのだ。「心」とは、具体的には? この詩では「出迎え」という表現で言いなおされてもいる。「ていねい」とは「こころ」、「こころ」とは「出迎え」--「ていねい」とは、誰かを(何かを)「出迎え」(受け入れる)準備のことなのである。誰かを、何かを、出迎え、しっかりと「つなぎ合う」。そういう生活、そういう日常。それを、大橋は、ことばを「ていねい」に「つなぎ合」わせて、詩に定着させている。
とても気持ちのいい詩集である。
大橋の詩は過剰な想像力を拒否している。想像力が過剰に動いたあとは、それをしっかりと修正し、平穏へともどってくる。たとえば「命座」。
私たち
一人一人の命というのは
夜空の星の
一つ一つみたいだ
まっ暗で
恐ろしいだけの
宇宙という広がりの中に生まれて
右も左も
前も後ろも
上も下もわからず
かぼそい光を発している
さみしいので
互いに手を伸ばす
みんな
無闇に手を伸ばす
手と手を
やっとつなぎ合って
鳥とか
犬とか
熊とか
何かの形
のようなものをつくろうとするが
どの形にも
どこか
無理がある
コジツケ
みたいだ
想像力を「コジツケ」と呼んで拒絶する。
想像力が、ことばが、どこまで動いて行けるか追求する「現代詩」とは違っている。かといって、大橋に想像力がないのかといえば、そうではない。「私たち/一人一人の命というのは/夜空の星の/一つ一つみたいだ」という比喩は想像力が産み出したものだし、その比喩の射程(ことばが動いて行ける距離)をことばで追い求める2連目以下はことばの可能性、想像力の可能性を追求しているということもできる。
大橋は、ただし、そういう追求におぼれない。どこかで想像力を追い求めすぎると人間が人間でなくなる、と考えているのかもしれない。
6連目に「つなぎ合って」ということばがある。大橋のキーワードは、たぶん、この「つなぎ合って」(つなぐ)である。想像力とは、何かと何かをつなげることだが、そのつなぎ合いにはある一定の「尺度」が必要である。何でも「想像力」でつなげればいい、というものではない。
この詩のなかでは、大橋は「手」を「つなぐ」ものとして取り上げている。「肉体」である。「肉体」でつなぎ合うものは信じることができる。けれど、その「つなぎ合って」が「手」を離れ、空想になると「コジツケ」と感じる、ということだろう。
「肉体」の及ぶ範囲に想像力を限定し、そこから人間をみつめていくのである。それが大橋の詩である。
「つなぐ」を中心に大橋の作品を見ていくと、もう一つの特徴が見えてくる。大橋の「思想」が見えてくる。「下から上へ」は独り暮らしの男が、電気をつけたり消したりしながら1階の部屋から2階の寝室へ移動し、眠るまでを描いている。
その最後の部分。
家の中に
男一人だけの日の夜は
明るさと暗さが断崖のようになっているので
ていねいに電気をつなげていく
一つ消し
一つつけて
人間とともに
明かりが下から上へと動いていくのが
外からも見えるかもしれない
「ていねいに電気をつなげていく」の「ていねいに」が大橋の「思想」である。手順を整えて、つなぎ目をしっかりさせる。絶対に「つなぎ合って」が崩れないように、無理な(コジツケめいた)ことをしない。その「ていねいさ」は男の内部でのことである。大橋の内部でのことである。
しかし、その「ていねい」がほんとうにていねいであれば、それは内部にとどまらない。「外からも見える」ものにかわる。「ていねい」は見えるのである。ここに大橋の、日常に対する祈りと願いが結晶している。
こういう思想、「ていねい」な思想は、現代には不向きかもしれない。誰にも通じずに、ていねいさだけが、何もできずに漂うことになるかもしれない。それは悲しいことかな? そうでもないかもしれない。それでいいのだ、と大橋は、ていねいさが漂ってしまうことを受け入れている。
そのことを象徴するのが「春」である。全行、引用する。
春には毎年
先を越されてばかり
どっちから来るのか
わかっていれば
遠くまで
出迎えに行くことだってできる
あしたとか
あさってとか
その次の午前九時とか
いつと言ってくれれば
心の準備の一つや二つ
あろうというものだが
春は
いつだって断りなし
気がついたら
もうここに来ている
気がついたときは
すっかり春に囲まれていて
万事休す
降参の格好で
両手を挙げてフラフラ
あっちへ後ずさり
こっちへ後ずさり
「ていねい」を大橋は「心の準備」と言い換えている。「ていねい」とは「心」がこもっているかどうか、ということなのだ。「心」とは、具体的には? この詩では「出迎え」という表現で言いなおされてもいる。「ていねい」とは「こころ」、「こころ」とは「出迎え」--「ていねい」とは、誰かを(何かを)「出迎え」(受け入れる)準備のことなのである。誰かを、何かを、出迎え、しっかりと「つなぎ合う」。そういう生活、そういう日常。それを、大橋は、ことばを「ていねい」に「つなぎ合」わせて、詩に定着させている。
とても気持ちのいい詩集である。
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