詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

稲川方人「しきのしるしのしのために」

2011-04-01 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
稲川方人「しきのしるしのしのために」(「現代詩手帖」2011年03月号)

 稲川方人「しきのしるしのしのために」は、不思議な詩である。他の人にとっては不思議ではないかもしれないけれど、私にとってはとても不思議な詩である。私は稲川のことばがとても苦手である。「音」が聞こえないからである。いや、平出隆の詩を読んだあとに稲川の詩を読んだときだけ「音」は聞こえるが、単独で稲川のことばを読んだとき「音」が聞こえない--そういう詩人だった。
 ところが、この詩では「音」が聞こえる、というか、「読む」ことができるのである。
 「音」が聞こえる、ということは私にとっては「意味」がある程度わかる、ということでもある。
 私は「音」が聞こえないと「意味」を理解することができない。別な言い方をすると、聞いたことのある「音」でないと、ことばとしてつたわって来ないということである。
 「文字」では、「意味」がわからないのである。
 私は「音読」をしない。「音読」をしないけれど、「音」が納得できないと、ことばがとても遠くにある感じがして、「意味」が実感できない。
 逆に、「音」がリアルに響いてくると、なんとなく「意味」が「肉体」のなかで生まれてくる。外国語でも、その音を完全に自分で繰り返すことができたとき、何か瞬間的にわかることがある。それに似ている。
 「音」を理解できないかぎり「意味」は絵空事なのである、私にとっては。
 今回の詩は、「音」が近くに響いてきた。「音」が絵空事ではなかった。
 でも……。

雨の降る舗道の立て看板に斜めの影となって震える私の生まれた六月は、
行き過ぎる人間の奥底に幾つもの、
終わりの文字を残そうとしている

 古いねえ。「音」が古くさいねえ。
 そして、この古くさい音の動きは、「いま」ではなく、1970年代を思い起こさせる。
 1970年代、ことばは「意味」の過剰によって世界と向き合っていたように思える。「意味」を増殖させることで世界をリードできると考えていたように思える。ただし、その「意味」を「音」の運動のなかに展開することで「無意味」をつくりだしていた。
 これは楽しかったなあ。
 何を言ってもいいのだ。何を書いてもいいのだ。ことばは書いただけ「意味」を破壊しながら、「無意味」を噴出させ、そのことによって「意味」を新たに生み出していく。
 その結果。
 え、何これ、かっこいいじゃないか。まねしたい。でも、何が書いてある?
 わからないまま、私は、いくつもいくつもコピーしたなあ。
 そのとき、私が「手がかり」としたのは「音」である。「音」の響きである。「意味」が勝手に増殖していく、「意味」を破壊しながらことばが自己拡張をしていくとき、「意味」(論理)は頼りにならない。
 「意味」はあとから考えればいいものだ。「意味」なんて、あとからどれだけでもつけくわえられるものなのだ。
 だから「意味」を追うのではなく「音」を追いかける。好きな「音」、輝かしい「音」を追いかける。それが楽しかった。
 稲川の詩を読みながら、一瞬、そういうことを思い出したのだが、稲川の「音」は「音」であるよりも「意味」が強すぎ、わかってしまう。
 そこに私はつまずく。ちょっと、ぎょっとする。
 それから「リズム」にも違和感を覚える。「肉体」で「音」が動いていない。「頭」で「音」が動いているので、「意味」はきらめくけれど、「音」が肉体を酔わせてくれない。
 あ、これは逆かもしれない。私の書いていることは逆かもしれない。「リズム」が私の知っていることばとあわない。だから、稲川のことばが半分だけわかって、その半分わかっただけ、なんだか気持ち悪くて、いやだなあ、という気持ちが残る。そのいやだなあという気持ちが「古くさい」ということばのなかで結晶するのだ。
 「古くさい」ということばで、稲川の詩を拒絶したいんだな、きっと。

 でも、この書き出しの3行は、ほんとうに変なリズムじゃない? こんな頭でっかちなリズムで声を出せる人、いる? 読点が1行目の最後にあるけれど、息がつづく? 一息で読むとき「肉体」のなかで音がばらばらになり、苦しくならない? 「音」なのに、「音」にする先から「音」を忘れてしまうなあ。「意味」に頼らないと、思い出せないなあ。
 2行目、3行目も「行き過ぎる人間の奥底に幾つもの、/終わりの文字を残そうとしている」のリズムの「わざと」の乱れが気になるなあ。普通なら「行き過ぎる人間の奥底に/幾つもの終わりの文字を残そうとしている」でしょ? わざと読点「、」と改行を「意味」からずらし、「音」を強調している。
 「音」ではないものを「音」にしようとしている。

ひととおり生死に馴染んだ世代がそれぞれの声の最後から列車に乗り移り、
緑深い異郷を過ぎて行った頃
悲しい音階から命の指を数え折る風景のように、
いまだ若い樹々の葉影のけものたちが肌を少し少し失っていく

 気持ちが悪い。とても気持ちが悪い。「意味」を担っている量(意味の量)が少ない「ひととおり」「それぞれ」「ように」「いまだ」が、不気味な低音で響いてきて気持ちが悪い。「少し少し」が気持ちが悪い。
 「緑深い異郷」とか「悲しい音階」という70年代の「音」のあいだを押し広げるようにしてリズムを狂わせる、「ひととおり」「それぞれ」「ように」「いまだ」「少し少し」が気持ちが悪い。
 稲川の書こうとしていることは、「少し少し」という「音」のなかにあるものかもしれないけれど、まいるねえ。
 この連載が詩集になっても、私は、あるページをちらっ、また別のページをちらっという具合にしか読むことしかできないだろうなあ。
 やっぱり平出隆の詩とセットでないと、私には稲川の詩は読めないなあ。平出の詩が、いま、読みたくて読みたくししようがない。



 あ、書き忘れていた。「しきのしるしのしのために」は「四季の印の詩のために」だろうか。この「音」の動きは、また不気味だねえ。「死期の印の詩のために」かもしれないけれど、「音」のリズムがどうにも我慢ができない。「音」が聞こえるだけに、よけいにいやな感じが残る。

 私は稲川の詩が嫌い--というだけのことなのかもしれないけれど。



稲川方人全詩集1967‐2001
クリエーター情報なし
思潮社
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ソネット 1

2011-04-01 13:59:18 | ソネット
ソネット 1

ドアが開いた、ぬるい風が吹き込んだ。
ちいさなコップのなかで倦怠が輝いた。
四月、誰かがかすれた声でわらった。
君は目を閉じて何も聞かなかったふりをした。

ちいさなコップのなかで倦怠が輝いた。
なつかしい花の欲望のように。
君は目を閉じて何も聞かなかったふりをした。
すべては知っていたことだから。

なつかし花の欲望のように。
あるいは失なうものがある快楽のように。
首筋に触れて花弁は崩れる。

あるいは失なうものがある快楽のように。
離れていくのは、より強くひきよせるため。
首筋に触れて花弁は崩れた。
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