詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵「鳰(にお)」

2011-04-20 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵「鳰(にお)」(「二人」290 、2011年04月05日発行)

 粒来哲蔵「鳰(にお)」は徘徊僧浄因を描いている。--と書いて、いいかげんなことを言うようだけれど、その僧が実際にいたひとかどうか私は知らない。そして、実際にいたとしても、粒来の書いている僧が、僧の実際を書いているのかどうかは、あまり関係がない。書くことで、僧を超えて、ことばとして存在してしまうのだ。現実に生きた僧ではなく、ことばの運動として昇華した僧をみる。いや、僧が、現実を超越して、ことばに昇華し、結晶する、その過程が強く印象に残る。

 徘徊僧浄因は、身辺を嗅ぎ回る犬の形で自らも地を嗅ぎ、腐肉を掘
り、骨を齧って産土を周回することから始め、やがて鼻先を他者に向
けてその思惑を先読みし、他所のはぐれ女に偽りを仕掛けてその夢を
喰らい、すがりつく手を払い足を蹴って迷走するうち、身はひとりで
に疥癬の痕も消え、両の手はひとりでに季節の風を祈る仕種をとるよ
うになった。彼はにわかに破れ衣の裾をつくろい、にわかおぼえの経
文を口ずさむふりをした。

 僧よりもことばが印象に残るのは、粒来の文体が強靱だからである。最初の文章は、僧が「犬」から「僧」への変化を描いているが、粘着力があり、持続力がある。その粘着・持続がことばをがっしりしたものに変えるのである。僧も姿を変えるが、ことばもことば自身の骨格を変えて強靱になっていく。
 粘着力、持続力を具体的に指摘すると……。
 まず「犬」が登場するが、その犬は「嗅ぎ回る」形をとる。嗅ぎ回るとき、犬は何をつかうか。「鼻」である。その「鼻」は「地を嗅ぐ」ことから、「他者の思惑」を読むことへと動いていく。このとき「嗅ぐ」は「読む」ということばに変わっている。「思惑を嗅ぐ」「思惑を読む」。それはどちらも常套句としてつかうが、国語のなかにある常套句にひそむものを掘り起こしながら、ことばは「自然」な形をとる。地を嗅ぎ回ることから、人間の思惑を読むという変化が、国語の常套句を潜り抜けることで、自然な変化として成立する。(ここに粒来自身のことばの力の根拠があるのだが、省略。)
 そして「嗅ぐ」(犬)から「読む」(人間)、「地」(犬)から「思惑」(人間)とことばそのものは一種の昇華というか洗練というか、人間的なものになるのだが、そこでの「肉体」の行為はそれとは逆向きに「人間」から「犬」へと引き返す。つまり、女を地を掘り起こすように掘り起こして、その内に秘めた「夢を喰ら」う。それは犬が地を掘って腐肉をあさる姿に似ている。
 ここには上昇(昇華)する運動と、逆に降下(沈下)する運動が硬く結びついている。その結びつきのなかに粘着と持続が同居する。ことばは先へ先へと進むが、それは「過去」を別の形で引き継ぎながら、「過去」を掘り進むようにして動くのである。
 ほしいものを喰うだけ喰ってしまうと、ことばは(僧は、と言い換えると僧の「伝記」「評伝」になる)、その「いま」であり、「過去」であるものを捨てて、別なものに変身しようとする。
 この過程に「ひとりでに」ということばが2回つかわれている。これは、とてもおもしろい。
 粒来は、このことばの運動(僧の運動と言ってもいいのだが)を「ひとりでに」動いているものとしてとらえている。ことばや「肉体」(人間)は「ひとりでに」動くものなのである。「いのち」は「ひとりでに」動くものなのである。
 この「ひとりでに」が粒来の「思想」(肉体)である。キーワードである。キーワードというのは普通はことばになってあらわれない。隠れている。そして、ある瞬間、ことばの運動が「飛躍」する瞬間、瞬発力が足りないと感じたとき、「肉体」の奥から知らないうちに(無意識に)飛び出してくるものなのである。「ひとりでに」が無意識であるというのは、粒来が続けて2回つかっていることからもわかる。粒来は2回書くつもりはなかっただろう。しかし、書いてしまったのだ。
 キーワードは普通は書かれない。そして、この詩の最初の部分にも、その書かれない「ひとりでに」がある。たとえば「犬」(地を嗅ぐ)から「人間」(思惑を読む)への変化の瞬間、粒来は「やがて」ということばをつかっているが、それは時間がたつうちに「ひとりでに」と同じである。「やがて」とぼんやりした時間とてし書いてしまうのは、その変化が「無意識」でおこなわれたこと、どの瞬間とはっきりいえないこと、それが「ひとりでに」そうなってしまったことをあらわしている。
 そしてこの「ひとりでに」のなかには、ことばに限っていえば、先に書いたことの繰り返しになるが、「思惑を嗅ぐ」(思いを嗅ぐ)「思惑を読む」という国語がもっている「いのち」がある。国語が動きながら自然につかみとった「肉体」がある。それが「ひとりでに」動いて、粒来のことばとなっている。これは主語を国語ではなく粒来にすると、粒来の「肉体」のなかにある国語を粒来が「ひとりでに」(無意識に)動かしているということである。

 無意識に動かせる国語をどれだけ豊かにもっているか--たぶん、そのことが詩人や作家の豊かさ(力量)につながっていくのだと思うが、粒来はそういう「無意識の国語」、「ひとりでに動く国語」を「肉体」のなかに抱え込んでいる。「ひとりでに動く国語」が「肉体」として存在している。「ひとりでに」のなかに、粘着力と持続力があるのだ。粒来のことばは「ひとりでに」、過去を引きずり、過去を掘り返し、未来へと暴走する。

 詩は、簡単に(寓話的に)要約すると、僧が観音像と出会い、その観音像に母を見出し、犬を真似たように母の形を真似ているうちに、正面から向き合うことになり、性交してしまう。性交しながら、鳰が卵を見守っている幻をみる。その鳰は母である。そうであるなら、卵は僧自身である。--その幻の瞬間、僧は自身の生涯を知り、射精し、果てる。そしてその瞬間観音像のある堂は火事になる。焼け跡には僧の白骨と観音像の焼杭が残される。
 「ひとりでに」過去を引きずり、過去を掘り返し、未来へと進むという形が、この詩の寓話そのものとなって結晶している。
 この寓話の構造ささえているのは、粒来の精神であるけれど、それは粒来の精神であって、粒来の精神ではない。粒来が獲得した国語の肉体でもある。粒来のことばの肉体が「ひとりでに」動いて、そういう寓話に結晶するのである。「ひとりでに」動いていくことば--それをもった詩人の強靱な「肉体」をまざまざと感じる文体である。




粒来 哲蔵
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナボコフ『賜物』(43)

2011-04-20 12:01:55 | ナボコフ・賜物

 水たまりに藁が一本浮いていて、二匹の糞虫が互いに邪魔し合いながらしがみついていた。彼はその水たまりを飛び越え、道端に靴底の跡を刻み込んだ。なんとうい意味ありげな足跡だろう、いつまでも上を向いたまま、消え去った人間の姿をいつまでも見ようとしている。
                                (124 ページ)

 この部分が原文どおりであるかどうか、私は知らないが、ナボコフの文章がにぎやかなのは、ここにみられるような「主語」の交代が頻繁にあるからかもしれない。
 特に印象的なのは、「足跡」が主語になった部分である。足跡が、「いつまでも上を向いたまま、消え去った人間の姿をいつまでも見ようとしている。」とまるで意思をもった存在であるかのように書かれている。
 「……しているように見える」と書けば、「彼には……見える」になるのだが、この構文では風景の印象が弱くなる。それは単に彼にそう見えただけのものになる。「彼に」を省略ではなく、拒絶し、「足跡」そのものを「主語」にするから風景が動きだすのだ。


ナボコフ伝 ロシア時代(上)
B・ボイド
みすず書房
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする