詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩木誠一郎『流れる雲の速さで』

2011-04-17 23:59:59 | 詩集
岩木誠一郎『流れる雲の速さで』(思潮社、2011年03月15日発行)

 岩木誠一郎『流れる雲の速さで』は美しい詩集である。ことばが、ことばを裏切らない。
 「夜の舟」の1連目。

月の光に濡れる夢のほとりで
くりかえし古い地図を眺める
まだ見ぬみずうみの名を
そっと口にするとき
かすかに波立つ湖面を
遠ざかろうとする舟の影がある

 書かれている「情景」が美しいというよりも、ことばとことばの呼応の仕方が美しい。そして、その美しさはことばの伝統を踏まえていることから生まれる美しさである。ここには乱調がない。
 たとえば、2行目の地図は「新しい地図」であってはならない。3行目の「みずうみの名」は何度も何度も見たことのある湖の名前であってはならない。そしてその名前を口にするとき、それは4行目のように必ず「そっと」でなくてはならないし、湖面の波は5行目のように「かすか」でなくてはならない。そのとき舟の影は6行目のように「遠ざかる」ものでなくてはならない。近付いてきてはならない。
 予定された「調和」の世界である。
 こんなに完璧な「予定調和」のことば、その静かな運動に触れるのは何年ぶりだろうか。
 2連目。

何度も見た映画のように
そこから記憶は巻き戻されて
あったことと
あったかもしれないことが
等しく語られる場所で
わたしはやがて目覚めるだろう

 「あったこと」と「なかったこと」ではなく、「あったこと」と「あったかもしれないこと」。
 このことばが象徴的だが、岩木のことばの運動には、対立はない。矛盾はない。かならず「調和」するもの、存在を受け入れてくれるものだけがある。
 そしてそれは「あったこと」「あったかもしれないこと」ということばが端的にあらわしているように、「過去」から掘り起こしてきた「時間」である。「あること」「あるかもしれないこと」ではなく、「あったこと」「あったかもしれないこと」。
 「わたし」は「過去」へ「目覚める」のである。
 「過去」だから、「矛盾」はない。「乱調」はない。完成された「時間」がそこにあるだけである。
 3連目には、そのことを語ることばが出てくる。

漂着する舟のかたちに
刳りぬかれた朝の風景を
指の先でたどっていると
ゆうべ触れた水の冷たさがよみがえる
それだけが
たしかなものとして

 「よみがえる」。よみがえるものは、必ず「過去」である。過ぎた時間である。岩木が「目覚める」のは「過去の時間」へ目覚めるのである。「過去」とは最終行にかかれているように「たしかなもの」なのである。

 岩木のことばは「過去」の時間のなかに蓄積されている「抒情」を、たしかなものとして、「いま」「ここ」に目覚めさせた形として動いている。「古い」ことばとことばの脈絡(つながりを記す地図?のなか道)をそっとたどる。そのとき、「いま」がかすかに波立つ。いや「過去」が波立つのかな? 「いま」と「過去」の間にある何かがかすかに波立つ。「いま」は「過去」ではなく、それはそっくりそのまま「くりかえし」を生きるわけにはいかないからだ。

 岩木は、このことをどれだけ自覚して書いているのだろうか。少し、わからない。
 「風の記憶」に次の行がある。

流れる雲の速さで
ふるい落とされてゆくものがある
はげしくゆれる木々も
なびく草も
届くことのない記憶の深みには
何度も舞い上がろうとする鳥の
影ばかりが刻まれ

 ほんとうに「届くことのない記憶の深み」を岩木が実感しているのか--それが、私にはよくわからない。「記憶」は「過去」(ことばの文脈の伝統)と言い換えることができると思うが、その「深み」に届くことがない--その絶望をかかえながら、それでも岩木は「完成された日本語の文脈」を正しく耕しつづけようと決意しているのかどうか。
 たぶん、岩木に対する評価は、ここで分岐する。
 私は、まだ岩木の詩を読みはじめたばかりなので、どう判断していいかわからない。

 「風の記憶」は、次のようにつづく。

ついに幻のままで終わることにも
耐えなければならないだろう

 そうなのか。
 私は、岩木に完全に同意することはできない。
 
開いた窓から吹き込む風が
壁のカレンダーをわずかにめくる
一瞬だけ現れた未来のようなものを
たしかめることもなく
きょうの
はじまろうとしている地点へと
足を向ける

 「過去(よみがえりうるもの)」は「たしか」だが、「未来」は「たしか」めることはできない--という「思想」に、私は同意できないでいる。
 岩木のことばの運動は完璧に美しい。美しいとわかるけれど、それに「同意」するには、ためらいがある。


風の写真
岩木 誠一郎
ミッドナイトプレス



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誰も書かなかった西脇順三郎(209 )

2011-04-17 11:57:53 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「神々の黄昏」(2)。
 西脇の、女の描写が私は好きである。

遠くの方で女房たちは互いのへそを
みくらべてしんみり見つめて
動物の秘密の悲しみを悲しんだ
星座の涙も霧に閉ざされた

 この「へそ」は女ひとりの「肉体」ではない。人間の肉体を超え、永遠の肉体である。「動物の秘密」である。男もまた「へそ」をもってはいるが、それは「出生」とつながるだけで、女のように「出産・出生」という両方の機能(?)をもっていない。男の悲しみは「動物の秘密」にはつながらないのだ。男の悲しみは、せいぜい「脳髄」の淋しさにつながるだけである。
 女の悲しみは「脳髄」につながらないと書くと叱られるかもしれない。脳髄にもつながるだろうけれど、「肉体」にもつながっている。そして「肉体」とつながるとき、「脳髄」はどこかへ捨てられる。
 だから、

星座の涙も霧に閉ざされた

 という1行も、美しい音楽になる。男がこんなことばで悲しみを飾れば、脳髄の嘘になってしまう。
 男の「へそ」と比べるとはっきりするかもしれない。

ちょうどエダマメを枕にして
昼寝をする農夫のへそに
とんぼがとまつて考えている
のも同種の神話にあたる

 男は悲しむのではなく、考えてしまう。脳髄で考える。そして、それを自分でもちこたえずに「とんぼ」という人間以外のものに託してみたりもするのだが、完全には託しきれない。

のも同種の神話にあたる

 すぐに「ことば」にかえってしまうのである。「抽象」にかえってしまうのである。これにつづく行は、そのことをもっと悲しい音のなかで展開する。

ひるねをする流のヒゲには
みどりの蝶々がたわむれている
マティスのオダリスクの
ホメーロスのオプファロスの
悲しい歴史

 「歴史」とは「肉体」ではない。「もの」ではない。それは「脳髄」のなかに整理された抽象である。そういう抽象は、マティスだのホメロスだのの、芸術と悲しい対話をするだけなのだ。
 男の悲しみは、音楽でいえば「短調」である。悲しむように悲しむ。女の悲しみは「長調」である。それはどんなに悲しんでも、悲しみからはみだしてのびやかに動いていく。「互いのへそを/みくらべてしんみりみつめて/動物の秘密の悲しみを悲しんだ」の「しんみり」は「うっとり」と差はない。「悲しんだ」は「受け入れた」と差はない。「長調の悲しみ」というのは矛盾だが、その矛盾が女の美しさなのだ。強さなのだ。

 西脇は女を礼賛している。


ペイタリアン西脇順三郎
伊藤 勲
小沢書店
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マイク・ニコルズ監督「卒業」(★★★★)

2011-04-17 10:29:05 | 午前十時の映画祭
監督 マイク・ニコルズ 出演 アン・バンクロフト、ダスティン・ホフマン、キャサリン・ロス

 ダスティン・ホフマンがキャサリン・ロスに求婚に行くまでがともかくおもしろい。特に、アン・バンクロフトとの慣れない情事が傑作。最初に見たときは高校生で、まわりで大人がくすくす笑っているのだが、何がおかしいのかわからなかった。ベンと同様に、童貞だったからですねえ。いまは、もうおかしくてたまらない。よく真顔(?)でこんな演技ができたなあ、ダスティン・ホフマンは。
 いろいろ好きなシーンはあるが、大好きなのはミセス・ロビンソンにハンガーをとって、と言われ、クローゼットを開け、「木と針金のどっちのハンガー?」と聞くところ。ばかだねえ。木の方をとろうとして、うまくとれなくて針金の方を渡すところ。あまりにリアル過ぎて、これって隠し撮り? これを演技でやれるって、どういうこと? ダスティン・ホフマンって、このときほんとうに童貞?
 ずーっとさかのぼって。
 最初のパーティ。いろんなひとがいろんなことをいう。そのなかで、女の客二人がダスティン・ホフマンを批評して「無邪気」と言うんだけれど、そうなんだねえ、ナイーブな感じを「年上の女」は敏感にかぎつけるんだねえ--と、これは今回気がついたこと。昔見たときは、気がつかなかった。
 それから。
 いろいろあって、キャサリン・ロスが大学から帰ってくることになる。そのときのミセス・ロビンソンの変化がとてもおもしろい。ダスティン・ホフマンに対して圧倒的に優位だったはずの彼女のこころが揺らぐ。「娘と会うのは、だめ」。これって、女の嫉妬だねえ。キャサリン・ロスと比べたら負ける。わかっているから、だめ、という。
 気晴らし? からかい? 好奇心? なんだかよくわからないものからはじまったはずの情事なのだが、このときはもう、ミセス・ロビンソンはダスティン・ホフマンなしでは自分の人生を考えられなくなっている。
 この変化をアン・バンクロフトはくっきりと演じている。あ、すごいなあ。やっぱり大女優だなあ、と思う。この嫉妬のシーンがなければ、ミセス・スビンソンは若い男とのセックスを遊んでいるだけになる。この嫉妬によって、前半の「笑い話」が「笑い話」ではなく、現実になる。
 そして、実際、このミセス・ロビンソンの嫉妬から、映画が突然、現実に変わっていく。この「切り換え」が絶妙だなあ。いいなあ。ほれぼれする。もう一回、見てみようかな、と思った。(こんなことは、私はめったに思わない。)
 最初に見たときは、何がおかしいのかわからず、2回目に見たときは、ダスティン・ホフマンの童貞ぶり(?)が笑われていると気がつき、今回はミセス・ロビンソンの感情の襞がわかった。そして、この感情の襞こそが、「現実」というものなんだなあ。自分ではどうすることもできない感情。それが動いていくとき、現実が動きはじめる。あらゆることが現実になる。現実として、自分に見えてくる。
 これはラストシーンの、バスのなかの二人の顔にもあらわれている。結婚式から花嫁を奪って逃走する。「一線」を越えたあと、一瞬、何をしていいかわからなくなる。現実が、急に目の前にあらわれてきて、それを一種の茫然とした感じで見つめてしまう。
 とてもリアルだ。
 映画ではなく、現実そのものを見ている感じになる。



 あれっと思ったシーンがひとつある。私の記憶違いなのだろうか。ダスティン・ホフマンがキャサリン・ロスと大学を歩く。回廊(?)を会話しながら、歩く。カメラと二人の間に、回廊の柱が入る。二人の歩く速度にあわせてカメラが動くのだが、そうすると会話は聞こえてくるが表情は柱に隠れるという瞬間がある。そのシーンが、私は、実はとても好きだった。今回見た映画には、それがなかった。類似したシーンは、街中にあらわれた。二人が歩きながら話すのを、たぶん商店の中からカメラが追う。ときどき柱の影に二人の顔が見えなくなる。二人が別れ、キャサリン・ロスがいったん柱の影に消えて、戻ってきてキスをする--うーん、こうだったかなあ……。違う気がするなあ。
 まあ、どうでもいいシーンなのかもしれないが、記憶のシーンにこだわるのは、実は、私はこのシーンから、あ、これは文学につかえると思ったからである。何か重要なことを書く場合、それをくっきりと書くのではなく、間にわざと「ノイズ」をいれる。じゃまな存在をまぎれこませる。分かりにくくする。そうすると、読者の方は逆に、その隠されたものを想像し、書かなかったものを補って「ことば」を完成させる。あらゆる芸術は作者がつくると同時に、作者のつくらない部分を読者(鑑賞者)がかってに補って育て上げるとき完成する。そういう構造になっている--ということを、私は「卒業」の、ダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスが歩きながら会話するシーンで学んだのだ。その肝心のシーンが、記憶とは違った形でスクリーンにあらわれた。びっくりした。
 「午前十時の映画祭」のシリーズでは、ときどきこういう経験をする。私の記憶違い? それとも別バージョン? 少し気になる。



 この映画はまた、音楽のための映画という気もしないではない。サイモンとガーファンクルの歌と映像がとてもいい感じで融合している。ストーリーを忘れて、映像が、音に変わっていくのを見ている感じがする。特にダスティン・ホフマンが車を走らせてキャサリン・ロスを探す時のシーンがいい。音楽がストーリーを離れて走り、その走りだした音楽を映像がかってに追いかける。車のスピード、映像のスピードと、音楽のスピードが、ストーリーとは別の次元で疾走する。サイモンとガーファンクルの曲を鳴らしながら、アメリカ大陸を車で走ってみたくなる。とても、いい。
      (2011年04月16日「午前十時の映画祭」青シリーズ11本目、天神東宝6)



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