岩木誠一郎『流れる雲の速さで』(思潮社、2011年03月15日発行)
岩木誠一郎『流れる雲の速さで』は美しい詩集である。ことばが、ことばを裏切らない。
「夜の舟」の1連目。
書かれている「情景」が美しいというよりも、ことばとことばの呼応の仕方が美しい。そして、その美しさはことばの伝統を踏まえていることから生まれる美しさである。ここには乱調がない。
たとえば、2行目の地図は「新しい地図」であってはならない。3行目の「みずうみの名」は何度も何度も見たことのある湖の名前であってはならない。そしてその名前を口にするとき、それは4行目のように必ず「そっと」でなくてはならないし、湖面の波は5行目のように「かすか」でなくてはならない。そのとき舟の影は6行目のように「遠ざかる」ものでなくてはならない。近付いてきてはならない。
予定された「調和」の世界である。
こんなに完璧な「予定調和」のことば、その静かな運動に触れるのは何年ぶりだろうか。
2連目。
「あったこと」と「なかったこと」ではなく、「あったこと」と「あったかもしれないこと」。
このことばが象徴的だが、岩木のことばの運動には、対立はない。矛盾はない。かならず「調和」するもの、存在を受け入れてくれるものだけがある。
そしてそれは「あったこと」「あったかもしれないこと」ということばが端的にあらわしているように、「過去」から掘り起こしてきた「時間」である。「あること」「あるかもしれないこと」ではなく、「あったこと」「あったかもしれないこと」。
「わたし」は「過去」へ「目覚める」のである。
「過去」だから、「矛盾」はない。「乱調」はない。完成された「時間」がそこにあるだけである。
3連目には、そのことを語ることばが出てくる。
「よみがえる」。よみがえるものは、必ず「過去」である。過ぎた時間である。岩木が「目覚める」のは「過去の時間」へ目覚めるのである。「過去」とは最終行にかかれているように「たしかなもの」なのである。
岩木のことばは「過去」の時間のなかに蓄積されている「抒情」を、たしかなものとして、「いま」「ここ」に目覚めさせた形として動いている。「古い」ことばとことばの脈絡(つながりを記す地図?のなか道)をそっとたどる。そのとき、「いま」がかすかに波立つ。いや「過去」が波立つのかな? 「いま」と「過去」の間にある何かがかすかに波立つ。「いま」は「過去」ではなく、それはそっくりそのまま「くりかえし」を生きるわけにはいかないからだ。
岩木は、このことをどれだけ自覚して書いているのだろうか。少し、わからない。
「風の記憶」に次の行がある。
ほんとうに「届くことのない記憶の深み」を岩木が実感しているのか--それが、私にはよくわからない。「記憶」は「過去」(ことばの文脈の伝統)と言い換えることができると思うが、その「深み」に届くことがない--その絶望をかかえながら、それでも岩木は「完成された日本語の文脈」を正しく耕しつづけようと決意しているのかどうか。
たぶん、岩木に対する評価は、ここで分岐する。
私は、まだ岩木の詩を読みはじめたばかりなので、どう判断していいかわからない。
「風の記憶」は、次のようにつづく。
そうなのか。
私は、岩木に完全に同意することはできない。
「過去(よみがえりうるもの)」は「たしか」だが、「未来」は「たしか」めることはできない--という「思想」に、私は同意できないでいる。
岩木のことばの運動は完璧に美しい。美しいとわかるけれど、それに「同意」するには、ためらいがある。
岩木誠一郎『流れる雲の速さで』は美しい詩集である。ことばが、ことばを裏切らない。
「夜の舟」の1連目。
月の光に濡れる夢のほとりで
くりかえし古い地図を眺める
まだ見ぬみずうみの名を
そっと口にするとき
かすかに波立つ湖面を
遠ざかろうとする舟の影がある
書かれている「情景」が美しいというよりも、ことばとことばの呼応の仕方が美しい。そして、その美しさはことばの伝統を踏まえていることから生まれる美しさである。ここには乱調がない。
たとえば、2行目の地図は「新しい地図」であってはならない。3行目の「みずうみの名」は何度も何度も見たことのある湖の名前であってはならない。そしてその名前を口にするとき、それは4行目のように必ず「そっと」でなくてはならないし、湖面の波は5行目のように「かすか」でなくてはならない。そのとき舟の影は6行目のように「遠ざかる」ものでなくてはならない。近付いてきてはならない。
予定された「調和」の世界である。
こんなに完璧な「予定調和」のことば、その静かな運動に触れるのは何年ぶりだろうか。
2連目。
何度も見た映画のように
そこから記憶は巻き戻されて
あったことと
あったかもしれないことが
等しく語られる場所で
わたしはやがて目覚めるだろう
「あったこと」と「なかったこと」ではなく、「あったこと」と「あったかもしれないこと」。
このことばが象徴的だが、岩木のことばの運動には、対立はない。矛盾はない。かならず「調和」するもの、存在を受け入れてくれるものだけがある。
そしてそれは「あったこと」「あったかもしれないこと」ということばが端的にあらわしているように、「過去」から掘り起こしてきた「時間」である。「あること」「あるかもしれないこと」ではなく、「あったこと」「あったかもしれないこと」。
「わたし」は「過去」へ「目覚める」のである。
「過去」だから、「矛盾」はない。「乱調」はない。完成された「時間」がそこにあるだけである。
3連目には、そのことを語ることばが出てくる。
漂着する舟のかたちに
刳りぬかれた朝の風景を
指の先でたどっていると
ゆうべ触れた水の冷たさがよみがえる
それだけが
たしかなものとして
「よみがえる」。よみがえるものは、必ず「過去」である。過ぎた時間である。岩木が「目覚める」のは「過去の時間」へ目覚めるのである。「過去」とは最終行にかかれているように「たしかなもの」なのである。
岩木のことばは「過去」の時間のなかに蓄積されている「抒情」を、たしかなものとして、「いま」「ここ」に目覚めさせた形として動いている。「古い」ことばとことばの脈絡(つながりを記す地図?のなか道)をそっとたどる。そのとき、「いま」がかすかに波立つ。いや「過去」が波立つのかな? 「いま」と「過去」の間にある何かがかすかに波立つ。「いま」は「過去」ではなく、それはそっくりそのまま「くりかえし」を生きるわけにはいかないからだ。
岩木は、このことをどれだけ自覚して書いているのだろうか。少し、わからない。
「風の記憶」に次の行がある。
流れる雲の速さで
ふるい落とされてゆくものがある
はげしくゆれる木々も
なびく草も
届くことのない記憶の深みには
何度も舞い上がろうとする鳥の
影ばかりが刻まれ
ほんとうに「届くことのない記憶の深み」を岩木が実感しているのか--それが、私にはよくわからない。「記憶」は「過去」(ことばの文脈の伝統)と言い換えることができると思うが、その「深み」に届くことがない--その絶望をかかえながら、それでも岩木は「完成された日本語の文脈」を正しく耕しつづけようと決意しているのかどうか。
たぶん、岩木に対する評価は、ここで分岐する。
私は、まだ岩木の詩を読みはじめたばかりなので、どう判断していいかわからない。
「風の記憶」は、次のようにつづく。
ついに幻のままで終わることにも
耐えなければならないだろう
そうなのか。
私は、岩木に完全に同意することはできない。
開いた窓から吹き込む風が
壁のカレンダーをわずかにめくる
一瞬だけ現れた未来のようなものを
たしかめることもなく
きょうの
はじまろうとしている地点へと
足を向ける
「過去(よみがえりうるもの)」は「たしか」だが、「未来」は「たしか」めることはできない--という「思想」に、私は同意できないでいる。
岩木のことばの運動は完璧に美しい。美しいとわかるけれど、それに「同意」するには、ためらいがある。
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