近藤久也『夜の言の葉』(思潮社、2010年03月31日発行)
近藤久也『夜の言の葉』のなかの1篇「口のついたもの」については、以前書いた。そのときは詩集を読んでいなかった。他にもおもしろい詩がある。
「見遣る」は蚊のことを書いている。
「はらりと落ちる」は、はたして蚊が落ちるときの描写にふさわしいかどうか、「過去の文脈」を探し出せない。そこが、きのう読んだ岩木誠一郎の詩のことばの動きとは完全に違う。ちょっと考え込んでしまうのである。「はらり」のほかに、ことばはないかなあ。ぽとり? 違うなあ。蚊は軽いからなあ……。ふわり、というのは浮かぶとの文脈は持っているけれど、落ちるは違うなあ。「じたばたと手足が空をつかむ」は、まあ、みなれた「文脈」だね。だから、よけいに「はらり」が気になる。
どこから来たのかな? どこへ動いていくのかな?
で、「時を巡る」。
何、これ? 何のこと?
それは2連目で明らかにされる。
ははは。わっはっはっははは。ははは。あー、苦しい。
蚊が、自分の一生を思い返している。死ぬとき、人間は「走馬灯のように過去を思い出す」というけれど、近藤の蚊も「走馬灯のように過去を思い出している。」あ、私は、わざと「常套句」をつかってみたのだけれど、おかしいねえ、近藤の書いていることは。「常套句」とは相いれない。どこかに私たちがことばを動かすときの「常套句」と重なるものがあるのだけれど、人間と蚊との差というか、断絶が、その常套句的運動に割り込んできて、思いもかけないことばが動く。
けっさくだねえ。
ことばはこんなふうに動くことができるんだねえ。
蚊が、はたして蚊自身の人生(蚊生?)を走馬灯のように思い出すかどうかわからない。走馬灯のかわりに、蚊ならば「蚊とり線香の渦のように」なのかなあ。まあ、そんなことはどうでもいいのだが、蚊がどう思おうが関係ない。人間は、いや近藤はというべきなのか、蚊のかわりに、ことばを動かすことができる。そして、そこで動いてしまうことばは、なぜか、わかってしまう。
蚊の人生を考えるなんて、ばかげている。そんなことを考える人間は近藤くらいしかいないだろう。そんなばかげたことばを、私はわかる必要はない。誰も、わかる必要はない。わからなくても誰も困らない。
けれど、わかってしまう。それがおかしい。
人間には、どうしてもわからなければならないことばというものがある。わからなければならないのに、わからない、わかってもらえない、ということがしょっちゅうある。そういうことは大問題なのだが、なんということだろう。わからなくていいこと、わかったからといって何の役にも立たないことが、わかってしまう。
この近藤のことばは、岩木のことばのように、こころをしんみり(?)整理するようなものではない。しみじみと美しい何かを思い起こさせるものではない。何かとつながるわけではない。
逆だね。
何かとつながる--そういう「意識」を笑いでたたき切ってしまう。そして、笑ったあと、どんなにたたき切っても、つながるものがあるということを、遠いところから知らされる。
岩木があくまで「文学」の「文脈」を生きて、そこでことばをよみがえらせているのに対して、近藤は「ことば」の「底」をぶち破る。「底抜け」にする。
「夜の果物」。その2連目の途中から。
「得体のしれないけだもの」と「鳥」がおなじものとしてとらえられている。「鳥」がたとえば「文学の文脈」だとすれば、「得体のしれないけだもの」は「文学の文脈から逸脱したことば」かもしれない。
この逸脱、とおいとおい「いのち」につながる何かが、近藤のことばを豊かにしている。
近藤久也『夜の言の葉』のなかの1篇「口のついたもの」については、以前書いた。そのときは詩集を読んでいなかった。他にもおもしろい詩がある。
「見遣る」は蚊のことを書いている。
田舎の夕暮れ
誰も居ない部屋
蚊遣りくすべ
ぼおとしていると
ちいさいものが頬に突進して
はらりと落ちる
畳の上にあお向き
じたばたと手足が空をつかむ
時を巡る
「はらりと落ちる」は、はたして蚊が落ちるときの描写にふさわしいかどうか、「過去の文脈」を探し出せない。そこが、きのう読んだ岩木誠一郎の詩のことばの動きとは完全に違う。ちょっと考え込んでしまうのである。「はらり」のほかに、ことばはないかなあ。ぽとり? 違うなあ。蚊は軽いからなあ……。ふわり、というのは浮かぶとの文脈は持っているけれど、落ちるは違うなあ。「じたばたと手足が空をつかむ」は、まあ、みなれた「文脈」だね。だから、よけいに「はらり」が気になる。
どこから来たのかな? どこへ動いていくのかな?
で、「時を巡る」。
何、これ? 何のこと?
それは2連目で明らかにされる。
それは
ぼうふらの時のこと
水から出た時のこと
皮膚を刺した時のこと
そうしてうっすらと
世界から遠ざかっていくのがわかるのか
それとも
じたばたと
もいちど一瞬をつかむか
ははは。わっはっはっははは。ははは。あー、苦しい。
蚊が、自分の一生を思い返している。死ぬとき、人間は「走馬灯のように過去を思い出す」というけれど、近藤の蚊も「走馬灯のように過去を思い出している。」あ、私は、わざと「常套句」をつかってみたのだけれど、おかしいねえ、近藤の書いていることは。「常套句」とは相いれない。どこかに私たちがことばを動かすときの「常套句」と重なるものがあるのだけれど、人間と蚊との差というか、断絶が、その常套句的運動に割り込んできて、思いもかけないことばが動く。
けっさくだねえ。
ことばはこんなふうに動くことができるんだねえ。
蚊が、はたして蚊自身の人生(蚊生?)を走馬灯のように思い出すかどうかわからない。走馬灯のかわりに、蚊ならば「蚊とり線香の渦のように」なのかなあ。まあ、そんなことはどうでもいいのだが、蚊がどう思おうが関係ない。人間は、いや近藤はというべきなのか、蚊のかわりに、ことばを動かすことができる。そして、そこで動いてしまうことばは、なぜか、わかってしまう。
蚊の人生を考えるなんて、ばかげている。そんなことを考える人間は近藤くらいしかいないだろう。そんなばかげたことばを、私はわかる必要はない。誰も、わかる必要はない。わからなくても誰も困らない。
けれど、わかってしまう。それがおかしい。
人間には、どうしてもわからなければならないことばというものがある。わからなければならないのに、わからない、わかってもらえない、ということがしょっちゅうある。そういうことは大問題なのだが、なんということだろう。わからなくていいこと、わかったからといって何の役にも立たないことが、わかってしまう。
この近藤のことばは、岩木のことばのように、こころをしんみり(?)整理するようなものではない。しみじみと美しい何かを思い起こさせるものではない。何かとつながるわけではない。
逆だね。
何かとつながる--そういう「意識」を笑いでたたき切ってしまう。そして、笑ったあと、どんなにたたき切っても、つながるものがあるということを、遠いところから知らされる。
否、
そうじゃ、ないだろ
突然
前も後ろも行きどまり
まっくら
音もきこえず
ぶっきらぼうに
体が
止まる
岩木があくまで「文学」の「文脈」を生きて、そこでことばをよみがえらせているのに対して、近藤は「ことば」の「底」をぶち破る。「底抜け」にする。
「夜の果物」。その2連目の途中から。
空気の流れないちいさな部屋で
その濃密な匂いにひたっているのが好きだ
朦朧と
食べたのか否かも判然としない
仄暗くなつかしい
とおいとおい
わたしの住処から
夜の果物めざし
得体のしれないけだものや鳥たちが
あとからあとからやってくるからだ
「得体のしれないけだもの」と「鳥」がおなじものとしてとらえられている。「鳥」がたとえば「文学の文脈」だとすれば、「得体のしれないけだもの」は「文学の文脈から逸脱したことば」かもしれない。
この逸脱、とおいとおい「いのち」につながる何かが、近藤のことばを豊かにしている。
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