詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

近藤久也『夜の言の葉』

2011-04-18 23:59:59 | 詩集
近藤久也『夜の言の葉』(思潮社、2010年03月31日発行)

 近藤久也『夜の言の葉』のなかの1篇「口のついたもの」については、以前書いた。そのときは詩集を読んでいなかった。他にもおもしろい詩がある。
 「見遣る」は蚊のことを書いている。

田舎の夕暮れ
誰も居ない部屋
蚊遣りくすべ
ぼおとしていると
ちいさいものが頬に突進して
はらりと落ちる
畳の上にあお向き
じたばたと手足が空をつかむ
時を巡る

 「はらりと落ちる」は、はたして蚊が落ちるときの描写にふさわしいかどうか、「過去の文脈」を探し出せない。そこが、きのう読んだ岩木誠一郎の詩のことばの動きとは完全に違う。ちょっと考え込んでしまうのである。「はらり」のほかに、ことばはないかなあ。ぽとり? 違うなあ。蚊は軽いからなあ……。ふわり、というのは浮かぶとの文脈は持っているけれど、落ちるは違うなあ。「じたばたと手足が空をつかむ」は、まあ、みなれた「文脈」だね。だから、よけいに「はらり」が気になる。
 どこから来たのかな? どこへ動いていくのかな?
 で、「時を巡る」。
 何、これ? 何のこと?
 それは2連目で明らかにされる。

それは
ぼうふらの時のこと
水から出た時のこと
皮膚を刺した時のこと
そうしてうっすらと
世界から遠ざかっていくのがわかるのか
それとも
じたばたと
もいちど一瞬をつかむか

 ははは。わっはっはっははは。ははは。あー、苦しい。
 蚊が、自分の一生を思い返している。死ぬとき、人間は「走馬灯のように過去を思い出す」というけれど、近藤の蚊も「走馬灯のように過去を思い出している。」あ、私は、わざと「常套句」をつかってみたのだけれど、おかしいねえ、近藤の書いていることは。「常套句」とは相いれない。どこかに私たちがことばを動かすときの「常套句」と重なるものがあるのだけれど、人間と蚊との差というか、断絶が、その常套句的運動に割り込んできて、思いもかけないことばが動く。
 けっさくだねえ。
 ことばはこんなふうに動くことができるんだねえ。

 蚊が、はたして蚊自身の人生(蚊生?)を走馬灯のように思い出すかどうかわからない。走馬灯のかわりに、蚊ならば「蚊とり線香の渦のように」なのかなあ。まあ、そんなことはどうでもいいのだが、蚊がどう思おうが関係ない。人間は、いや近藤はというべきなのか、蚊のかわりに、ことばを動かすことができる。そして、そこで動いてしまうことばは、なぜか、わかってしまう。
 蚊の人生を考えるなんて、ばかげている。そんなことを考える人間は近藤くらいしかいないだろう。そんなばかげたことばを、私はわかる必要はない。誰も、わかる必要はない。わからなくても誰も困らない。
 けれど、わかってしまう。それがおかしい。
 人間には、どうしてもわからなければならないことばというものがある。わからなければならないのに、わからない、わかってもらえない、ということがしょっちゅうある。そういうことは大問題なのだが、なんということだろう。わからなくていいこと、わかったからといって何の役にも立たないことが、わかってしまう。
 この近藤のことばは、岩木のことばのように、こころをしんみり(?)整理するようなものではない。しみじみと美しい何かを思い起こさせるものではない。何かとつながるわけではない。
 逆だね。
 何かとつながる--そういう「意識」を笑いでたたき切ってしまう。そして、笑ったあと、どんなにたたき切っても、つながるものがあるということを、遠いところから知らされる。

否、
そうじゃ、ないだろ
突然
前も後ろも行きどまり
まっくら
音もきこえず
ぶっきらぼうに
体が
止まる

 岩木があくまで「文学」の「文脈」を生きて、そこでことばをよみがえらせているのに対して、近藤は「ことば」の「底」をぶち破る。「底抜け」にする。
 「夜の果物」。その2連目の途中から。

空気の流れないちいさな部屋で
その濃密な匂いにひたっているのが好きだ
朦朧と
食べたのか否かも判然としない
仄暗くなつかしい
とおいとおい
わたしの住処から
夜の果物めざし
得体のしれないけだものや鳥たちが
あとからあとからやってくるからだ

 「得体のしれないけだもの」と「鳥」がおなじものとしてとらえられている。「鳥」がたとえば「文学の文脈」だとすれば、「得体のしれないけだもの」は「文学の文脈から逸脱したことば」かもしれない。
 この逸脱、とおいとおい「いのち」につながる何かが、近藤のことばを豊かにしている。


夜の言の葉
近藤 久也
思潮社


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ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン監督「シリアスマン」(★★★★)

2011-04-18 20:11:54 | 映画
監督 ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン 出演 マイケル・スタールバーグ、リチャード・カインド、アダム・アーキン

 この映画の魅力を語るのはとても難しい。
 たいていの映画にはストーリーがあり、クライマックスがあり、カタルシスがある。この映画にはストーリーと呼べるものはない。もちろん時間の流れというかスクリーンの展開にそって何が起きたかを語ることはできるが、それは映画を見ていないひとには何のことかわからないだろう。だから、ストーリーの展開に則して、どこに感動したかというようなことを書けないのである。だれのどの演技が人間の真実をとらえていたかというようなことが書けないのである。
 どうやって、この映画の感動を書くべきか。どう書けば感動が伝わるか……。まあ、こんなことは考えていると面倒なので、とりあえずどこに感動したかということから書きはじめる。

 主人公が屋根のアンテナを直すために屋根に上がっていく。梯子をかけ、屋根にのぼる。屋根の傾斜がぶつかり、谷になる部分がある。その谷の両側を右足と左足で押さえるようにしてのぼっていく。このときの映像がとても美しい。はっとする。あ、こういう構図があったのか--と、びっくりする。屋根の角度、屋根の傾斜がぶつかりあい、谷をつくるところなど、どこにでもあるだろう。どこにでもあるはずなのに、コーエン兄弟のような、こんなふうに静かな構図、静かな質感で屋根を描いた映像を見るのは初めてという気がする。(急な傾斜で、人間が落ちそう。落ちそうになりながら屋根の上をゆくという映像なら何度も映画になっているけれど。)ぼんやり見ていて、気がついたときにはシーンが変わっているので、あ、どんな色だっけ、と思い出そうとするが思い出せない。それでもバランスがとてもよかった記憶がある。空の色、空気の色(光の色)が調和していて、初めての「構図」のなかですべてが落ち着いておさまっている。
 主人公が初めてナビを訪問するとき。テーブルがあって、その向こうにドアがあって、という部屋の描き方がある。そのテーブルのつくる水平線と、向こう側のドア(柱?)がつくる垂直線。そのときの構図も美しい。色のバランスも美しい。現実を見ている気がしない。「芸術作品」(絵画でも、写真でもいいが……)を見ている気がするのである。
 他のどのシーンでもいい。すべて構図がしっかりしている。安定している。マリフアナを吸って、世界が揺れ動いているときの映像さえ、映像が安定して傾いている。変な言い方になるが、不安定さがない。傾いたまま、傾いてあることが、落ち着いている。
 ストーリーは、どこへ動いていくのか見当がつかないくらい、とぎれとぎれで、強引で(主人公が内気で、その強引さに対抗しきれないのだけの話なのだが)、支離滅裂なのに、映像は支離滅裂ではないのだ。絶対的な安定構図、色のバランスの中で、静かに存在している。
 カメラのとらえる一瞬一瞬が(スクリーンに映し出される一瞬一瞬が)、とても美しい。ゆるぎのない構図でできている。ストーリーはどう説明していいかわからない、いわば不条理な展開をするのだが、その不条理を映像の完璧な美しさが統一してしまう。

 この映像の完璧な構図、安定感と関係があるのかないのか……。役者たちが、おもしろい。ふつう役者というのは演技をする。ストーリーに役者の肉体(役者の過去)を絡ませる形で、人間の感情を再現する。この映画では、感情を再現しない。肉体の形がスクリーンのなかで構図になるだけである。
 主人公の感情にも、妻の感情にも、妻の不倫相手の感情にも、何人かのラビ、弁護士、それから他の登場人物のだれに対しても「感情移入」できないでしょ? 「感情移入」できないように演技しているのである。主人公が泣くときでさえ、観客は「もらい泣き」などしない。泣く男がそこにいて、それが「一枚の絵」になっている、ということを見るだけなのである。
 主人公の上司(?)、学長(?)が主人公と話すときの姿勢が、「構図」ということを説明するのに役立ってくれるかもしれない。彼は少し猫背である。(最初のラビも猫背であった。)その猫背は、胸の内を隠して(胸を小さくして)、感情をあらわさないようにして語るという人間のあり方の「構図」なのである。同じように、主人公と話すとき、妻の姿勢、子供たちの姿勢、ラビや弁護士たちの姿勢、距離のとり方--そういうものがすべて「構図」であり、それがスクリーンの映像を安定させているのである。

 コーエン兄弟はもともと映像が、特に構図が美しい。「ミラーズクロッシング」の森のシーン、「ノーカントリー」の首を絞めながら殺される男の足がリノリウムの床に残す引っ掻き傷の美しさを、私はすぐに思い出すことができる。また、その美しい映像(構図)と殺人という凶悪なものが出会い、融合するときの官能的な興奮も思い出すことができ。る。
 しかし、どの映画も今回の映像ほど強靱ではない。いや、これは正しくはないかもしれない。今回は、ともかく映像の強靱さ、構図の強靱な美しさが際立つ。それはストーリーが不条理であるということと関係しているからかもしれない。ストーリーはどうでもいいのだ。ストーリーを拒絶しても映像は存在しうるのだ。ストーリーから、映像を解放したのだ--というと言い過ぎになるだろうか。
 ともかく、びっくりしたのだが、こうやってストーリーからの映像の解放と書いてしまったあとで、ストーリーというものを見直してみると、私たちの「日常」というのは「ストーリー」よりも「ストーリーから逸脱した部分」の方が多い。そして、ストーリーから逸脱しても、そこには人間がいて、人間の暮らしがあって、つまり机や本や家や屋根があって、それは目に見える。いわば「映像」を持っている。そうであるなら、この映画のように不条理(ストーリーとストーリーの展開によるカタルシスを持たない)作品を統一するものが「映像の力」であってもかまわないことになる。
 コーエン兄弟は、映像そのものを生きている監督なのだ。私は「ファーゴ」も「ミラーズクロッシング」も「ノーカントリー」もみんな好きだが、この「シリアスマン」はどの作品よりも飛び抜けて傑作である。これからもコーエン兄弟は映画をつくりつづけるだろうが、この映画は彼らの代表作であることに間違いはない。大傑作である。しかし、多くの評価される映画のように共感できる「人間像」をスクリーンのなかに定着させていないので、常に評価からもれてしまうに違いない。そういう大傑作である。不幸な大傑作である。

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誰も書かなかった西脇順三郎(210 )

2011-04-18 09:27:58 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。
 西脇の書いている情景は、私には非常になつかしいときがある。子ども時代を思い出すのである。「ティモーテオスの肖像」。タイトルは私の子ども時代とは無関係だが、そこに書かれていることは昔の記憶と重なる。

イタリ人のように
大人が昼寝をしている時
やなぎの藪の中に反乱が起る
子供の近代的な笑いが始まる
どぶ川の中で泳いでいる
桑いちごときゅうりを齧りながら
永遠的な方向を指さしている
小さいフナが杏子のかんづめの
空きかんの中で死んでいる

 こういう情景は、私たちの年代はだれもが体験していることなのかもしれないが、とてもなつかしい。そして、なつかしいと同時に、ちょっと不思議な気持ちにもなる。なつかしいのだけれど、ちょっと違う。ふつうの「思い出」と何かが違う。
 たとえば3、4行目。これは子供たちがやなぎの向こうではしゃいでいるときの描写であるが、こういうとき「反乱」とか「近代的な笑い」とはふつうは言わない。そういうふつうは言わないことばをぶつけることで「情景」を批評する。
 批評が西脇にとっての詩である。抒情ではなく、批評。だから、ことばが乾いている。批評のために、あえて抒情ではつかわないことばをつかう。ことばを未整理のままつかう。それは、「反乱」「近代的な笑い」というようなことばだけでない。

小さいフナが杏子のかんづめの
空きかんの中で死んでいる

 よく読むと、「かんづめ」「空きかん」ということばが重複している。抒情派の詩人なら、この重複を整理して違う形にすると思う。しかし、西脇はしない。わざと未整理にしてほうりだす。--だけではない。その未整理を、「意味」ではなく、「音楽」にしてしまう。「音」の響きあいで遊んでしまう。
 「杏子(あんず)」「かんづめ」「空きかん」「死んでいる」。「ん」の音が響きあっている。その響きあいは、他のひとにはどう感じられるかわからないが、私の場合は「意味」を消し去る。「意味」よりも「音」の楽しさの方が前面に出てくる。「音」が気持ちよく感じられて、うれしくなる。
 この「ん」の響きあいのなかに「反乱」「近代的」までが意識されているかどうかわからないけれど、私のよろこびは、そこまでさかのぼる。批評としての「反乱」「近代的」さえ、「音」になって遊びはじめる。

トンボは百姓が忘れていつた
鎌の上にとまつて考えている

 この2行の「トンボ」「考えている」にさえ、私は「ん」の響きあいを感じる。トンボが何かを考える--というようなことは、まあ、ない。そういうないことを「わざと」書く。そして、その「わざと」書くことばが「音」で統一される。

この地獄の静けさの中で
人間は没落を夢みているのだ
どこかでまた子供が
スモモの木の中へ石を投げている
音がする--
小さい窓からザンギリのおつさんが
頭を出して怒鳴っている音がする

 「音」の対極にあるのは「静けさ」。そういうものを出してきておいて、「音」そのものにも言及する。
 「スモモの木の中へ石を投げている/音がする」は正確には(学校教科書的には)「石を投げている音」ではなく、投げた石が木にぶつかる音だろう。「怒鳴っている音がする」は怒鳴っている声がする、になるだろう。
 「音」ということばのつかい方が「学校教科書」とは微妙に違う。違うから、「音」ということば、「音」そのものが、新しい「もの」のように感じられる。この「新しさ」が詩のなのだと思う。
 そして、この部分には「ん」の響きあいが残っている。「ザンギリ」「おつさん」。「おつさん」は「男」でも「意味」はかわらないが、ニュアンスだけではなく、「音」そのものがまったく違う。
 「音」が、何かしら西脇の詩には重要なことばの推進力になっているのだ。




西脇順三郎全詩集 (1963年)
西脇 順三郎
筑摩書房



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