詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白井知子「ハイデ・メンデ・ギヨナ さあ 駆け落ちしよう」

2011-04-13 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
白井知子「ハイデ・メンデ・ギヨナ さあ 駆け落ちしよう」(「幻竜」13、2011年03月20日発行)

 白井知子のことばは他人とぶつかる。他人というのは「知らないひと」のことである。「知らないひと」には「知らないこと」がある。
 「ハイデ・メンデ・ギヨナ さあ 駆け落ちしよう」はトルコの土産物店で少数民族について尋ねたことから書きはじめている。「どんな人たちなのかしら」。

その日の夕刻
旅のトルコ人の通訳                       
三十代とおもわれる大柄のドプラックさんと
カッパドキアの景観を見はるかし ベンチに腰掛けるよう促された

--この国は 表向きには
  少数民族の言語が自由になったみたいだけれど
  まだ タブー視されているところあるからね
  トルコ石の店での あなたの質問 ちょっと やばかったよ
--気づかなかったわ

 それからいろいろ事実が語れる。それはみんな「気づかなかったこと」である。こういうことに出会ったとき、ことばはどうなるか。「事実」としてそこの存在しはじめる。それは白石には動かすことができない。それをそのまま認めるしかない。
 これは当たり前といえば当たり前のことなのだけれど、多くの詩人のことばはたいてい白石のようには動かない。「事実」をそのまま「事実」として存在させるというよりは、自分の「肉体」をくぐらせ、自分の「肉体」になじんだ形にしてから「ことば」にしてしまう。感情や精神で、「汚して」そこに存在させる。白石はそうではなく、剥き出しのまま「事実」を存在させる。
 知らなかった(気づかなかった)こと--「事実」の前では、ひとは、どんな存在でもない。それを受け入れることからはじめるしかないのである。
 「気づかなかったわ」というのは何でもないことばだが、その何でもないと思われることをきちんとことばにすると、それに反応するように「他人」がそのまま動きだす。「気づかなかった」とき隠れていたひとたちが動きだす。
 白石は、そういうひとたちを確実に受け止める。
 そして、そこから白石の「肉体」が新しく動いていく。「他人」となって動いていく。白石は、「気づいた」他人を描写するのだが、そのとき白石は「他人」そのものになっている。
 この詩でいえば、白石は「気づかなかった」ことに気づき、その「事実」を受け止めることで、いわば「トルコ人」、しかも彼女が「気づかなかった」少数民族のトルコ人になって、生きはじめる。

しだいに酔いがまわり
昨日 訪れたエフェソス
ギリシャ人がエーゲ海沿いにつくった植民地
多産や狩り 月の女神 アルミテス崇拝で知られた地
劇場には二万数千人が収容されるほどだったらしい
どんな出し物があたりを響動ませたのかしら
風の慟哭
わたしは つよく誘われる
長方形の布を二つに折って
肩のところでブローチでとめ
ウェストを飾り紐で結んで 襞をツケルキトンに身をつつむ
さあ エフェソスの遺跡まで歩く

劇場では 仮面をはずした人たちが
七十の少数民族の言葉で詩を暗誦しているわ
聴衆は心刺されている
堅い岩の席はまだあいている
舌をぬかれていたような人々が生き生き
押し殺されていた言葉を てらうことなく暗誦していく
氾濫する風よ
せめて 輪唱せよ これらの言葉を
かろやかに すずやかに
呪縛からとかれ

 白石はトルコの少数民族に「なる」だけではなく、「風」にもなる。それは「ことば」そのものになるということである。詩になる、ということである。
 この強いことば、あたらしいことばに、解説(というか、私のくだらない「説明」)はいらない。ただ、読めばいい。
 そして、書き出しの、

カッパドキアに近いギョレメという街
日本語のうまい店員ぞろいの
いささか いかがわしい店で すったもんだのあげく
ごく小さなトルコ石の指輪を購入した

 という部分と比較すると、白石のことばのすごさがよくわかる。最初は、とてもつまらない(失礼!)散文である。改行をやめて、ただつづければ、どこにでもある旅行の「散文」である。中学生の「作文」のようでもある。このことばが、「他人」に出会い、かわっていく。「気づかなかったわ」ということばを挟んで激変し、ついには白石自身が「トルコの少数民族」になる。

トルコには 少数民族は存在するけれど いないことになっている

 「いないことになっている」はずの「他人」が「白石」として生きはじめる--白石がいないことになっている「少数民族」になって生きはじめる。そして、その「いないことになっている少数民族」と「少数民族になった白石」が出会うとき、その「いないことになっている」という「概念」が吹き飛び「いる」が「事実」になる。

 あ、これは私のことばには手に余る。とても書き切れない。私のことばは白石のことばを追いかける力を持っていいない。追いかけようとすると、どんどん引き離されるのを感じるだけである。
 「幻竜」で全行を読んでください。




秘の陸にて
白井 知子
思潮社
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大西若人「主役を演じるのは誰?」

2011-04-13 17:14:53 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「主役を演じるのは誰?」(「朝日新聞」2011年04月13日夕刊)

 大西若人の文章には不思議な力がある。ほとんど「大西マジック」としかいいようがない。「主役を演じるのは誰?」はレンブラントの「アトリエの画家」について書いたものである。紙面の大半を占める絵を見る。中央の、カンバスの左側の強い光、強い反射光に目が行く――と同時に、大西の書いている文章の最後の方の文字が目に飛び込んでくる。

板絵の左端を一筋に輝かせるほどに、何もない空間からは光があふれ出している。

 あ、もう絵を見ている感覚がなくなる。大西の視線にのみこまれ、大西になって絵を見てしまう。そこから離れるのは、とても難しい。

 で、いつのながらの、意地悪な疑問がわいてしまう。「主役は誰?」 大西の文章? レンブラントの絵でなくていいの?
 うーん。
 しかし、大西の文章が好きだなあ。

 欲を言うと・・・。
 今回の文章は少しだけ変だった。新聞紙面の組み方の問題だが、段落ごとの空白が少なく、ぎっしり詰まっている。それが文章全体を窮屈に見せる。漢字とひらがなのバランスが美しいのが大西の文章の特徴だが、その特徴が生かされていない。大西以外のひとの視線(国立西洋美術館の幸福輝の意見)が挿入されていることも遠因かもしれないが。



 

もっと知りたいレンブラント―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
幸福 輝
東京美術
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マーク・ロマネク監督「わたしを離さないで」(★★)

2011-04-13 08:45:23 | 映画
監督 マーク・ロマネク 出演 キャリー・マリガン、アンドリュー・ガーフィールド、キーラ・ナイトレイ、シャーロット・ランプリング

 カズオ・イシグロの小説を読んでいないので原作との比較はできないが、この映画は映画と小説の違いを理解していない。
 私はストーリーを気にして映画を見たことはないが、この映画のストーリーを簡単に言うと臓器移植のドナーとして生まれてきたひとの短い生涯と恋愛を描いている。このドナーとして生まれてきた人間というのは小説では可能な「表現」であるが、映画では無理である。そんな人間は、この世界には存在しない。映画にはもちろんこの世界に存在しないものもたくさん登場する。「エイリアン」はその典型だが、それは「人間ではない」ということを前提としている。非・存在だが、非・人間だから、存在するとしても「抽象的存在」ではない。ところが、ドナーとして生まれてきた人間というのは、どこまでいっても「抽象的存在」である。「意味」でしかない。小説は、そういう「意味」を「ことば」として表現できる。けれど、映画は無理である。
 なぜ、無理か。
 映画は「ことば」ではなく、俳優が動くからである。俳優の「肉体」がそこにあるからである。
 映画に則していうと、この作品の中ではドナーたちの感情(魂、こころ)の有無が重要なテーマである。ドナーたちに魂はあるか。こういう抽象的なテーマは「ことば」の上でなら、どんなふうにでも動かしうる。
 ところが映画は無理である。「魂」は「肉体」ではなく、いわば抽象的なものだから、映像化されることはないのだが(映画では、芸術にあらわれるものとして表現されるけれど……)、その抽象化のまえに、私たちは役者の肉体を見てしまう。肉体にはどうしてもその「過去」があらわれてしまう。役者の「肉体」は役者の「過去」をどうしても表現してしまう。そしてそこには、どうしても「魂(感情、こころ)」があらわれてしまう。
 「魂」があるかないか、ではなく、スクリーンに映った瞬間から、そこには「魂」が存在してしまう。感情が、こころが、存在してしまう。「ことば」で何も語らなくても、「肉体」が「魂(こころ)」の叫びをあらわしてしまう。
 だいたい役者という存在が、ことばをつかわずに「過去」と「感情」を語ってしまうものなのである。ことばをつかわずに、その「人間」にリアリティーを与える役者がいい役者である。存在感のある役者である。
 映画館で観客は、ドナーという「抽象的存在」(架空の存在)がすでに魂を持っているのを見てしまう。そのあとで、ドナーたちに魂はあるのか、ドナーたちの魂は切り捨てられてしまっていいのか、という「小説のテーマ」をぶつけられても、なぜ、そんなに遅くなってからそんなことが問題になる? そんな疑問にとらわれる。ばかばかしくて、あきれかえってしまう。魂は、最初から役者によってドナーたちに与えられている。
 この映画は、映画として根本的に間違っている。映画にならないことを映画にしている。小説の場合は、どんなに具体的に描写されても、それは「ことば」のまま。その「ことば」は読者の想像力の中で初めて「肉体」をもった人間として動く。だから、「魂」の問題も読者が想像力のなかに「魂」の問題をもちこまないかぎり存在しない。その点が映画とは完全に違うのだ。
 もし「魂」あるいは「感情」を表現しない役者がいたなら、そういう役者によってこの映画はつくられるべきだ。そうすれば小説に匹敵する作品になるかもしれない。でも、そんなことは最初からできるはずがない。
 特に、キャリー・マリガンは完璧に「魂」をもった「肉体」として映画にデビューしてきている。キャリー・マリガンには存在感がある。「過去」がある。それをキャリー・マリガンの「肉体」は最初から具現している。そういう役者が、ドナーに「魂」はあるか、それはどのように救済されるべきかというテーマを演じても、それって、おかいしいでしょ? 前提が完全に間違っているでしょ?

 このテーマを「未来」のこととしてではなく、「近過去」を舞台にして描いている点(小説もそうなのかな?)、美しいイギリスの風景(映像がすばらしい)、そしてイギリス特有の「個人主義」(他人のプライバシーは、その人が語らないかぎり存在しないという感覚)、そのなかで形成されていく「肉体」の奥深さ、--おもしろい要素が完璧に描かれれば描かれるほど、こんなふうに「人生」を描かないでくれよ、といいたくなる。
 キャリー・マリガンは今回もとてもすばらしく、彼女がすばらしければすばらしいほど、あ、この映画は、でも絶対に小説のことばの美しさには追いつけないのだということがはっきりわかるのだ。
 もし幸運にも、この映画がカズオ・イシグロの小説を原作としているということ(小説がすでに存在すること)を知らずにこの映画を見たなら、それはそれで感動するかもしれない。キャリー・マリガンの哀しみに、こころを揺さぶられるかもしれない。でも、たとえその小説を読んでいなくても、小説があるということを知っていたら、そして小説のことばというものがどんなふうに動くものであるかを知っていたら、この映画はとんでもない間違いをしていることに絶対に気がつく。
 映画にはむかない小説(ことばの運動)というものがあるのだ。そういう意味では、カズオ・イシグロの小説は小説でしかありえない何事か実現しているのだから、大傑作ということになる。小説を読んではいないのだが、映画を見て、あ、この小説はすごい--と実感できる。小説のすごさを知らせるためにつくられた映画ということになるかもしれない。
                      (2011年04月12日、KBCシネマ2)


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