詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高塚謙太郎「日本鰐文学大全拾遺」、望月遊馬「(着ぐるみの時間)」ほか

2011-04-09 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
高塚謙太郎「日本鰐文学大全拾遺」、望月遊馬「(着ぐるみの時間)」ほか(「サクラコいずビューティフルと愉快な仲間たち」2、2011年03月20日発行)

 高塚謙太郎「日本鰐文学大全拾遺」は「鰐」を主人公にして、既成の文学を書き直している。

 吾輩は鰐である。名前はまだない。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。なぜなら皆河から一歩も出たことがなかったのだから。死もまたひとつの誕生であった。名前はそのつど呼びなおされ、その血が名前の振りをし始めるだろう。これは予想されてもいい。鰐である。名前はまだない、という自同律の不快の真逆のごとき、或いはまた更なる真逆のごとき寂しさに、季節は緩慢に、極彩色の井戸となって暗渠の枠を越えて繰り返す、吾輩は鰐、鰐として吾輩、井戸の底からこんにちは。

 こうした作品を読むと「文体」を引き継ぐというのはなかなか難しいものだと思う。「意味」を受け継ぐのは簡単であるとは言わないけれど、まあ、なんとか引き継げるものだと思う。けれど、「文体」というのは、よほどその作家に耽溺してしまわないと身につかない。その作家の「文体」になってしまって、そこから逸脱していく--猫から鰐へと逸脱していくとき、「文体」が変わる。その濃密な「恋愛感情」のようなもの、あるいは愛憎入り乱れた感情のもつれみたいなものが出てくるとおもしろいのだけれど、こういうことは短い文章では難しい。
 映画「川の底からこんにちは」を私は見逃しているのでなんとも言えないのだが、石井裕也の映像文体(?)は、漱石と文体とどんな関係があるのだろうか。そのことを織り込まないと、猫を鰐にかえて、瓶を井戸にかえただけになってしまわないか。



 望月遊馬「(着ぐるみの時間)」の書き出し。

着ぐるみに対して無自覚になれるようなテーマパークの日常では、水としての青と独白の紙があり「親子の時間(ツユクサ)頬骨のあたりに、指をあてて、大きなからだと小さなからだが対峙していた。

 書かれている「内容(意味)」がすっとわかる部分と、これは何を言っているのかなあ、と考え込む部分がある。「頬骨のあたり」以後は、「親子」が自分の頬に指をあてるような、いかにも、あ、親子という同じ形(肉体のコピー)をして向き合っているらしい様子が浮かぶ。そうすると、その前の「水としての青と独白の紙があり」というのは、もしかすると写生のための絵の具(水彩絵の具)と画用紙のこと? テーマパークで親子写生大会が開かれている描写? まあ、全体の「内容(意味)」は詩だからいいかんげんな感じでつたわればそれでいいのであるから(勝手に「誤読」するのは読者の権利なのだから)、私は、ふーん、と思って読む。
 で、私がおもしろいと思うのは、私の「誤読」にしたがって書くのだけれど、「わかること」(分かりや丁文体)とわからないこと(わかりにくい文体--むりやり私が「誤読」によってねじ曲げて読んでしまうしかない文体)が、あらわれたり消えたりすることである。
 そして、その亀裂に、何か強烈なものが噴出してくる瞬間がある。

アサガオの葉の青と赤の色をした帽子のツバが、首のむこうのに投げだされた、瞬間の滞空時間に眼をひらいて、手をのばした景色の先で、震えている、ような瓦解した(タオルで汗をふいて眼を細める)渦の虹の七色がマフラーを編んでいく、スコップでの作業が数時間もつづいて、筋肉痛になりかけていたが、(トマトが食べたい)

 「瞬間の滞空時間に眼をひらいて、」が、その強烈な「もの」である。「ことば」なのだが「もの」のように、文章に侵入してきている。
 ふと何かを見つめ、そこに何かを発見する(美、かもしれないし、感動、かもしれない)。その視線の動きを「滞空時間」と呼んでいる。視線は「滞空時間」を「漂う」のではなく、貫いて動く。さらに「眼をひらいて」みつめるだけではなく、その「眼」から「手」が伸びていく。視線は「手」になって、「滞空時間」をつかむのである。
 こんなことは、まあ、実際の肉体はできないね。
 けれど、ことばを潜り抜けた「肉体」はそういうことができる。
 できるのだけれど、こういう無理(?)というか、過激なこと、--まだだれもしていないこと、望月が初めてしたことをしてしまうと、それまでの「文体」がくずれてしまう。いままでと同じ「文体」では世界が維持できなくなる。
 だから、

景色の先で、震えている、ような瓦解した(タオルで汗をふいて眼を細める)渦の虹の七色がマフラーを編んでいく、

 ひとつひとつのことばはわかるけれど、つなげてしまうと何のこと? わからないよ。としか、いいようのないことばがあらわれる。「震えている、ような瓦解した」の読点「、」のあいまいさ(とは言っても望月にはわかりきっていることなので、説明できないこと)、さらにかっこで補足されることばがあって、さらに「渦の虹」という、何がなんだか見当のつかないものが出てくる。
 わけがわからないのだけれど、その直前に「瞬間の滞空時間に眼をひらいて」という強烈なことばがあるので、ああ、こうなるしかないのだな、と納得できる。
 ことばが「肉体」をもってしまって(というのは、ちょっと変な言い方になってしまうが)、その「肉体」のなかに、未生のことばがあふれてくる。「文体」におさまりきれないことばが次々に動きだして「文体(肉体)」を破って動きはじめる。
 そういうことを感じる。



 榎本櫻湖「陰茎するアイデンティファイ--あらゆる文字のための一幕のパントマイム--」。タイトルに端的にあらわれているが榎本は「文字」が好きなのである。「ことば」は「音」と「文字」によってあらわすことができるが、榎本は「文字」を優先させる。

《記号と非記号のはざまで割れる柘榴、よりも》

 この書き出しの行からさえも、榎本の「文字」に対しする偏愛がうかがえる。「文字」をとおしてなら、ここに書かれていることは理解できるが、これを「音」として聞いたなら、私は何を聞いたのかきっとわからない。「ひ・きごう」というような「口語」を私はもたない。(私はそういうことばを言った記憶がない。)「記号」と「記号ではないもの」となら言えるが「非記号」では舌が回らない。聞いたことがない音は言えない。聞いたことがある音さえ再現できないのだから、聞いたことのない音は再現のしようがない。けれど、眼の力はちょっと違っていて「非」という文字を何度も見ていて覚えているので「非・記号」を瞬間的に理解してしまう。
 「柘榴」も同じである。この文脈で「ざくろ」という音を聞いて、「柘榴」を思い浮かべられるひとは何人いるだろう。いま、なんて言った? びっくりしてしまうだけである。混乱するだけである。
 けれども、眼は混乱しないのである。
 榎本は、この「眼の力」を利用して、ことばを書いている。ことばを動かして書いている。
 

……蠢動と顫動のさなかに滴る蜜月の、海洋へととめどなく流れゆく吐血による櫛水母の残骸を集め、瀕死の刺胞生物から他の刺胞生物へと伝達される、ありうべき脱臼、

 ここに書かれていることも、「音」として最初にであったなら、何のことかさっぱりわからない。「しゅんどう」「せんどう」--こんなめんどうくさいことばを区別してつかうな、と私の「耳」は言う。けれど「眼」は瞬間的に「蠢動」と「顫動」を見わけ、同時にそれが「動」ということばで統一されていることを知る。この「統一」(合体?)から「滴る蜜月」ということばが導き出されてくるのも「眼」は予感できる。「ハネムーン」ではなく「蜜月」であるというのも「眼」にはやさしい。これが「ハネムーン」だと、「蠢動」「顫動」がうまく結合しない。結合した瞬間に、分離してしまう。粘着力がなくなる。
 榎本の「文体」は粘着力を特徴としているが、その粘着力は「文字」によるものである。「音」では粘着しすぎていて、わけがわからなくなる。
 この詩(?)が「パントマイム」向けの台本というのも、「文字」偏愛と関係がある。「文字」偏愛は、「視覚」偏愛でもある。「パントマイム」は「音」をもたない。音がなく、「肉体」の動き--目で見えるものが「ことば」を語るのである。
 この詩がパントマイムで表現できるかどうかはわからないけれど、「視覚」偏愛という榎本の「肉体」から言えば、どうしてもそうなる。
 また、私のように「耳」が悪いけれど「耳」でしか理解できない人間には、この詩が朗読の形(音のある形)で表現されてもわかるはずがないから、まあ、パントマイムの方がわかりやすいかもしれないと思う。



さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社

キョンシー電影大全集 -キョンシー映画作品集-
田中 克典,望月 遊馬,長田 良輔
パレード
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ルキノ・ヴィスコンティ監督「山猫」(★★★★)

2011-04-09 17:50:46 | 午前十時の映画祭
監督 ルキノ・ヴィスコンティ 出演 バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ

 美とは何か――破壊である、とルキノ・ヴィスコンティはいうかもしれない。ラストの舞踏会のシーンは何度見ても飽きないが、同じようにクラウディア・カルディナーレが最初にあらわれるシーンがおもしろい。美人だが気品がない。食事のシーンに、それが露骨に出る。アラン・ドロンの話を聞くときに、肘をついてしまう。いまでこそ誰もがテーブルに肘をついて食べるが、貴族はきっと肘などつかない。(庶民も、昔は肘をつくと行儀が悪いと言われた。)さらに話を聞きながら唇をかむ。挙句の果てに、アラン・ドロンの話に高笑いしてしまう。それは気品がないを通り越して、下品である。バート・ランカスターが気分を害して席を立ってしまうくらいである。しかしクラウディア・カルディナーレはそのことに気がつかない。
 ここに古い美と、それを破っていく若い力がある。ヴィスコンティはいつでも、古いものを破っていく若い力によりそう。古い美、彼がなじんできた美しいものに深い愛をそそぎながらも、それを壊していく力、新時代の方によりそう。
 バート・ランカスターがかわいがっているアラン・ドロン。その美。そこにはクラウディア・カルディナーレの演じる新興資産家(成金)の娘に通じる品の欠如がある。反政府軍(赤シャツ)の活動をしていたはずなのに、いつのまにか政府軍(青服)にかわっている。節操(?)がないのである。節操がないかわりに生きていく力がある。ヴィスコンティはそれによりそう。
 若い官能によりそう、と言い換えてもいいかもしれない。「美形」にひかれるというのは、自分の美が壊されてもいいと思い、よりそうこと、その美のために自分がどうなってもいい決意する死の喜びでもある。自分の持たないものを受け入れる、そして自分が自分でなくなる――そこにヴィスコンティの死をかけた官能のよろこびがある。
 この対立する美が一瞬、調和する。それが最後の舞踏会のシーン。クラウディア・カルディナーレが社交界にデビューするシーン。贅をつくしたパーティー。そこでバート・ランカスターとクラウディア・カルディナーレがワルツを踊る。それまで大勢でダンスをしていたのだが、このときだけは踊るのは2人。他のひとは見事なダンスに見とれている。ダンスというのは基本的に男がリードする。ここではバート・ランカスターがクラウディア・カルディナーレをリードするのだが、それがそのまま古い美の形式が若い命の力をリードして、その美の形式を完成させる、という形をとる。そのときのクラウディア・カルディナーレの輝きはアラン・ドロンを嫉妬させるくらいである。
 アラン・ドロンがバート・ランカスターに嫉妬するのではなく、クラウディア・カルディナーレに嫉妬する。これはヴィスコンティの嗜好(性癖)を考慮するなら、ホモセクシュアルの匂いもしてくるのだが、それも完成された美にリードされて未熟な美が完成されていくことに対する嫉妬のなかに組み込まれていく。アラン・ドロンはバート・ランカスターにリードされて完成された人間になりたいのだ。これは全編を通じた2人の関係でもある。そしてまた、ヴィスコンティと若い俳優(特に男優)との関係でもある。ヴィスコンティには若い男優を彼の手で美の形式として完成させたいという欲望がある。
 最後の最後、若い命の力に席を譲って、ひっそりと路地の闇にきえていくバート・ランカスター――これは、ヴィスコンティの「理想の自画像」なのだと思った。

*

 バート・ランカスターはこの当時まだ若いはずだが、重厚な雰囲気と野蛮さがとけあっていてとてもおもしろい。野蛮さが肉体の奥にあるから、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレの生々しい欲望が招きあって、3人の行動がからみあい、昇華していくのかもしれない。「家族の肖像」をもう一度見たくなる映画である。
(「午前10時の映画祭」青シリーズ10本目、天神東宝3、04月09日)



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