詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「川」

2011-04-15 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「川」(「明日の友」2011年春号)

 池井昌樹は最近ひらがなばかりの詩をたくさん書いている。「川」もタイトル以外はひらがなである。この詩にあわせる形で谷川俊太郎が、

ひらがなばかりで書かれいてると、表意文字の漢字と比べて意味が取りにくくなるので、自然にゆっくり繰り返して読むようになる、おかげで言葉の意味だけでなく、肌触りが感じられるようになります。文字にひそむ声が、日本語に内在する音楽が聞こえてくるのです。

 と書いている。
 谷川の書いていることと重なるが、重なりを承知で感想を書いてみる。まず、全行引用する。

そぼをなくしたよるのこと
ちちははとかわのじになり
ちちははのおもいがおもわれ
ぼくはこどもにもどっており
ぼくらのしたではおじさんや
おばさんたちがやすんでおり
そのひとたちもいなくなり
いつしかちちもいなくなり
いつでもそばにいてくれた
だれひとりもういなくなり
よるはすったりふけまさり
けれどこどもにもどったまんま
まだねむれないこのぼくは
おててつないでともいえず
おしっこゆきたいともいえず
しらないかわのどこかしら
なにをなくしたかもしらず

 2行目に出てくる「かわのじ」というのは「川の字」、比喩だね。わかりきったことだけれど、そう書かずにいられないのは、最後から2行目の「しらないかわのどこかしら」の「かわ」が「川の字」というときの「かわ」とは違っているからだ。ほんとうに、どこかの「かわ」なのだ。それは「川の字」の「川」にはなれない存在である。「川の字」の「川」はあくまで親子3人の並んで寝ている様子であり、そこには「水」など流れていない。でも最後から2行目の「かわ」には水が流れている。「川の字」、その「川」という比喩が、比喩ではない「かわ」になっている。
 いつ、どこで、どうして、なぜ?
 これは、わからない。

 1行目「そぼをなくしたよるのこと」から6行目「おばさんたちがやすんでおり」というのは、過去の1日のことである。親類が家に集まってきている。池井と両親は2階に寝ていて、親類は1階に寝ている。
 そのあと、時間が一気に飛躍する。7行目「そのひとたちもいなくなり」から10行目「だれひとりもういなくなり」は、祖母を夜から以後の日々のことである。「過去」の日から「いま」という日までの時間の経過と、その時間のなかで起きたことが書かれている。
 6行目と7行目には「断絶」がある。
 11行目「よるはすっかりふけまさり」から15行目までは「いま」が書かれている。そしてその「いま」から祖母が亡くなった日、その「過去」を思っている。過去には父と母がいて、「川の字」になって、池井といっしょに寝ている。そのことを池井ははっきり思い出すことができる。「いま」と「記憶の一瞬」がぴったり重なる。
  6行目と7行目のあいだにあった「断絶」、そして7行目から10行目までの「中間的過去」も消え去り、「いま」と祖母の亡くなった「よる」がぴったりかさなる。
 その重なりのなかで「川の字」になれない「かわ」そのものがなまなましくよみがえる。「川の字」になって池井は両親と寝たのではないのだ。「かわ」そのものになって、両親といっしょにいたのだ。
 「川の字」(漢字)ではなく「かわ」そのものになって、そこにいたのだ。
 でも、「かわ」って何? 「川」ではあらわせない「かわ」って何? 水がどこからともなくながれてきて--いや、どこからともではなく、遠いところから着実に流れつづけている。その流れの「いま」に池井はいる。いつでも「流れ」の「いま」にいる。
 その「かわ」が「どこ」にあるか、池井は知らない。どことは特定できない。「いま」、その「かわ」があるということはわかるが、それが「どこ」かわからない。どこかわからないというのは、別な言い方をすると「どこ」と特定しなくても、いつでも「ここ」であるからだ。それは「ここ」とは切り離せない「どこ」である。だから「どこ」とはいえないのだ。「ここ」としかいえないのだが、その「ここ」にある「かわ」は、池井以外の人間には見えない。「川なんて、ないじゃないか。布団があるだけの部屋じゃないか」とひとはいうだろう。客観的にはたしかにそうなのだが、池井の「主観」の「いま」「ここ」に「かわ」はあるのだ。「かわ」と呼ぶとき、「かわ」と声にするときに「肉体」にふれてくるすべてものがあるのだ。でも、それを客観的にいうことはできない。「意味」にして語ることはできない。
 ひとはいつでも、そういう「矛盾」に陥るものである。

 最終行。

なにをなくしたかもしらず

 ここにも語ることのできない「矛盾」がある。何をなくしたか、池井は知らないのではない。知っている。反語なのである。「君恋し」という歌のなかに「乱るるこころに/浮かぶは誰が影」という行があるが、「誰の影」であるか「わたし」にはわかりきっている。「君」以外のだれでもない。わかりきっているから、それを言わない。言うと悲しくて苦しくなるからである。それと似ている。何をなくしたか知っている。わかりきっている。「こころ」がではなく、「肉体」が知っている。それはことばにまだなっていないけれど、ことばにしなくても知っている。ことば--ことばであることを超越して、知っている。
 あえて言ってしまえば「かわ」をなくしたことを知っている。そして、「いま」「ここ」で池井は「かわ」を見つめている。なくしたけれど、あるもの。あるけれどもなくしたもの。それが「かわ」である。そこにはちちはは、そぼとつながる「かわ」を超越したものがある。そういうものに「かわ」という「音」をとおして池井はつながる。「川」という「漢字」ではなく「かわ」という「音」で。池井は、その「かわ」の「音」を聞いている。



池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社
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シルヴァン・ショメ監督「イリュージョニスト」(★★)

2011-04-15 22:13:04 | 映画
監督 シルヴァン・ショメ 脚本 シルヴァン・ショメ、ジャック・タチ

 アニメと映画は違う--という当たり前のことをこのアニメは端的に教えてくれる。シンプルな映画は美しいが、シンプルなアニメは美しいとはかぎらない。
 ジャック・タチの映画のおもしろさは、シンプルさにつきる。ジャック・タチの表情はシンプルだし、肉体の動きもシンプルである。シンプルだけれど、そこにノイズが入る。ジャック・タチは、音楽の面から言った方がいいのかもしれないけれど、映画の中にノイズを巧みに取り入れている。日常のありふれたノイズを音楽にまで高めて取り入れているが、肉体の演技のなかでも、肉体のノイズを有効につかっている。この肉体のノイズはアニメでは不可能である。アニメは最初から何かが省略されている。ノイズが省略されている。役者が必然的に持っている「過去」というものを持っていない。いい意味でも悪い意味でも、アニメのキャラクターは抽象であり、創作物なのである。人間は(役者は)あくまで具体であり、拭っても拭っても拭いきれない「過去」の人生を持っている。アニメはどんなに精巧に描いても、この人間の持っているノイズを持ちきれない。どんなにがんばってみても人間の持っているノイズには追いつけない。
 これがたとえば人間ではなくロボットであったならノイズは有効である。たとえばピクシーの大傑作「ウォーリー」。最初の方にコウロギ(?)がウォーリーの体をはいまわるシーンがある。ウォーリーがくすぐったくて笑う。ロボットだからくすぐったいはずはないのだが、そのくすぐられて笑うということが人間の肉体の感覚とつながり、急にウォーリーが人間に見えてくる。くすぐられて笑うという「肉体」のどうしようもない生理反応のノイズが巧みに取り入れられている。先割れスプーンをフォークに分類すべきか、スプーンに分類すべきか悩んで、中間にあたらしい項目をつくるところなども、人間の頭脳のノイズをあらわしたものといえる。そういう「論理化されていない」何か、一種の反応としてのノイズの力というものが、この「イリュージョニスト」には欠落している。
 脱線ついでに書いておけば、シルヴァン・ショメの前作「ベルヴィル・ランデヴー」(★★★★★)にはいろいろなノイズがあった。たとえば少年の飼っている犬。おもちゃの列車に尻尾をひかれたことがトラウマになっていて、アパートのそばを列車が通るたびにほえる。たとえばニューヨークのカエルたち。3人しまいが爆弾をもってカエル取りにやってくると、大急ぎで逃げる。そんなところに「人間的ノイズ」があった。
 今回の映画には、そういう「人間的ノイズ」がない。「人間」が主役だからノイズを持ち込むことが難しい--というか、どうしても本物の人間のノイズには負けるので、持ち込めないのである。
 ノイズが持ち込めないかわりにだろうか、「音楽」が大量に持ち込まれる。これが、またまた、とてもつまらない。ジャック・タチの「音楽」はシンプルでノイズそのものが音楽だった。ボールペンをノックするカチッカチッという音、ジッパーをあけるときのジーッという音、車のホイールが道路にころがる音……。
 この映画でも、たとえばおんぼろアパートの水道のノイズが音楽のようにつかわれている。意味のわからない英語(主人公はフランス人という設定)の音がノイズの美しさとして表現されているが、そのノイズをかき消すようにして「音楽」(いわゆるバックグラウンドミュージック)が鳴り響くので、ノイズの美しい「つぶつぶ」の感じ、手触りが見えなくなってしまう。
 アニメではなく実写でつくりなおしてほしい。切実にそう思う。そうしないと、ジャック・タチに申し訳ない。主人公の体つきや顔をジャック・タチに似させればいいというものではない。

 (ついでに書いておくと。「わたしを離さないで」はアニメにした方が小説を超えたかもしれない。アニメの人物のもっているノイズのなさというものが、小説の描く抽象的な人間の苦悩に迫るだけではなく、それを超えることができたかもしれない。人間が演じてしまうと、役者自身の「過去(存在感)」が抽象性を奪ってしまう。人間(役者)のもっているノイズについて、「わたしを離さないで」の監督と、「イルージョニスト」の監督は、同じ勘違いをしているといえる。)

 文句ばっかり書いたので……。
 少しほめておくと、アニメの絵そのものはとてもすばらしい。私がこの映画をみた福岡のソラリア1はスクリーンが暗く(また音響も非常に悪く、ノイズが紛れ込む)、本来の色が出ているとは思えないが……。「ベルヴィル・ランデヴー」に通じるセピア色っぽい色彩計画がしっかりしている。街の風景や、カメラがぐるっとまわるような動きに思わず息をとめてしまう瞬間がある。人間造形よりも、時代がかわっていく瞬間の「街の風景(街の顔)」の方にアニメの力を注ぎすぎたのかもしれない。
                     (2011年04月15日、ソラリアシネマ1)


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誰も書かなかった西脇順三郎(208 )

2011-04-15 11:48:23 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「神々の黄昏」。
 西脇は、一般には漢字で書かれる固有名詞をカタカナで書く。知っているけれど、それに出会うと私は驚く。

六月も半ばをすぎると残忍なものだ
もろもろの神と英雄の影をつたつて
グンマの山の奥で一夜
すごさなければならない

 「グンマ」という表記は、ことばを「音」そのものに還してしまう。関東に住んでいるひとはそんなことはないだろうが、私のように関東から離れて住んでいると、埼玉、群馬、栃木のような内陸のごちゃごちゃとかたまった県はどこがどこかよくわからない。そのせいもあり、「グンマ」という表記は、ただ「音」だけをあらわす。どんな「図(地図)」とも重ならない。「視覚」とはまったく無縁のものとして、そこに浮かび上がってくる。もちろん「グンマ」が「群馬」であり、土地の場所をあらわしていることを知っているが、知っているからこそ、その「グンマ」という音が動くとき、いっそう、「場」(視覚)が消し去られたような印象を持つ。
 それは、そして1行目の、何やら「荒れ地」(エリオット)を思い起こさせることば--そして、ことばの「意味」を消し去る。あらゆることばに「意味」はあるだろうけれど、その意味を破壊して、ただ「音」がそこにある。その「破壊」のよろこびが、「グンマ」のなかにある。
 この「音」による「意味」の破壊は、

ノムーラはアリストテレスの修辞学の
講義を思い起し中途で消えた
クサーノは巴里かどこかへ旅立つた
イトーはサガミガワの上流へ
ロケに出てしまつた

 ひとの名前がただ「音」としてカタカナで書かれるとき、固有名詞は「過去」を失ってしまう。何かが動く--その「破壊」が、ことばの運動を軽くする。
 「意味」は常に破壊されなければならない。「意味」が破壊されるとき、そこに詩が生まれる。つまり、意味以前の、純粋、が噴き出してくる。

でもわれわれが人間の寂しきことを
嘆く瞬間が来た瞬間の連続は
永遠につづくが瞬間は女神にすぎない
太陽が亡びても時間と空間は残る
時間と空間という意識も死と共に
亡びるポポイーだがザマーミヤガレ

 この「ザマーミヤガレ」は、私には「音」そのものにはなりきれていない感じがする。(音楽、を感じることができない。)それでも、なんとか「意味」を破壊したいという西脇の欲望を感じる。
 そして。
 ちょっと不思議なことも思うのである。「ザマーミヤガレ」が単に乱暴の導入というよりも、前に出てくる「サガミガワ」と重なって聞こえる。
 そのせいもあって、「瞬間」とか「永遠」とか、いわば哲学的なことばの連続から、次のように急にことばが方向転換しても、違和感がない。妙になつかしい感じさえしてくるのである。

夢の中でウグイスがないている

 その夢の中は「イトー」が向かった「サガミガワの上流」と重なる。「ザマーミヤガレ」という「音」の力で。
 そこに西脇のことばの「音」のおもしろさがある。




詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
新倉 俊一
みすず書房
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