詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林堂一『昆虫記』

2011-04-16 23:59:59 | 詩集
林堂一『昆虫記』(編集工房ノア、2011年04月01日発行)

 林堂一『昆虫記』は少し曲者である。
 林堂一『昆虫記』は文字通り「昆虫」を題材にして書かれた詩集である--と書こうとして、そのことに気がついた。
 たとえば巻頭の「尺取虫」。シャクトリムシは、まあ、ほかの青虫と同じように蝶か蛾になるのかもしれないが、私はそれを識別できない。シャクトリムシは見た記憶があるが、それが蝶か蛾になったのは、見たことがあるかどうかわからない。つまり、見ていても気がつかない。だから、「これがシャクトリムシが蝶(蛾)になった姿です」と何かを見せられたと、それを嘘だとも言えないし、そのとおり(ほんとう)だとも言えない。
 なんだかずるい(?)ことを林は書いている。
 わかったような(?)、わからないような(?)ことばに誘われて、それを読んだあと、さて、これは嘘? ほんとう? それがわからないなあ、と思うのである。
 (あ、ほんとうはこんな感想を書くつもりはなかったのだが、なぜかこんなことを書きはじめている。)

 で、その嘘かほうとうかわからないということが、おもしろいのでもある。
 「尺取虫」に戻る。その全行。

重力に逆らって
への字に背中を持ち上げる
全身に生じた応力を前方に逃がす
それが我輩
尺取虫の一歩前進である

 「重力に逆らって」の「重力」が傑作である。ほんとうに尺取虫は重力に逆らっているのかどうか知らないが--尺取虫が「重力」というようなことを知っているはずはない。これはあくまで林の「見立て」である。
 「への字」というのも「見立て」には違いないが、「重力」とは違ってそのまま目に見える。「背中」も見える。「持ち上げる」ときの様子も見える。
 でも、次はどうだろう。

全身に生じた応力を前方に逃がす

 「応力」というのも「見立て」だねえ。わけのわからない「見立て」だねえ。それを「前方に逃がす」というのも「見立て」なのだが、実際に前の方に押し出しているように見えるからなあ。
 どうもややこしい。
 「見立て」が2種類ある。
 単なる「比喩」が一方にある。「への字」のような「ことば」がある。「背中」のように具体的にそうとしかいえない「もの」を語る「ことば」は「比喩」によりそうようにして動いている。
 もう一方に「重力」とか「応力」とか、目には見えないけれど、「真実」を考えるときに必要な「ことば」(概念)がある。(物理学者は、「重力」「応力」を概念とは言わないだろうけれど……。)
 その二つが混じり合う。支え合う。
 そのとき、あ、たしかにそういう世界がある--と思うのだ。
 「重力」も「応力」も見たことなんかないのに、それがそこに具体的に存在していると思うのだ。
 「見立て」そのものが見えるように思えるのだ。

 これって、なんだろう。
 尺取虫(幼虫)が繭を経て蝶(蛾?)になる。その見たことのない蝶(蛾)を見るのとは、まったく逆(逆でいいのかな?)の方向にあるものが見えた気持ちになる。

 これは、なんといえばいいのかなあ。
 林は「昆虫」を書いてはいないのだ。ファーブルのように「昆虫」を観察しているわけではないのだ。そうではなくて、「昆虫」を見て、「昆虫」を書くふりをして、「見る」ということ(見立てる)ということ--そういう「人間」の精神を書いているのだ。
 林が「昆虫記」を書いているのではなく、昆虫が「人間記」を書いている。「昆虫」によって書かれた「人間記」という感じのものが、林のことばのなかにある。
 「蓑虫」は、そういうことばの運動がもっとも透明な形で結晶した作品といえるかもしれない。

存在理由を言われると
よわるんだ
そんなもんあるわけないよって
開き直るのは簡単だけれど
太陽がぎらぎら
たったそれだけの理由で
踏みつぶされても
文句は言えないし

しいて、
言えば、

きみに愛されている
それだけだよ
きみがいなくなったら
ぼくもいなくなっちゃう

わたしだってそうだわ
あなたが存在理由

茶柱の鎧に身をかためた蓑虫と
スエードのコートを着た蓑虫が
二疋
シャシャンボの枝にぶらさがって
きれぎれに
そんな会話をかわしている

風がかすかに来て
揺れて
存在理由がよろけて
もひとつの存在理由にちょっと触れた

 最終連は、昆虫である蓑虫--の描写ではなく、人間の、男と女の「腐れ縁」のようなあったかさがあるねえ。
 「存在理由」などという変な「見立て」--哲学というのかな? 思想というのかな?--そういうものを昆虫が(蓑虫が)くすくす笑っている感じがする。
 これはいいなあ。

 同人誌「乾河」で読んでいたときは気がつかなかったが、林のことばは不思議な「くすくす」を含んでいる。
 「くすくす」
 「おい、笑うな。笑うなんて失礼だぞ」
 「いえ、笑っていません(後ろむいて、くすくす)」
 という感じかなあ。
 随所に、とても静かな、しかし誰にもゆずることのない頑固な「批評」がひそんでいる。さりげないが、強いことばで構築された詩集である。

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ナボコフ『賜物』(42)

2011-04-16 23:14:20 | ナボコフ・賜物
  110ページから、ことばの調子が一気に変わる。主人公を含む3人が詩の朗読の会場を脱けだし、ストゥピシンは電車の停留所に向かい、ゴドゥノフとコンチェーエフは逆の方向に歩きはじめる。そして、すぐに別れが来る。ひとりは右にひとりは左に。

 二人は別れた。いやあ、なんていう風だ……。
 「……でも、待ってください。ちょっと待って。やっぱりお送りしますよ。あなたはきっと宵っぱりでしょうから、石畳の黒い魅惑についてぼくがお教えすることもないでしょうけれど。あの哀れな朗読を聴いていなかったんでしょ?」
「最初だけね、それもいいかげんに。とはいえ、あれがそれほどひどい代物だとはまったく思いませんよ」

 ここから二人の文学談議がはじまる。そのことばの動きが、とても速いのである。直前のコンチェーエフが「石畳の黒い魅惑について」というような、脇道へ逸脱していくことばとはまったく違ってくる。いや、さまざまなロシア文学のテキストをすばやく横断するのだが、そこには「逸脱」がない。「石畳の黒い魅惑について」というような「過剰なことば」がない。詩がない。かわりに、批評がある。
 この二人の対話に、私は、とても違和感を覚えた。
 そして、その違和感が、 120ページ、会話の最後でびっくりするような形で終わる。

「でも残念ですね、あなたと交わしたいと思っていたこのすばらしい会話を、誰にも聞いてもらえなかったなんて」
「だいじょうぶ、むだにはなりません。こんな風になって、むしろ嬉しいくらいです。ぼくたちは実際には最初の角で別れ、その後ぼくが一人で自分を相手に、文学的霊感の独習書に従って架空の対話を続けてきた--だからといって何なんです、そんなこと誰もきにしやしませんよ」

 二人の会話は会話ではなかったのである。ひとりで続けた対話なのである。だからどんなに対立してもそれは会話を加速するためのものである。
 これは、「会話」だけについていえることではないのだ。
 ナボコフはあらゆる描写を「ひとり」で繰り広げる対話の形で書いているのだ。「会話」の形をとっていないが、そこに書かれていることは「対話」なのだ。ことばと対象とナボコフの間を行き来している。人間が風景について語るだけではない。風景がナボコフの投げかけたことばに対してことばを返してくる--ということをナボコフは描写の中でおこなっているのである。
 架空の二人の対話において、どちらがどちらであるかは重要ではない。いれかわってもかまわない。同じように、ナボコフの情景描写においては、それが人間の側からおこなわれたものであるか、あるいは情景の方からおこなわれたものであるかは、どうでもいい。双方で対話がある--対話しながらことばが動いていくということが基本なのだ。
 ナボコフは、ここでは、彼自身のことばの運動の構造を教えてくれているのである。二人の対話がはじまる寸前、

「ぼくがお教えすることもないでしょうけれど」

 ということばがある。それはゴドゥノフに言っているのではなく、読者に対して言っているのだ。逆説的に、あらかじめ予告しているのである。
 ナボコフのことばには、ときどきこんな「予告」がある。そして、そういう「予告」からはじまる文章は、この作品の110 ページから 120ページまでがそうだが、それが終わるまでは途中で休むことができない。ナボコフの小説は、たいてい、どこから読んでもいい。どこでやめてもいい。けれど、ときどき途中で休めない部分がある。
 その部分というのは詩ではなく、いわば評論が主体になっている。




ディフェンス
ウラジーミル ナボコフ
河出書房新社
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