詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(4)

2011-04-25 23:59:59 | 詩集
永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(4)(思潮社、2011年04月25日発行)

 永島卓のことばはねじれている--と書くと、「おまえのことばこそがねじれている」と言われそうだが……。私は永島のことばが「ねじれている」ことを批判しているのではない。評価しているのである。ことばは誰のことばでも「正確」ではない。必ず「間違い」を含んでいる。そこに引きつけられるのである。「正確」を破ってはみだしていく力--そこにことばの本能、欲望をを感じるのだが、それはことばの欲望・本能であると同時に永島自身の欲望・本能、つまり「肉体」だと思うのである。「正確」を破ってことばが動くとき、ことば自体は「間違える」のであるが、そのとき「肉体」は間違えない。欲望や本能は間違えない。欲望や本能が間違えないからこそ、それを制御できない(?)ことばのほうがねじれて、逸脱していく。「間違い」を突っ走る。
 そして、そのときの永島のことばの特徴、「肉体」の特徴、欲望・本能の特徴は「長い呼吸」である。「息継ぎ」がないところにある。本来(?)、ふたつのものが、「息継ぎ」によってふたつに整理されるべきものが、「ひと呼吸」(一息)のなかに封印される。どういえば、いいのだろうか。「もの」と「思考」が「ひと呼吸」のなかに閉じ込められ、強引に攪拌されて吐き出される。
 それは一種の「嘔吐」かもしれない。
 吐瀉物--何かしらの原型をとどめながら、異臭を放って輝く汚物。それは「美しい」ものではないかもしれないが(一般的には「美しい」とは言われないが)、なぜか「美しい」と感じるときがある。それは、吐瀉物のなかに「もの」の形が残されているからなのか、それともそこに「もの」を吐き出してしまう「肉体」のどうすることもできない抵抗の「力」があるからなのか--よくわからない。たぶん、そこには「もの」と「肉体」のせめぎあい、抵抗の「力」が輝いているのだ。

 あ、きょうもまた、変な具合にことばが動いていく。「吐き出す」ということばが動き、それが「吐瀉物」にかわったときから、私はどうしようもなく逸脱しはじめている。だんだん永島の作品を離れ、私の感じている「感じ」の方へ傾いて、暴走しはじめている。永島の詩にもどろう。もどらなければならない。

 「夏の冬」。「原爆投下したアメリカの男がテレビで話す戦争」というサブタイトルがついている。

わたしの乾燥した八月の河に だれも乗っていない船が
座礁して 客室には家具も調度品もなく テレビが一台
置かれ 訪ねてくることのなかったきみが 杖をつき古
い靴を引きずりながら なぜかテレビの中からわたしに
近寄ってきて かってこれ以上失うものは我々によって
のみ回避できたのだと 胸を張り自身ありげに話をして
きた
           (谷内注・「自身ありげ」は「自信ありげ」だろうと思う。)

 これは、サブタイトルを頼りに「理解」すれば、テレビでアメリカの男が原爆を投下したときのことを自慢げに(自信ありげに)話した、それを聞いたということだろう。「我々が原爆を投下し、戦争を終結させた。その終結によって、それ以後の損失を回避できたのだ」とアメリカ人が自信ありげに話したのを聞いたということだろう。
 そのときの「背景」として「八月」「座礁船」がある。「八月の座礁船」を思い浮かべながら、その座礁船に乗っているのが「わたし」だと感じながら、永島はアメリカ人の話を聞いたのだ。
 戦争に敗れた「日本」が「座礁船」の象徴かもしれない。ここには、あまり「逸脱」というものがないように見えるが、「座礁船」という「比喩」が「逸脱」である。--それは、あまりにも平凡な(?)比喩なので、逸脱とは気づきにくい。しかし、戦争に敗れた国を、座礁した船、動かなくなった船と呼ぶのは、「逸脱」であることに間違いはない。永島は、それを実際に座礁船のなかで聞いた(見た)のではなく、彼自身の家で(たぶん)見聞きしたのだから。永島の「肉体」のなかに「座礁船」が姿をあらわし、それがアメリカ人のことばを受け止める。
 そうすると、アメリカ人の話していることが、「胸を張り自信ありげ」という態度とともにあらわれてくる。この部分も、実は、逸脱である。「これ以上失うものは我々によってのみ回避できた」が話の「内容」だとすれば、その「内容」が「正確」であるかどうかは、その「内容」を分析・吟味することによってのみ判断されるべきことなのだが、人間は(人間の本能)はそんなふうには動かない。無辜の日本人を大量殺戮しておいて、その態度、「胸を張」るその態度は何なんだ。その「自信」は何なんだ。おかしいじゃないか。--これは、私の「ことば」で言いなおすと、永島はアメリカ人の話した「ことばの意味」に反発していると同時に、その「声」(肉体)に反応しているということである。そして、こういう反応、「声」(肉体)に対する反応には、絶対に「間違い」というものはない。そして、これからが面倒くさいのだが、その反応が「間違いない」ということを、もう一度「頭」をとおしたことば、整理したことばに置き換えるのは、実は、とても面倒である。そんなことは、普通、人間にはなかなかできない。相手の態度にむかっときて、怒りが爆発する。「意味」ではなく、「声」、「肉体の音」で反撃し、けれど、十分に反論できずに、哀しく、悔しい思いにとらわれる。
 「息」が、まず「本能・欲望」(怒り)を吐き出してしまって、「意味」がついてこれないのだ。「意味のないことば」(反論にならない反論)になってしまう。「間違い」を言ってしまう。--けれど、その「間違い」こそが、唯一「正しい」ものなのだ。

   積雲の層がテレビのなかに充満し なお透視でき
ない白光した光の粒が テレビの全面ガラスの奥から無
数に飛んできて わたしは知らず知らずにテレビの中心
に引き込まれ 締めつけられる目や胸をさすりながら
いつしか狭いブラウン管の管道へ吸引され気を失ってい
った

 これは、アメリカ人の発言に怒り、その怒りで永島の体が苦しくなったということを「比喩」をつかって書いているのだが。
 ほら、ここには大量殺人に対する論理的批判(意味)というものが、ひとことも書かれていないでしょ? この反論がアメリカ人に通じるわけがない。通じるわけがないのだけれど、そこに「意味」を越えた「正しさ」(間違いのなさ)がある。
 こういう「意味を越えた間違いそのものの正しさ」(矛盾した言い方だねえ)が永島のことばを動かしている。「息」のなかで「間違い・正しさ」が同居して動いていく。「間違い・正しさ」が語弊の多い表現だとすれば……この詩集の感想として最初に書いたこと--ふたつの文章が結合して動いていくというのが永島の「ことばの肉体」なのだ。

   しばらくして気が付くと 見渡すことができない
ほどの草原大地と 突き抜ける青空がわたしの視野をひ
ろげていた 風もなく雲も森も馬も鳥もない澄んだ異境
の地に ひと一人いない平穏も犯罪も触れられない の
っぺりした明るさだけが絵葉書のように現出し こんな
筈では決してなかったのだと あらゆる自戒や弁明のな
い刃物の並んだキッチンのような空間で 許すことと同
じくらいに忍び寄る保留なしの絶望がやってきた

 「意味を越えた間違いそのものの正しさ」は、それでも「ことば」になろうとする。一気に、息継ぎ(呼吸)をしないまま、動く。たとえば、それが、

あらゆる自戒や弁明のない刃物の並んだキッチンのような空間で

 である。「刃物の並んだキッチン」ならだれでも想像できる。けれど「自戒や弁明のない刃物」って、何? わからないでしょう? まあ、「意味」は考えろといわれれば考えるけれど……。考えてもしようがないというか、「自戒や弁明もない」と「刃物」というかけ離れたものを「ひと呼吸」のなかに閉じ込めてしまう「肉体」が永島だと信じるのがいちばんいいのだ。その「肉体」を好きになる(納得する)かどうかが、読者にまかせられているである。

許すことと同じくらいに忍び寄る保留なしの絶望

 これも同じである。こういうことばは、どんなにていねいに分析(?)してみても、永島にはたどりつけない。ただ、そのことばを好きになるかどうか。その「間違い」を、読者が受け止めるかどうかだけなのである。「肉体」で共感するかどうかだけなのである。私は「共感」できているかどうか、わからない。「共感」は私の「誤読」だろうけれど、「誤読」だろうなんだろうが関係ないのだ。私は「共感」するのだ。




永島卓詩集 (1973年)
永島 卓
国文社


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誰も書かなかった西脇順三郎(212 )

2011-04-25 12:07:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「フォークナーの署名」。

かれの旅の終りで彼は自分の心に
何というだろうかと東の国につれてこられた
この夏の夢をみる大きな神がかりの
男の霊のために
私の見たことを思いおこすのだ

 この書き出しは、わかるようで、わからない。わかるように感じるのは、そこに書かれていることばのひとつひとつが全部わかるからである。わからないのは、そのことばの接続が変だからである。こんなふうに私は語らないし、こんなふうに誰かが語るのを聞いたことがない。
 特に2行目がわからない。

何というだろうかと東の国につれてこられた

 「何というだろうか」と「東の国につれてこられた」の関係がわからない。そのふたつのことがらが「と」で結びつけられている「理由」(根拠?)がわからない。
 「何というだろうか」は1行目の「かれの旅の終りで彼は自分の心に」に結びつけると、「かれの旅の終りで彼は自分の心に何というだろうか」になり、これは、まあ、わかる。旅のおわり、それまでの旅で見聞きしたことを思い起こし、自分の心に語りかけてみる。そのとき「何というだろうか」。
 けれど、それにつづく「東の国につれてこられた」は何? 誰のこと? 「かれ」(彼)? 
 かれは東の国に連れてこられた。その連れてこられた旅のおわりに、彼は自分の心に何を語るか、という意味だろうか。
 つづく3行はの「男」と「かれ」は同じ人間だろう。「かれ(この/男--3行目の行頭の「この」は4行目の「男」にかかるだろう。そして、「この」以下は、「男」の修飾節だろう)」は、夏の夢をみる大がかりな「霊」をもっている。
 その「男の霊」と向き合うために、(私は)「私の見たことを思いおこす」。
 なんとなく、「意味」が通じたかな。
 なんとなく、「意味」がわかった(ような)気持ちになって、読み返すと、でもやっぱり2行目でつまずく。おかしいねえ。変な「日本語」だねえ。変なのだけれど、この行の真ん中の、変、の原因である「と」が不思議とおもしろい。わからないからこそなのかもしれないけれど、「と」が楽しい。
 「何というのだろうかと」というとき、「と」が繰り返される。そのくりかえしにあわせるように、次の「東の国につれてこられた」では「れ」がくりかえされており、その「音」がとても印象に残る。「つれて」「こられた」。「つ」と「こ」が似ているというと奇妙だけれど、私の「肉体」には何か響きあうものがある。「つれてこられた」というとき、早口ことばの「つまずき(つっかえ?)」というか、言い間違いになるような「音」の響きあいがある。「耳」ではなく、そのことばを「声」にするときの「肉体」(喉や舌や口蓋や……)のなかで何かがつながって「音」がすぐには出てこない感じがする。それが「思いおこす」という5行目の「意味」とも通い合う。
 さらに「何というのだろうかと」の直後の「東の国に」。これが不思議なことに、「ひがしのくにに」ではなく、私は「とうごくに(東国に)」と読みたい欲望を誘うのである。私にとっては「とうごくに」の方が2行目の音の響きあいは魅力的なのだが、西脇は「ひがしのくにに」と読ませている(たぶん)。そしてその「ひがしのくにに」が、私の音の印象ではちょっと「音色」が違っているので、今度は、その違いが次の行への飛躍というか、切断を身軽にする。
 あ、不思議だな。

 こういう印象は、詩の鑑賞にとって、どんな意味を持つのかわからないが、私はいつもそういうことが気になるのである。「意味」は気にならない。ことばの「出典」も気にならない。ただ、「音」の動きが気になる。

 詩はつづく。

かれは大使館の涼しい隅の席に
ただひとりすわつて空の日射病のあと
しばらく休んでいた

 「空の日射病」というのは変な表現である。こんな「日本語」はない。ないのだけれど、おもしろいねえ。とても目立つねえ。そして、おもしろく、目立つだけではなく、このことばが全体の中になじんでいる。
 なぜだろう。
 ここにも私は「音」の影響感じるのだ。「そらのにっしゃびょう」。「さ行」、特に「し」の「音」。

かれはたい「し」かんの「す・ず・し」い「す」みの「せ」きに
ただひとり「す」わつて「そ」らのにっ「し」ゃびょうのあと
「し」ばらくや「す」んでいた

 また「た行」も交錯している。「た」いしかん、すわ「つ・て」、に「っ」しゃびょう、あ「と」、やすん「で」い「た」。

 こういう「音楽」の助走のあと、西脇のことばは「カタカナ」の多い「ヨーロッパ」(というか、西洋というか……)へと飛翔する。

この没落のジュピーテルは空間のように
透明でこの静かなポセイドンのような
この百姓は鳶色の神からうまれた
いまは山国にあるアンズの国への
旅を考えているそこで牧人たちを
集めて夏期大学を開こうと
考えていたのであつた
西国人の心についてかれの笛のような思想を
東方人に語ることを考えていた

 ここでも、私の耳はいろいろな「音楽」を感じるが、書くと煩雑になるのでひとつだけ。
 「東方人」。ね、「東の国に」ではなくて、やっぱり「と」で始まる「と」うほう人。「西国人」と「さいごくじん」なのだろうけれど、私は「せいごくじん」と読みたい気持ちでいっぱい。「せーごく」「しそー」「とーほー」。音引きであらわす「音」が交錯するからね。これはさかのぼれば(?)、「ジュピーテル」「くーかん」「よーに」(よーな)「とーめー」とも響きあう。


西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店



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