詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

糸井茂莉「夜。括弧(  )、のために」

2011-04-28 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
糸井茂莉「夜。括弧(  )、のために」(「庭園 アンソロジー2011」、2011年04月22日発行)

 糸井茂莉「夜。括弧(  )、のために」はタイトルどおり「括弧」が使われている詩である。書き出し。

ずれのなかで(声)が光って、生とそうでないものを選り分ける。
ひからびた手が乾いた草と土をわけるように。踏みしだく踵が(わ
たし)の轍をつくって、こすれる皮膚の硬いところを草の汁がみど
りに染める。雷鳴のような(声)だった(かもしれない)。(昼の)
残像。あわい痕跡。ぽろぽろとほどける土がこぼれ、水を孕んだ南
風が湿地のほうへ静かにみちびかれる。

 括弧に入ったことばは強調されているように思える。そして、その強調は、そこに何か一般的ではないもの、糸井だけのものがあるからかもしれない。括弧に入れたことばにこだわりがあるのだ。ただし、この最初の部分を読んだだけでは、何にこだわっているのかわからない。(声)(わたし)(昼の)は、まだ「独特の何か」を含んだもの、という気がしないでもないけれど(独特のものがあるといわれれば、そうかもしれないと思うことができるが)、(かもしれない)はちょっと困る。「かもしれない」という考え(思い)の動きが「独特」といわれてもねえ。「肉体」なら、たとえば 100メートル競走とか、 100メートルバタフライとかの場合は、選手の「スタイル」(動きのスタイル)に独特のものがあるかもしれないが、思考の「かもしれない」が独特とはどういうことかなあ。何かを疑う、ということとは違うのかな? どんなふうに独特なのかな?
 わからないまま、私は読み進む。そして書き進む。

湿地。鳥の生まれる浅瀬。

夜という中断にとって、わたしは(わたし)という異物。眠りとい
うかりそめの詩にとって、めざめていることは(生きること)の逸
脱。

 このあともことばはつづくのだが、ここまで読んで私は括弧の「わかった」と思った。つまり、「誤読」したいことをみつけた。ここに書いてあることを、私の読みたいように「誤読」していこうと決めたのだ。
 括弧とは「異物」の感覚なのである。そしてそれは「中断」であり、「生きること」なのである。
 「わたしは(わたし)という異物」と書くとき、「わたし」はひとりではない。いや、ひとりなのだが、(わたし)を「異物」と感じる「わたし」がいる。(わたし)を「異物」と感じることで「わたし」は「生きている」。「異物」と感じることは(生きること)なのである。
 あ、こんなふうに括弧をいくつも書いていると(私はいつも括弧をいくつも書くが、他人の括弧を引用しながら括弧を書いていると)、ちょっと区別がつかなくなる。それはわ私にとって区別がつかなくなるだけであって、糸井は違うだろう。いや、私が括弧をつけくわえたために、私の文章はわからないかもしれない。けれど、糸井自身が書いた文章でははっきり区別がついているはずである。
 と、しちめんどうくさいことを書いたのは。
 糸井はとってもしちめんどうくさいことを書いているからなのだ。

ずれのなかで(声)が光って、生とそうでないものを選り分ける。

 これは、ある声が何かしら「異物」をもっているように感じられたということである。そして、そう感じた瞬間、意識はちょっと「中断」する。声(ことば)は意味を持っている。その意味は文脈のなかで決定されるものだが、意味を追いながら、その文脈とは少し「ずれ」たことを感じる。その瞬間、声が(声)になる。
 この感覚は、まあ、説明がめんどうくさいね。
 めんどうなことを、糸井のことばを借りながら反復すると(ということばで「誤読」を押し進めると)、「異物」としての(声)を感じた瞬間、声が「ずれ」て(声)になったと感じた瞬間、わたしは(わたし)になる。「異物」を感じる(わたし)。(わたし)とはわたしから「ずれ」た存在なのである。
 その(声)を「雷鳴」という比喩でとらえ直しているのは、(声)が一瞬だったこと、衝撃的だったことを「意味」している。何か衝撃的な「音(雷鳴のように突然の存在)」として響いたということだろう。いや、そうではなく、この「雷鳴」という比喩は、あとから思いついたものである。(声)について書こうとしたとき、あとからやってきたものである。
 だから(かもしれない)ということばが「異物」として追加されているのだ。(声)を聞いたとき、その(声)を「雷鳴のような」と思ったとき(そのことばでとらえなおしたとき)、そこには「ずれ」がある。そこでは、その「雷鳴のような」という「比喩」が「異物」として動いているということである。
 「比喩」はあとからやってくる。だから、それは「異物」である。「比喩」とは、そこにないもので、いまここにあるものを説明することである。そのとき、いま、ここは「中断」されて、どこかになる。「異物」としての時間・空間が存在することになる。いま、ここから、いま、ここではないところへと動いていくことは「逸脱」である。
 ああ、めんどうくさい。と書くと糸井に申し訳ない気がしないでもないが、こういうことをくりかえし書くのは、正直めんどうである。こんなめんどうくさいことを書いても、けっきょくごちゃごちゃして、何が書いてあるかわからないようになるだけである--と思うので、途中を省略。
 「異物」「逸脱」「中断」--それを糸井は次のように書き直している。

括弧(  )、という魅惑的な中間地帯。括られることで閉ざされ、
なお風を通過させる開口部をもって。(とざされる)ことでひらかれ
るのを待つ。

 「中間地帯」とは「中断」と同じである。「中断」したとき、ことばは、何かと何かの「中間地帯」にある。(何かと何かは説明しない。省略した部分に(名づけられぬもの)ということばがある。糸井にも書きようがないののである。だから、説明はしない。)そして、それを「保留」ととらえ直せば、それはそのまま(かもしれない)になる。断定を回避する。
 そして、その「異物」を「異物」として括弧に入れる。括弧に入れるのは、それを閉じ込めることであるが、糸井のことばの運動をそのまま追えばわかるように、閉じ込めるのはそれについて考えるためである。「異物」と感じたものについて、ことばを動かすこと。つまり「中断」した地点、「中間地点」から、それまでめざしていたところとは違うところへ「逸脱」していくこと--つまりは、その括弧を開いて、別なところへいくことである。行けないまでも、行こうとすること、行こうとする思いが、動きだすのを待つということでもある。
 「中断」し、「中間地帯」で「待つ」。どこへ行くかもわからず「待つ」--そのとき(わたし)はたしかに「異物」である。(わたし)はわたしを邪魔しているともいえるからである。だが、その邪魔があってはじめて、どこかへ行くという運動が明確になる。

 あ、まためんどうくさくなった。
 またまた、省略。
 こんなしちめんどうくさいことは「頭」の問題である。「肉体」の問題ではない。だから、私は、こんな作品は大嫌い--と書きたいのだが、実は、書けない。大好きである。ここには「頭」しかない。「肉体」がないのに、なぜ?--と聞かれたら、またまた説明がめんどうなのだが、ここには「ことばの肉体」がある。「頭の肉体」がある。糸井は、私がいま書いてきたようなことを、「頭」で考えているのではなく、「肉体」で動かしている。「頭」が「肉体」とはなれず、「肉体」になってしまっている。それは別のことばで言えば、だれそれの文脈を借りてきてことばを動かすのではなく、糸井は糸井独自の文脈をつくり、そこでことばを動かしているということなのだ。糸井独自の文脈で動くことばをもっている。糸井の「ことばの肉体」は、独自に糸井の文脈をつくっているということなのである。--糸井の文脈、「ことばの肉体」「頭の肉体」(肉体化した頭)が独自であるから、それを私ふうに言いなおそうとすると(誤読しようとすると)、とてもめんどうになる。接点をみつけ、そこから侵入して行って、また出てくるというのが、ややこしい感じになる。
 ということは、まあ、おいておいて。

 私が糸井の詩が好きな理由は、そこに「音」があるからだ。糸井がことばを「音」(声)として感じているのを直感できるからだ。(と、これまた、めんどうなので、一気に飛躍して書いてしまう。)

ずれのなかで(声)が光って、生とそうでないものを選り分ける。

 糸井が「声」(音)にこだわっているのは、いつかの詩集で「イレーヌ」というひとの名前の変遷について書いた詩があったことを思い出してもらえれば十分だろう。「音」は人から人へと動く間にかわってしまう。かわりながら、しかし、何かを引き継いでいる。そこには「異物」と「同質」がとけあって動いている。括弧に括られ、閉ざされながら、次に開かれるときには何かが違っている。違っているけれど、それを貫くものがある。それを普通は「意味」というけれど、たぶん糸井は「意味」というより「音」(声)だと感じている。「意味」という「頭」で維持しつづける何かではなく、「声」として維持しつづける何か。「音」が「声」となって「肉体」そのものを潜り抜けるときの、快感、愉悦、悦楽……それこそを人間は維持しつづけている。追い求めている。その「肉体」のなかを貫く「声」にならない「音」、聞き取ることができない「音」(ことばという表現を借りれば、生まれる以前のことば、未生のことばになるのかもしれない)を、糸井はとても美しいことばで定義している。
 「ささやき」と。
 最後の部分。

      ささやきが風穴から漏れてゆく(  )、わたしが(括
られ)、夜の(闇で)くるまれるように。聴き取れない(ささやきが)
秘密となって溢れだすように。閉じられない鞘、(  )という欠
落。漏れる、光り(囲われながら放たれる夢の中身)。(わたしが)
わたしに見えないように。在ることと眠っていること(   )の
境目。つながったままちぎれ、ぶらさがって(寄り添っている)。風
が封じ込める/呼び入れる((  )のささやき)。

 なんという美しい声。鍛えられた声、とただただ感心する。





アルチーヌ
糸井 茂莉
思潮社


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ミカエル・ハフストローム監督「ザ・ライト」(★★)

2011-04-28 10:54:06 | 映画
監督 ミカエル・ハフストローム 出演 アンソニー・ホプキンス、コリン・オドナヒュー、アリシー・ブラガ、ルトガー・ハウアー

 とても笑えるシーンがある。主人公が「悪魔払い」をみた後、「悪魔」ではなく精神疾患なのでは、と疑問を抱く。それについて、アンソニー・ホプキンスが「緑のヘドを吐いたり、首がぐるっと回ったりしないからか」というのである。
 この映画は、実際に生存する「エクソシスト」の誕生までを描いているのようなのだが、彼らもまた、あの「エクソシスト」を見たという設定だね。この台詞だけで、「もうこの映画はフリードキンの映画に負けています」と宣言しているようなもの。いやあ、ウィリアム・フリードキンの切れのいい映像と比べると、これはもう物足りなすぎる。緑のヘドにしろ、首がぐるりと回るシーンや、ブリッジしながら階段をおりてくるシーンは、グロテスクでこけおどしのような印象があるが、実は、とても美しい。いつだったか忘れてしまったが、私は「リバイバル」か「名作上映会」か忘れたが、2度目に見たときの印象が1度目の「びっくり」「ぎょっ」とはまったく違っているのにおどろいてしまったことがある。どのシーンも非常に美しい。シャープである。映像にとどこおりがない--というのがフリードキンの映画をあれだけヒットさせた理由である。
 この映画がいくらか「ていねい」だとすれば、見習いの「エクソシスト」が悪魔というものを信じていなくて、悪魔に取りつかれている少女を精神疾患と見ているということである。精神病理学の視点で少女を観察し、また科学的な治療が必要だと主張する点だろう。--でもねえ、これだってフリードキンの作品に比べると、物足りない。
 フリードキンの作品では、精神病理学を説く神父がでてきたかどうか忘れたが、ちゃんと病院がでてきた。病院でCTスキャンをとり、脳を調べている。そのレントゲンの写真もスクリーンにずらりと並んだ。「科学」をきちんと描いている。「ことば」ではなく、映像としてスクリーンに展開している。そういう「基本」があるから、「悪魔」が生きてくる。「ことば」精神科医に見せるべきだ、科学的な治療すべきだというだけでは、映画にはならない。安っぽい小説にしかならない。(小説でも、きちんとした小説なら「精神科医に見せるべきだ」だけではなく、精神科医が登場し、少女とどう向き合ったかを具体的に書くだろう。)科学の不在が、同時に神学(信仰)の不在へもつながっていく。バチカンで「エクソシスト養成講座」が開かれ、その講義にパソコン(プロジェクター)を使った映像が活用されるところなど、ばかばかしくてどうしようもない。パソコンなど、もはや「科学」ではないのだ。ここに描かれる「信仰」は「現実」とまったく向き合っていない。だから、「信仰」になっていない。「ストーリー(お話)」で終わっている。
 クライマックス(?)で、エクソシスト見習いの主人公が「悪魔を信じる。それは髪を信じるからだ」と言うことで、悪魔に打ち勝つところなど、私は笑ってしまったなあ。映画なんだから「ことば」でそんなことを言ったって説得力がない。こんなロジックに悪魔が負けるなんて、悪魔の資格がない。詭弁を突き破って暴れる悪魔の魅力がまったく描かれていな。だから神も描かれていない。
 冒頭の遺体処理(おくりびと、のような仕事)が少していねいで、シンクに流れる水の映像や、電信柱(と電線)などの街の風景がわりと「なま」な感じでおもしろかっただけに、これではどうしようもないなあ。
 アンソニー・ホプキンスも前半はいいのだが、悪魔にとりつかれてからが、演技になっていない。手が震えるシーンなど、おかしくない? 抑えようとしても震えるから震えになるのに、あんなにぶるぶる震えたら、震えの強調になる。観客に、はい、いまアンソニー・ホプキンスは悪魔にとりつかれています、と宣伝してしまっている。それじゃ、こわくないでしょう。どっちかわからない、というのが一番こわいのだから。メーキャップ技術はフリードキンの時代より格段に進んでいるはずなのに、印象ではリンダ・ブレアのメーキャップの方がアンソニー・ホプキンスのメーキャップよりシャープだ。アンソニー・ホプキンスの牧師館(その室内)も、安直なセットなのか、あまりに「時間」を感じさせない薄っぺらな印象で、舞台をローマにする必要がまったくない。

 この映画に手柄があるとすれば、フリードキンの「エクソシスト」は大傑作だったと証明したことかもしれない。
                        (2011年04月27日、中州大洋3)
                       



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