糸井茂莉「夜。括弧( )、のために」(「庭園 アンソロジー2011」、2011年04月22日発行)
糸井茂莉「夜。括弧( )、のために」はタイトルどおり「括弧」が使われている詩である。書き出し。
括弧に入ったことばは強調されているように思える。そして、その強調は、そこに何か一般的ではないもの、糸井だけのものがあるからかもしれない。括弧に入れたことばにこだわりがあるのだ。ただし、この最初の部分を読んだだけでは、何にこだわっているのかわからない。(声)(わたし)(昼の)は、まだ「独特の何か」を含んだもの、という気がしないでもないけれど(独特のものがあるといわれれば、そうかもしれないと思うことができるが)、(かもしれない)はちょっと困る。「かもしれない」という考え(思い)の動きが「独特」といわれてもねえ。「肉体」なら、たとえば 100メートル競走とか、 100メートルバタフライとかの場合は、選手の「スタイル」(動きのスタイル)に独特のものがあるかもしれないが、思考の「かもしれない」が独特とはどういうことかなあ。何かを疑う、ということとは違うのかな? どんなふうに独特なのかな?
わからないまま、私は読み進む。そして書き進む。
このあともことばはつづくのだが、ここまで読んで私は括弧の「わかった」と思った。つまり、「誤読」したいことをみつけた。ここに書いてあることを、私の読みたいように「誤読」していこうと決めたのだ。
括弧とは「異物」の感覚なのである。そしてそれは「中断」であり、「生きること」なのである。
「わたしは(わたし)という異物」と書くとき、「わたし」はひとりではない。いや、ひとりなのだが、(わたし)を「異物」と感じる「わたし」がいる。(わたし)を「異物」と感じることで「わたし」は「生きている」。「異物」と感じることは(生きること)なのである。
あ、こんなふうに括弧をいくつも書いていると(私はいつも括弧をいくつも書くが、他人の括弧を引用しながら括弧を書いていると)、ちょっと区別がつかなくなる。それはわ私にとって区別がつかなくなるだけであって、糸井は違うだろう。いや、私が括弧をつけくわえたために、私の文章はわからないかもしれない。けれど、糸井自身が書いた文章でははっきり区別がついているはずである。
と、しちめんどうくさいことを書いたのは。
糸井はとってもしちめんどうくさいことを書いているからなのだ。
これは、ある声が何かしら「異物」をもっているように感じられたということである。そして、そう感じた瞬間、意識はちょっと「中断」する。声(ことば)は意味を持っている。その意味は文脈のなかで決定されるものだが、意味を追いながら、その文脈とは少し「ずれ」たことを感じる。その瞬間、声が(声)になる。
この感覚は、まあ、説明がめんどうくさいね。
めんどうなことを、糸井のことばを借りながら反復すると(ということばで「誤読」を押し進めると)、「異物」としての(声)を感じた瞬間、声が「ずれ」て(声)になったと感じた瞬間、わたしは(わたし)になる。「異物」を感じる(わたし)。(わたし)とはわたしから「ずれ」た存在なのである。
その(声)を「雷鳴」という比喩でとらえ直しているのは、(声)が一瞬だったこと、衝撃的だったことを「意味」している。何か衝撃的な「音(雷鳴のように突然の存在)」として響いたということだろう。いや、そうではなく、この「雷鳴」という比喩は、あとから思いついたものである。(声)について書こうとしたとき、あとからやってきたものである。
だから(かもしれない)ということばが「異物」として追加されているのだ。(声)を聞いたとき、その(声)を「雷鳴のような」と思ったとき(そのことばでとらえなおしたとき)、そこには「ずれ」がある。そこでは、その「雷鳴のような」という「比喩」が「異物」として動いているということである。
「比喩」はあとからやってくる。だから、それは「異物」である。「比喩」とは、そこにないもので、いまここにあるものを説明することである。そのとき、いま、ここは「中断」されて、どこかになる。「異物」としての時間・空間が存在することになる。いま、ここから、いま、ここではないところへと動いていくことは「逸脱」である。
ああ、めんどうくさい。と書くと糸井に申し訳ない気がしないでもないが、こういうことをくりかえし書くのは、正直めんどうである。こんなめんどうくさいことを書いても、けっきょくごちゃごちゃして、何が書いてあるかわからないようになるだけである--と思うので、途中を省略。
「異物」「逸脱」「中断」--それを糸井は次のように書き直している。
「中間地帯」とは「中断」と同じである。「中断」したとき、ことばは、何かと何かの「中間地帯」にある。(何かと何かは説明しない。省略した部分に(名づけられぬもの)ということばがある。糸井にも書きようがないののである。だから、説明はしない。)そして、それを「保留」ととらえ直せば、それはそのまま(かもしれない)になる。断定を回避する。
そして、その「異物」を「異物」として括弧に入れる。括弧に入れるのは、それを閉じ込めることであるが、糸井のことばの運動をそのまま追えばわかるように、閉じ込めるのはそれについて考えるためである。「異物」と感じたものについて、ことばを動かすこと。つまり「中断」した地点、「中間地点」から、それまでめざしていたところとは違うところへ「逸脱」していくこと--つまりは、その括弧を開いて、別なところへいくことである。行けないまでも、行こうとすること、行こうとする思いが、動きだすのを待つということでもある。
「中断」し、「中間地帯」で「待つ」。どこへ行くかもわからず「待つ」--そのとき(わたし)はたしかに「異物」である。(わたし)はわたしを邪魔しているともいえるからである。だが、その邪魔があってはじめて、どこかへ行くという運動が明確になる。
あ、まためんどうくさくなった。
またまた、省略。
こんなしちめんどうくさいことは「頭」の問題である。「肉体」の問題ではない。だから、私は、こんな作品は大嫌い--と書きたいのだが、実は、書けない。大好きである。ここには「頭」しかない。「肉体」がないのに、なぜ?--と聞かれたら、またまた説明がめんどうなのだが、ここには「ことばの肉体」がある。「頭の肉体」がある。糸井は、私がいま書いてきたようなことを、「頭」で考えているのではなく、「肉体」で動かしている。「頭」が「肉体」とはなれず、「肉体」になってしまっている。それは別のことばで言えば、だれそれの文脈を借りてきてことばを動かすのではなく、糸井は糸井独自の文脈をつくり、そこでことばを動かしているということなのだ。糸井独自の文脈で動くことばをもっている。糸井の「ことばの肉体」は、独自に糸井の文脈をつくっているということなのである。--糸井の文脈、「ことばの肉体」「頭の肉体」(肉体化した頭)が独自であるから、それを私ふうに言いなおそうとすると(誤読しようとすると)、とてもめんどうになる。接点をみつけ、そこから侵入して行って、また出てくるというのが、ややこしい感じになる。
ということは、まあ、おいておいて。
私が糸井の詩が好きな理由は、そこに「音」があるからだ。糸井がことばを「音」(声)として感じているのを直感できるからだ。(と、これまた、めんどうなので、一気に飛躍して書いてしまう。)
糸井が「声」(音)にこだわっているのは、いつかの詩集で「イレーヌ」というひとの名前の変遷について書いた詩があったことを思い出してもらえれば十分だろう。「音」は人から人へと動く間にかわってしまう。かわりながら、しかし、何かを引き継いでいる。そこには「異物」と「同質」がとけあって動いている。括弧に括られ、閉ざされながら、次に開かれるときには何かが違っている。違っているけれど、それを貫くものがある。それを普通は「意味」というけれど、たぶん糸井は「意味」というより「音」(声)だと感じている。「意味」という「頭」で維持しつづける何かではなく、「声」として維持しつづける何か。「音」が「声」となって「肉体」そのものを潜り抜けるときの、快感、愉悦、悦楽……それこそを人間は維持しつづけている。追い求めている。その「肉体」のなかを貫く「声」にならない「音」、聞き取ることができない「音」(ことばという表現を借りれば、生まれる以前のことば、未生のことばになるのかもしれない)を、糸井はとても美しいことばで定義している。
「ささやき」と。
最後の部分。
なんという美しい声。鍛えられた声、とただただ感心する。
糸井茂莉「夜。括弧( )、のために」はタイトルどおり「括弧」が使われている詩である。書き出し。
ずれのなかで(声)が光って、生とそうでないものを選り分ける。
ひからびた手が乾いた草と土をわけるように。踏みしだく踵が(わ
たし)の轍をつくって、こすれる皮膚の硬いところを草の汁がみど
りに染める。雷鳴のような(声)だった(かもしれない)。(昼の)
残像。あわい痕跡。ぽろぽろとほどける土がこぼれ、水を孕んだ南
風が湿地のほうへ静かにみちびかれる。
括弧に入ったことばは強調されているように思える。そして、その強調は、そこに何か一般的ではないもの、糸井だけのものがあるからかもしれない。括弧に入れたことばにこだわりがあるのだ。ただし、この最初の部分を読んだだけでは、何にこだわっているのかわからない。(声)(わたし)(昼の)は、まだ「独特の何か」を含んだもの、という気がしないでもないけれど(独特のものがあるといわれれば、そうかもしれないと思うことができるが)、(かもしれない)はちょっと困る。「かもしれない」という考え(思い)の動きが「独特」といわれてもねえ。「肉体」なら、たとえば 100メートル競走とか、 100メートルバタフライとかの場合は、選手の「スタイル」(動きのスタイル)に独特のものがあるかもしれないが、思考の「かもしれない」が独特とはどういうことかなあ。何かを疑う、ということとは違うのかな? どんなふうに独特なのかな?
わからないまま、私は読み進む。そして書き進む。
湿地。鳥の生まれる浅瀬。
夜という中断にとって、わたしは(わたし)という異物。眠りとい
うかりそめの詩にとって、めざめていることは(生きること)の逸
脱。
このあともことばはつづくのだが、ここまで読んで私は括弧の「わかった」と思った。つまり、「誤読」したいことをみつけた。ここに書いてあることを、私の読みたいように「誤読」していこうと決めたのだ。
括弧とは「異物」の感覚なのである。そしてそれは「中断」であり、「生きること」なのである。
「わたしは(わたし)という異物」と書くとき、「わたし」はひとりではない。いや、ひとりなのだが、(わたし)を「異物」と感じる「わたし」がいる。(わたし)を「異物」と感じることで「わたし」は「生きている」。「異物」と感じることは(生きること)なのである。
あ、こんなふうに括弧をいくつも書いていると(私はいつも括弧をいくつも書くが、他人の括弧を引用しながら括弧を書いていると)、ちょっと区別がつかなくなる。それはわ私にとって区別がつかなくなるだけであって、糸井は違うだろう。いや、私が括弧をつけくわえたために、私の文章はわからないかもしれない。けれど、糸井自身が書いた文章でははっきり区別がついているはずである。
と、しちめんどうくさいことを書いたのは。
糸井はとってもしちめんどうくさいことを書いているからなのだ。
ずれのなかで(声)が光って、生とそうでないものを選り分ける。
これは、ある声が何かしら「異物」をもっているように感じられたということである。そして、そう感じた瞬間、意識はちょっと「中断」する。声(ことば)は意味を持っている。その意味は文脈のなかで決定されるものだが、意味を追いながら、その文脈とは少し「ずれ」たことを感じる。その瞬間、声が(声)になる。
この感覚は、まあ、説明がめんどうくさいね。
めんどうなことを、糸井のことばを借りながら反復すると(ということばで「誤読」を押し進めると)、「異物」としての(声)を感じた瞬間、声が「ずれ」て(声)になったと感じた瞬間、わたしは(わたし)になる。「異物」を感じる(わたし)。(わたし)とはわたしから「ずれ」た存在なのである。
その(声)を「雷鳴」という比喩でとらえ直しているのは、(声)が一瞬だったこと、衝撃的だったことを「意味」している。何か衝撃的な「音(雷鳴のように突然の存在)」として響いたということだろう。いや、そうではなく、この「雷鳴」という比喩は、あとから思いついたものである。(声)について書こうとしたとき、あとからやってきたものである。
だから(かもしれない)ということばが「異物」として追加されているのだ。(声)を聞いたとき、その(声)を「雷鳴のような」と思ったとき(そのことばでとらえなおしたとき)、そこには「ずれ」がある。そこでは、その「雷鳴のような」という「比喩」が「異物」として動いているということである。
「比喩」はあとからやってくる。だから、それは「異物」である。「比喩」とは、そこにないもので、いまここにあるものを説明することである。そのとき、いま、ここは「中断」されて、どこかになる。「異物」としての時間・空間が存在することになる。いま、ここから、いま、ここではないところへと動いていくことは「逸脱」である。
ああ、めんどうくさい。と書くと糸井に申し訳ない気がしないでもないが、こういうことをくりかえし書くのは、正直めんどうである。こんなめんどうくさいことを書いても、けっきょくごちゃごちゃして、何が書いてあるかわからないようになるだけである--と思うので、途中を省略。
「異物」「逸脱」「中断」--それを糸井は次のように書き直している。
括弧( )、という魅惑的な中間地帯。括られることで閉ざされ、
なお風を通過させる開口部をもって。(とざされる)ことでひらかれ
るのを待つ。
「中間地帯」とは「中断」と同じである。「中断」したとき、ことばは、何かと何かの「中間地帯」にある。(何かと何かは説明しない。省略した部分に(名づけられぬもの)ということばがある。糸井にも書きようがないののである。だから、説明はしない。)そして、それを「保留」ととらえ直せば、それはそのまま(かもしれない)になる。断定を回避する。
そして、その「異物」を「異物」として括弧に入れる。括弧に入れるのは、それを閉じ込めることであるが、糸井のことばの運動をそのまま追えばわかるように、閉じ込めるのはそれについて考えるためである。「異物」と感じたものについて、ことばを動かすこと。つまり「中断」した地点、「中間地点」から、それまでめざしていたところとは違うところへ「逸脱」していくこと--つまりは、その括弧を開いて、別なところへいくことである。行けないまでも、行こうとすること、行こうとする思いが、動きだすのを待つということでもある。
「中断」し、「中間地帯」で「待つ」。どこへ行くかもわからず「待つ」--そのとき(わたし)はたしかに「異物」である。(わたし)はわたしを邪魔しているともいえるからである。だが、その邪魔があってはじめて、どこかへ行くという運動が明確になる。
あ、まためんどうくさくなった。
またまた、省略。
こんなしちめんどうくさいことは「頭」の問題である。「肉体」の問題ではない。だから、私は、こんな作品は大嫌い--と書きたいのだが、実は、書けない。大好きである。ここには「頭」しかない。「肉体」がないのに、なぜ?--と聞かれたら、またまた説明がめんどうなのだが、ここには「ことばの肉体」がある。「頭の肉体」がある。糸井は、私がいま書いてきたようなことを、「頭」で考えているのではなく、「肉体」で動かしている。「頭」が「肉体」とはなれず、「肉体」になってしまっている。それは別のことばで言えば、だれそれの文脈を借りてきてことばを動かすのではなく、糸井は糸井独自の文脈をつくり、そこでことばを動かしているということなのだ。糸井独自の文脈で動くことばをもっている。糸井の「ことばの肉体」は、独自に糸井の文脈をつくっているということなのである。--糸井の文脈、「ことばの肉体」「頭の肉体」(肉体化した頭)が独自であるから、それを私ふうに言いなおそうとすると(誤読しようとすると)、とてもめんどうになる。接点をみつけ、そこから侵入して行って、また出てくるというのが、ややこしい感じになる。
ということは、まあ、おいておいて。
私が糸井の詩が好きな理由は、そこに「音」があるからだ。糸井がことばを「音」(声)として感じているのを直感できるからだ。(と、これまた、めんどうなので、一気に飛躍して書いてしまう。)
ずれのなかで(声)が光って、生とそうでないものを選り分ける。
糸井が「声」(音)にこだわっているのは、いつかの詩集で「イレーヌ」というひとの名前の変遷について書いた詩があったことを思い出してもらえれば十分だろう。「音」は人から人へと動く間にかわってしまう。かわりながら、しかし、何かを引き継いでいる。そこには「異物」と「同質」がとけあって動いている。括弧に括られ、閉ざされながら、次に開かれるときには何かが違っている。違っているけれど、それを貫くものがある。それを普通は「意味」というけれど、たぶん糸井は「意味」というより「音」(声)だと感じている。「意味」という「頭」で維持しつづける何かではなく、「声」として維持しつづける何か。「音」が「声」となって「肉体」そのものを潜り抜けるときの、快感、愉悦、悦楽……それこそを人間は維持しつづけている。追い求めている。その「肉体」のなかを貫く「声」にならない「音」、聞き取ることができない「音」(ことばという表現を借りれば、生まれる以前のことば、未生のことばになるのかもしれない)を、糸井はとても美しいことばで定義している。
「ささやき」と。
最後の部分。
ささやきが風穴から漏れてゆく( )、わたしが(括
られ)、夜の(闇で)くるまれるように。聴き取れない(ささやきが)
秘密となって溢れだすように。閉じられない鞘、( )という欠
落。漏れる、光り(囲われながら放たれる夢の中身)。(わたしが)
わたしに見えないように。在ることと眠っていること( )の
境目。つながったままちぎれ、ぶらさがって(寄り添っている)。風
が封じ込める/呼び入れる(( )のささやき)。
なんという美しい声。鍛えられた声、とただただ感心する。
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