詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透「破魔矢的体験 六片」

2011-04-11 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「破魔矢的体験 六片」(「耳空」5、2011年03月25日発行)

 北川透「破魔矢的体験 六片」はタイトルを読んでも何のことかわからない。詩を読んでも何のことかわからない。たとえば、「ミノタウロス」。

なぜ かよわいこころは
牡牛の太い首を振るのか

むしろ人であることを捨てよ 擬態にめざめよ
さすれば ラビュリントスの檻は壊れるだろう

おまえのひずめの割れる夕陽の陶酔を恥じるな
おまえの背柱のくるう夜明けの錯乱を詫びるな

かよわいこころは なぜ
ふたつの角を生やすのか

 「ミノタウロス」。ギリシャ神話の頭が牛、体が人間の獣人。私はギリシャ神話よりもピカソの絵の方でなじんでいる。その獣人を書いていることはわかるが、それ以外の何がわかるか--そこにどんな「意味」があるか、と聞かれたら、何もわからない。
 わからないのだけれど、それではおもしろくないかと言われれば、そんなことはない。読み通してしまうし、あ、この詩について書きたいなあとも思うのである。
 北川は、ここでは「定型」をこころみている。定型(2行ずつ同じ長さ、見かけの長さの行を繰り返す)のなかで、ことばがどんなふうに動くか。
 おもしろいのは、2連目。ここには「擬態にめざめよ」という、それこそ「意味」だらけのことばがあり、「さすれば ラビュリントスの檻は壊れるだろう」という、さらに一歩進んだ(?)「意味」へと動いていき、ギリシャ神話のストーリーとも重複するのだが--私がおもしろいと思うのは、2行目。「さすれば」。「そうすれば」ではなく、「さすれば」。これは2行の長さをそろえるために「さすれば」になっているのだが、2行の長さを同じにするだけなら「そうすればラビュリントスの檻は壊れるだろう」と1字空きを省略すればいい。また「そうすれば ラビュリントスの檻は壊れるはず」でもいい。「意味」は変わらないだろう。しかし、「意味」がかわらないからといって、ことばをかえてもいいというわけではない。ことばをかえると、違ってくるものがあるのだ。ことばをつかう意識がかわってくる。
 北川の場合、激変する。
 「さすれば」。副詞。いまは、まあ、つかわないね。古語だね。
 このいまはつかわないことば--わざと、いまはつかわないことばをつかった瞬間に、ことばが加速する。それが3連目。
 何が書いてあるか、その「意味」はどうでもいいけれど(あ、北川さん、ごめんなさい。北川さんには北川さんなりの「意味」があるのかもしれないけれど)、「夕陽の陶酔を恥じるな」「夜明けの錯乱を詫びるな」。かっこいいねえ。音がかっこいいねえ。
 さらに、「夕陽の錯乱を恥じるな」「夜明けの陶酔を詫びるな」「夕陽の錯乱を詫びるな」「夜明けの陶酔を恥じるな」と、ことばを入れ換えても行の長さはかわらないから、「定型」という点からいえば、どちらも同じになるのだが、でも、北川は「夕陽の陶酔を恥じるな」「夜明けの錯乱を詫びるな」と書く。そして、私は、北川が書いていることばがいちばんよくわかる。いや、いちばんかっこよく感じられる。
 なぜ?
 きっと「夕陽の陶酔」「夜明けの錯乱」ということばには、ここには書かれていない(説明されていない)「肉体」があるのである。北川がこれまでことばを読んで、書いて、声に出すということを繰り返すなかで知らず知らずに「肉体」にしみこんだことばの脈絡がある。このことばとこのことばは相性(?)がいいけれど、このことばとこのことばは相性が悪くて、うまく動いてくれない--という感覚がある。
 ひとは、そういうものを無意識に選んでしまう。
 それが「無意識」であるから、私はそれを「思想」と呼ぶ。
 そして、こういう「無意識」を動かすものを「文体」と呼ぶ。
 さらに、「肉体」と呼ぶ。
 「思想」「肉体」「文体」というのは、違ったことばであり、それぞれにきちんと定義しないといけないのかもしれないけれど、私は何かを読み、それについて何かを語るとき、それは「ごちゃまぜ」になる。区別できない何かが、その三つを貫いている。そして、その三つを貫く何かと触れあうことばに出会ったら、それを「かっこいい」と感じ、それが好きになる。
 そのとき「音」が重要な部分を占めている--というようなことを、私は感じている。
 あ、北川の作品からどんどんずれていく。
 北川の作品に戻る。

 3連目の「かっこいい」2行。そこに飛躍する前に「さすれば」という、いつもはつかわない古語がある。古語の、いまはつかわない音、響きが、北川の肉体に作用して、北川の肉体の奥底から、かっこいいことばを噴出させるのだ。
 ふいの刺激に、北川の「肉体」(過去の、ことばの記憶--それまでに触れてきたことばの無数のうごめき)が瞬間的に反応するのだ。
 これは、私の感覚では、制御できないものである。「こんなふうに書きたい」と意識してコントロールできない。それは突然やってくる。だから、詩なのである。北川の「内部」からでてきたことばだけれど、それは制御できないがゆえに「北川以外の何ものか(他者)」でもある。その「他者」を北川はことばにすることで、もう一度「内部」へとりこんでしまう。「肉体」にしてしまう。
 この瞬間的な早業--だから、ねえ、それが「かっこいい」。かっこよく、見える。

 この3連目では、2行目の「くるう」もおもしろい。「狂う」と書いても「意味」は同じ。でも「くるう」と書く。それは行の長さをそろえるためのひとつの工夫にすぎないのかもしれないけれど、この「くるう」を読むと、「狂う」ではない「味」がある。
 「狂う」に比べると「くるう」は、音がゆっくりする。じわりと「肉体」が動く感じがする。急激な動きをではなく、ゆっくり、抑えた感じ。
 それは「夕陽の陶酔を恥じるな」「夜明けの錯乱を詫びるな」という高速のことばとは対照的である。そして、対照的であるがゆえに、そのふたつのことばが引き立つ。「狂う」と書いてしまうと、スピードが加速し、「夜明けの錯乱を詫びるな」ではちょっと物足りなくなる。
 と、私は思う。
 と、私は思う--としか書けないのだが、その「思う」のなかで、私は北川に触れるのである。
 そして、北川の「文体」の強固さ、頑丈さ、さらに自然さを感じるのである。
 どんなときでも、私は「意味」ではなく、「文体」を読んでいるのだと思う。



 「破魔矢」「誘惑」はひらがなだけで書かれた「定型詩」。「破魔矢」には「はっはっはとてとてちてた」(最終行)のように谷川俊太郎を引用したことばがある。ことばは、いつでも引用されるものなのだ。引用し、ねじまげて(「誤読」して、と強引に言ってしまおうかな)、そこから動きはじめるものなのだ。--ということは、さておいて。
 「誘惑」の方が私にはおもしろかった。

わがたまをきみにあずけて
あさやけにあかくただれた

いのちなんかおしくはないぜ
せんじょうにふたりでいれば

すべてのしいかよあけまで
かりそめのただのたまねぎ

みみからちぶさからでべそへ
こいするぶんたいもえつきて

いとしのローリエのかおり
どれいのみあしそっとかむ

 「音」が楽しい。「意味」は考えない。「かりそめのただのたまねぎ」ってなんだかわからないけれど、まんなかの「ただの」が聞いているねえ。「たまねぎ」へ楽々と動いていく。「かりそめ」は4連目の「こいする」につながり、それは5連目の「いとしのエリー」じゃなかった「ローリエ」へともつながっていのだけれど、そういうつながりを破って「でべそ」が出でくるのもいいなあ。「みみからちぶさ」へと誘っておいてさあ。こういう「意地悪」って好きだなあ。
 それから最終連。「いとしのエリー」のことを少し書いたけれど……。最終行。「どれいのみあしそっとかむ」のなにか「どれみ(ふぁ)そ(ら)し」が隠れているのがとってもうれしい。
 私はすごい音痴で歌うことはないのだけれど、ことばは「音」だと思うなあ。「思想」は「音」のなかにあるなあ、と思うなあ。


わがブーメラン乱帰線
北川 透
思潮社
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 誰も書かなかった西脇順三郎(206 )

2011-04-11 11:20:44 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。
 西脇の詩について書いていると、もう書くことはないのかもしれないという気持ちになる。それなのに、まだまだ書き足りないという気持ちにもなる。同じことを繰り返しているのだが、何度でも同じことを繰り返したくなる。別なことばで言いなおすと、書くことで「結論」へ向けて進んでいくために書いているのではなく、私はただ思っていることを書いておきたいのである。私自身のために、ではない。誰のために、というのでもない。ただ書きたい。
 「哀」について。
 これから書くことはこれまで書いてきたことの繰り返しである。繰り返しだけれど、少し違うかもしれない。

あの旅人の袖をぬらした
人類の哀史は
あおざめた手帳にぼけている

 ここに書いてあることの「意味」はなんとなくわかる。旅人がいる。旅人は泣いた(袖をぬらした)。それは人類の哀史に触れたからである。そのことは手帳に書いてある。でも、その手帳の文字は(あるいは手帳に書いてある論理は)、ぼけている(少しあいまいである)--くらいのことだと思う。
 だいたいそういうことだと思うのだが、そうはっきりとは思うわけでもない。
 なぜだろう。
 西脇のことばは「論理的」(散文的)ではなく、論理を突き破りながら動いているからである。余分なものがある。たとえば、私は先に3行の「意味」(私の理解している範囲)を書くときに、3行目の「あおざめた」ということばを省略した。この「あおざめた」を私は仮に「余分なもの」と定義したのだが……。
 「あおざめた」に意味があるかもしれない。ないかもしれない。どっちでもいい--というと西脇ファンや、西脇研究者に叱られるかもしれないのだが。
 それがたとえ重要な「意味」をになっているのものだとしても、そしてそれをだれかが説明してくれたとしても、きっと「余分なもの」と感じると思う。「あおざめた」が重要だとしたら、今度は「袖をぬらした」というようなことばがきっと「余分なもの」と感じるだろうと思う。「泣いた」と書けばいいだけのこと、「涙を流した」と書けばいいだけのことを、わざわざ「袖をぬらした」ともってまわって書いていることが「余分」に感じると思う。
 いま、私は「もってまわって」と書いたが、西脇のことばは、「余分なもの」を経巡って動く。脇道にそれながら動く。いま流の言い方をするなら「逸脱」しながら動く。そして、その「逸脱する」ことが、刺激的なのだ。
 すっきりと「論理的」ではない、ということろが刺激的なのだ。
 詩は、「論理的」とは対極的なところにあるのだろう。

 で。
 その「論理的」ではないことばというか、「逸脱する」ことば。たとえば3行目の「あおざめた」はなぜ「あおざめた」なのか。「蒼白な」でなはく、あるいは「たそがれ色の」でもなく、「涙で汚れた女の頬の」ではないのか。なぜ、西脇は「あおざめた」ということばを選んだのか。
 こいうとき、私は「音」が絡んでくると思うのだ。その「音」がどこからか響いていくる。西脇はそれを書き留める。その「音」が、私は、とても好きなのだ。
 私のまったくの個人的な「耳」の事情なのかもしれていけれど、「あおざめた」は「あの旅人の袖をぬらした」という1行目ととてもよく響きあう。「あ」で始まり「た」で終わる1行目と「あおざめた」が響きあう。もっといえば1行目は「あおざめた」ということばのなかに凝縮して再現される感じがする。
 ことばの論理の上からは「逸脱」する。けれど「音」としては「収斂」というか、「結晶」化する。
 --まあ、こんなことは、屁理屈だね。どうでもいい。

 つづく3行。

近代人の憂愁は
論理の豊満からくるのか
古代人の隔世遺伝である

 これは、近代人の憂愁は論理的でありすぎる(豊満している)ことが原因である。それは古代人からの「隔世遺伝」である。つまり、中世のひと、「暗黒の時代」のひとは、論理にしばられることがないから、「憂愁」を知らない? 詩、だから、まあ、「意味」は適当に考えておくが、ここでは、私は「隔世遺伝」ということばにとてもひかれる。
 「かくせーいでん」という「音」が気持ちがいいのである。「ゆうしゅ」の暗さを破る「ほうまん」という「音」、「ほーまん」と「かくせーいでん」。「音」をのばすことろと、最後が「ん」で終わるところが、なんともいえず気持ちがいい。
 そして、「隔世遺伝」ということば、どこかでつかってみたい、という気持ちになる。西脇のことばは、いつでも、あ、このことばつかってみたい。盗んでしまいたい、という気持ちにさせる。「好き」という気持ちにさせられる。
 ぐいっと、そんなふうに引っ張られて……。あれっ。

断崖にぶらさがるたのしみが
毎夜来る残忍な夢の恐怖になるだけだ

 「古代人の隔世遺伝である」は、もしかすると「断崖にぶらさがるたのしみ」を修飾する1行?

あの旅人の袖をぬらした
人類の哀史は
あおざめた手帳にぼけている
近代人の憂愁は
論理の豊満からくるのか
古代人の隔世遺伝である
断崖にぶらさがるたのしみが
毎夜来る残忍な夢の恐怖になるだけだ

 ここに「論理」があると仮定して--どのことばがどのことばを修飾している? どれが主語? わかる?
 私にはわからない。わからないのだけれど、じゃあ、わからないから「嫌い」かというと、そうではない。わからないけれど、なんだかおもしろい。「好き」。
 このとき、私が「好き」と思ういちばんの理由は「音」なのだ。
 「毎夜来る残忍な夢の恐怖になるだけだ」の「なるだけだ」という「音」さえ、あ、ここがいいなあ、と思ってしまうのだ。




詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
新倉 俊一
みすず書房



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