北川透「破魔矢的体験 六片」(「耳空」5、2011年03月25日発行)
北川透「破魔矢的体験 六片」はタイトルを読んでも何のことかわからない。詩を読んでも何のことかわからない。たとえば、「ミノタウロス」。
「ミノタウロス」。ギリシャ神話の頭が牛、体が人間の獣人。私はギリシャ神話よりもピカソの絵の方でなじんでいる。その獣人を書いていることはわかるが、それ以外の何がわかるか--そこにどんな「意味」があるか、と聞かれたら、何もわからない。
わからないのだけれど、それではおもしろくないかと言われれば、そんなことはない。読み通してしまうし、あ、この詩について書きたいなあとも思うのである。
北川は、ここでは「定型」をこころみている。定型(2行ずつ同じ長さ、見かけの長さの行を繰り返す)のなかで、ことばがどんなふうに動くか。
おもしろいのは、2連目。ここには「擬態にめざめよ」という、それこそ「意味」だらけのことばがあり、「さすれば ラビュリントスの檻は壊れるだろう」という、さらに一歩進んだ(?)「意味」へと動いていき、ギリシャ神話のストーリーとも重複するのだが--私がおもしろいと思うのは、2行目。「さすれば」。「そうすれば」ではなく、「さすれば」。これは2行の長さをそろえるために「さすれば」になっているのだが、2行の長さを同じにするだけなら「そうすればラビュリントスの檻は壊れるだろう」と1字空きを省略すればいい。また「そうすれば ラビュリントスの檻は壊れるはず」でもいい。「意味」は変わらないだろう。しかし、「意味」がかわらないからといって、ことばをかえてもいいというわけではない。ことばをかえると、違ってくるものがあるのだ。ことばをつかう意識がかわってくる。
北川の場合、激変する。
「さすれば」。副詞。いまは、まあ、つかわないね。古語だね。
このいまはつかわないことば--わざと、いまはつかわないことばをつかった瞬間に、ことばが加速する。それが3連目。
何が書いてあるか、その「意味」はどうでもいいけれど(あ、北川さん、ごめんなさい。北川さんには北川さんなりの「意味」があるのかもしれないけれど)、「夕陽の陶酔を恥じるな」「夜明けの錯乱を詫びるな」。かっこいいねえ。音がかっこいいねえ。
さらに、「夕陽の錯乱を恥じるな」「夜明けの陶酔を詫びるな」「夕陽の錯乱を詫びるな」「夜明けの陶酔を恥じるな」と、ことばを入れ換えても行の長さはかわらないから、「定型」という点からいえば、どちらも同じになるのだが、でも、北川は「夕陽の陶酔を恥じるな」「夜明けの錯乱を詫びるな」と書く。そして、私は、北川が書いていることばがいちばんよくわかる。いや、いちばんかっこよく感じられる。
なぜ?
きっと「夕陽の陶酔」「夜明けの錯乱」ということばには、ここには書かれていない(説明されていない)「肉体」があるのである。北川がこれまでことばを読んで、書いて、声に出すということを繰り返すなかで知らず知らずに「肉体」にしみこんだことばの脈絡がある。このことばとこのことばは相性(?)がいいけれど、このことばとこのことばは相性が悪くて、うまく動いてくれない--という感覚がある。
ひとは、そういうものを無意識に選んでしまう。
それが「無意識」であるから、私はそれを「思想」と呼ぶ。
そして、こういう「無意識」を動かすものを「文体」と呼ぶ。
さらに、「肉体」と呼ぶ。
「思想」「肉体」「文体」というのは、違ったことばであり、それぞれにきちんと定義しないといけないのかもしれないけれど、私は何かを読み、それについて何かを語るとき、それは「ごちゃまぜ」になる。区別できない何かが、その三つを貫いている。そして、その三つを貫く何かと触れあうことばに出会ったら、それを「かっこいい」と感じ、それが好きになる。
そのとき「音」が重要な部分を占めている--というようなことを、私は感じている。
あ、北川の作品からどんどんずれていく。
北川の作品に戻る。
3連目の「かっこいい」2行。そこに飛躍する前に「さすれば」という、いつもはつかわない古語がある。古語の、いまはつかわない音、響きが、北川の肉体に作用して、北川の肉体の奥底から、かっこいいことばを噴出させるのだ。
ふいの刺激に、北川の「肉体」(過去の、ことばの記憶--それまでに触れてきたことばの無数のうごめき)が瞬間的に反応するのだ。
これは、私の感覚では、制御できないものである。「こんなふうに書きたい」と意識してコントロールできない。それは突然やってくる。だから、詩なのである。北川の「内部」からでてきたことばだけれど、それは制御できないがゆえに「北川以外の何ものか(他者)」でもある。その「他者」を北川はことばにすることで、もう一度「内部」へとりこんでしまう。「肉体」にしてしまう。
この瞬間的な早業--だから、ねえ、それが「かっこいい」。かっこよく、見える。
この3連目では、2行目の「くるう」もおもしろい。「狂う」と書いても「意味」は同じ。でも「くるう」と書く。それは行の長さをそろえるためのひとつの工夫にすぎないのかもしれないけれど、この「くるう」を読むと、「狂う」ではない「味」がある。
「狂う」に比べると「くるう」は、音がゆっくりする。じわりと「肉体」が動く感じがする。急激な動きをではなく、ゆっくり、抑えた感じ。
それは「夕陽の陶酔を恥じるな」「夜明けの錯乱を詫びるな」という高速のことばとは対照的である。そして、対照的であるがゆえに、そのふたつのことばが引き立つ。「狂う」と書いてしまうと、スピードが加速し、「夜明けの錯乱を詫びるな」ではちょっと物足りなくなる。
と、私は思う。
と、私は思う--としか書けないのだが、その「思う」のなかで、私は北川に触れるのである。
そして、北川の「文体」の強固さ、頑丈さ、さらに自然さを感じるのである。
どんなときでも、私は「意味」ではなく、「文体」を読んでいるのだと思う。
*
「破魔矢」「誘惑」はひらがなだけで書かれた「定型詩」。「破魔矢」には「はっはっはとてとてちてた」(最終行)のように谷川俊太郎を引用したことばがある。ことばは、いつでも引用されるものなのだ。引用し、ねじまげて(「誤読」して、と強引に言ってしまおうかな)、そこから動きはじめるものなのだ。--ということは、さておいて。
「誘惑」の方が私にはおもしろかった。
「音」が楽しい。「意味」は考えない。「かりそめのただのたまねぎ」ってなんだかわからないけれど、まんなかの「ただの」が聞いているねえ。「たまねぎ」へ楽々と動いていく。「かりそめ」は4連目の「こいする」につながり、それは5連目の「いとしのエリー」じゃなかった「ローリエ」へともつながっていのだけれど、そういうつながりを破って「でべそ」が出でくるのもいいなあ。「みみからちぶさ」へと誘っておいてさあ。こういう「意地悪」って好きだなあ。
それから最終連。「いとしのエリー」のことを少し書いたけれど……。最終行。「どれいのみあしそっとかむ」のなにか「どれみ(ふぁ)そ(ら)し」が隠れているのがとってもうれしい。
私はすごい音痴で歌うことはないのだけれど、ことばは「音」だと思うなあ。「思想」は「音」のなかにあるなあ、と思うなあ。
北川透「破魔矢的体験 六片」はタイトルを読んでも何のことかわからない。詩を読んでも何のことかわからない。たとえば、「ミノタウロス」。
なぜ かよわいこころは
牡牛の太い首を振るのか
むしろ人であることを捨てよ 擬態にめざめよ
さすれば ラビュリントスの檻は壊れるだろう
おまえのひずめの割れる夕陽の陶酔を恥じるな
おまえの背柱のくるう夜明けの錯乱を詫びるな
かよわいこころは なぜ
ふたつの角を生やすのか
「ミノタウロス」。ギリシャ神話の頭が牛、体が人間の獣人。私はギリシャ神話よりもピカソの絵の方でなじんでいる。その獣人を書いていることはわかるが、それ以外の何がわかるか--そこにどんな「意味」があるか、と聞かれたら、何もわからない。
わからないのだけれど、それではおもしろくないかと言われれば、そんなことはない。読み通してしまうし、あ、この詩について書きたいなあとも思うのである。
北川は、ここでは「定型」をこころみている。定型(2行ずつ同じ長さ、見かけの長さの行を繰り返す)のなかで、ことばがどんなふうに動くか。
おもしろいのは、2連目。ここには「擬態にめざめよ」という、それこそ「意味」だらけのことばがあり、「さすれば ラビュリントスの檻は壊れるだろう」という、さらに一歩進んだ(?)「意味」へと動いていき、ギリシャ神話のストーリーとも重複するのだが--私がおもしろいと思うのは、2行目。「さすれば」。「そうすれば」ではなく、「さすれば」。これは2行の長さをそろえるために「さすれば」になっているのだが、2行の長さを同じにするだけなら「そうすればラビュリントスの檻は壊れるだろう」と1字空きを省略すればいい。また「そうすれば ラビュリントスの檻は壊れるはず」でもいい。「意味」は変わらないだろう。しかし、「意味」がかわらないからといって、ことばをかえてもいいというわけではない。ことばをかえると、違ってくるものがあるのだ。ことばをつかう意識がかわってくる。
北川の場合、激変する。
「さすれば」。副詞。いまは、まあ、つかわないね。古語だね。
このいまはつかわないことば--わざと、いまはつかわないことばをつかった瞬間に、ことばが加速する。それが3連目。
何が書いてあるか、その「意味」はどうでもいいけれど(あ、北川さん、ごめんなさい。北川さんには北川さんなりの「意味」があるのかもしれないけれど)、「夕陽の陶酔を恥じるな」「夜明けの錯乱を詫びるな」。かっこいいねえ。音がかっこいいねえ。
さらに、「夕陽の錯乱を恥じるな」「夜明けの陶酔を詫びるな」「夕陽の錯乱を詫びるな」「夜明けの陶酔を恥じるな」と、ことばを入れ換えても行の長さはかわらないから、「定型」という点からいえば、どちらも同じになるのだが、でも、北川は「夕陽の陶酔を恥じるな」「夜明けの錯乱を詫びるな」と書く。そして、私は、北川が書いていることばがいちばんよくわかる。いや、いちばんかっこよく感じられる。
なぜ?
きっと「夕陽の陶酔」「夜明けの錯乱」ということばには、ここには書かれていない(説明されていない)「肉体」があるのである。北川がこれまでことばを読んで、書いて、声に出すということを繰り返すなかで知らず知らずに「肉体」にしみこんだことばの脈絡がある。このことばとこのことばは相性(?)がいいけれど、このことばとこのことばは相性が悪くて、うまく動いてくれない--という感覚がある。
ひとは、そういうものを無意識に選んでしまう。
それが「無意識」であるから、私はそれを「思想」と呼ぶ。
そして、こういう「無意識」を動かすものを「文体」と呼ぶ。
さらに、「肉体」と呼ぶ。
「思想」「肉体」「文体」というのは、違ったことばであり、それぞれにきちんと定義しないといけないのかもしれないけれど、私は何かを読み、それについて何かを語るとき、それは「ごちゃまぜ」になる。区別できない何かが、その三つを貫いている。そして、その三つを貫く何かと触れあうことばに出会ったら、それを「かっこいい」と感じ、それが好きになる。
そのとき「音」が重要な部分を占めている--というようなことを、私は感じている。
あ、北川の作品からどんどんずれていく。
北川の作品に戻る。
3連目の「かっこいい」2行。そこに飛躍する前に「さすれば」という、いつもはつかわない古語がある。古語の、いまはつかわない音、響きが、北川の肉体に作用して、北川の肉体の奥底から、かっこいいことばを噴出させるのだ。
ふいの刺激に、北川の「肉体」(過去の、ことばの記憶--それまでに触れてきたことばの無数のうごめき)が瞬間的に反応するのだ。
これは、私の感覚では、制御できないものである。「こんなふうに書きたい」と意識してコントロールできない。それは突然やってくる。だから、詩なのである。北川の「内部」からでてきたことばだけれど、それは制御できないがゆえに「北川以外の何ものか(他者)」でもある。その「他者」を北川はことばにすることで、もう一度「内部」へとりこんでしまう。「肉体」にしてしまう。
この瞬間的な早業--だから、ねえ、それが「かっこいい」。かっこよく、見える。
この3連目では、2行目の「くるう」もおもしろい。「狂う」と書いても「意味」は同じ。でも「くるう」と書く。それは行の長さをそろえるためのひとつの工夫にすぎないのかもしれないけれど、この「くるう」を読むと、「狂う」ではない「味」がある。
「狂う」に比べると「くるう」は、音がゆっくりする。じわりと「肉体」が動く感じがする。急激な動きをではなく、ゆっくり、抑えた感じ。
それは「夕陽の陶酔を恥じるな」「夜明けの錯乱を詫びるな」という高速のことばとは対照的である。そして、対照的であるがゆえに、そのふたつのことばが引き立つ。「狂う」と書いてしまうと、スピードが加速し、「夜明けの錯乱を詫びるな」ではちょっと物足りなくなる。
と、私は思う。
と、私は思う--としか書けないのだが、その「思う」のなかで、私は北川に触れるのである。
そして、北川の「文体」の強固さ、頑丈さ、さらに自然さを感じるのである。
どんなときでも、私は「意味」ではなく、「文体」を読んでいるのだと思う。
*
「破魔矢」「誘惑」はひらがなだけで書かれた「定型詩」。「破魔矢」には「はっはっはとてとてちてた」(最終行)のように谷川俊太郎を引用したことばがある。ことばは、いつでも引用されるものなのだ。引用し、ねじまげて(「誤読」して、と強引に言ってしまおうかな)、そこから動きはじめるものなのだ。--ということは、さておいて。
「誘惑」の方が私にはおもしろかった。
わがたまをきみにあずけて
あさやけにあかくただれた
いのちなんかおしくはないぜ
せんじょうにふたりでいれば
すべてのしいかよあけまで
かりそめのただのたまねぎ
みみからちぶさからでべそへ
こいするぶんたいもえつきて
いとしのローリエのかおり
どれいのみあしそっとかむ
「音」が楽しい。「意味」は考えない。「かりそめのただのたまねぎ」ってなんだかわからないけれど、まんなかの「ただの」が聞いているねえ。「たまねぎ」へ楽々と動いていく。「かりそめ」は4連目の「こいする」につながり、それは5連目の「いとしのエリー」じゃなかった「ローリエ」へともつながっていのだけれど、そういうつながりを破って「でべそ」が出でくるのもいいなあ。「みみからちぶさ」へと誘っておいてさあ。こういう「意地悪」って好きだなあ。
それから最終連。「いとしのエリー」のことを少し書いたけれど……。最終行。「どれいのみあしそっとかむ」のなにか「どれみ(ふぁ)そ(ら)し」が隠れているのがとってもうれしい。
私はすごい音痴で歌うことはないのだけれど、ことばは「音」だと思うなあ。「思想」は「音」のなかにあるなあ、と思うなあ。
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