永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(2)(思潮社、2011年04月25日発行)
「左岸」のつづき。
この1行の「主語」が誰のなかわからない、と私は書いた。こんなことを書くと、それは前後の文脈をきちんとたどらないからだ、と批判されそうである。このあと詩は、つづいている。
「見届け役」ということばを頼りにすれば、「話者」が「あなた」を見届けるという関係が成り立つから、「あなた」を見失うの主語は「話者」である。そして、それは次の「あなたと溺れながら」によって補足されている。「溺れる」は「水が首に巻きつき」の言い換えである。「話者(わたし)」の首に水が巻きつき、そのために「話者(わたし)」は溺れそうになってる。溺れている。そうして、溺れながら「話者(わたし)」は次の水の物語を語り継ごうとしている。
文脈をたどれば、「あなた」と「話者」を混同することはない。
たしかにその通りなのだが、私の「肉体」は、そんなふうに読むことを欲望しないのだ。そういう「論理的(?)」な文脈を欲望しない。「誤読」したい。
「溺れ」てしまえば、「水の物語」を語り継ぐことなどできない。だいたい「溺れ」て、死んでしまえば「次の」水の物語自体がありえない。この「次の」は「次」ではない。「いま」なのだ。「いま」、「あなた」と「話者(わたし)」が同時に溺れる--そのことによって、「物語」になる。「語り継ぐ」のではなく、「物語」そのものになってしまう--私は、そう「誤読」したいのだ。
語ること、ことばを書くこと--そうすることで「話者(わたし)」も「物語」になる。
こう「話者(永島)」が語りはじめたとき、そこに「あなた」がいて「話者(わたし)」がいる。そして「サガン」という「場」があり、「話者(わたし)」には「あなたを待っていました」という過去(昔)がある。「あなた」が「川の水をもとめてみえる(やってくる)」という「いま」があり、それは「知っていた」と「過去-いま」を結ぶ時間のなかで出会う。登場人物がいて、それぞれが「独自」の時間をもって生きてきて、その二人が出会えばそこに、それぞれの「過去(昔)=時間」がぶつかり、それまでとは違った「時間」が動きはじめる。--それが「物語」になる。そして「物語」のなかで、さらに、それぞれの「時間(過去、昔)」が掘り起こされ、「場」のなかの見えなかったものも見えはじめる。
このとき、たしかにそこには、「あなた」がいて「わたし」がいて「場」があるのだけれど、それは「ことば」のなかからそのときそのときに「あらわれてくる」ものであって、ほんとうに「ある」といえるのは「ことば」だけである。
「物語」があるのではない。「ことば」は「物語」に「なる」が、「ある」のは「ことば」である。あくまで「ことば」だけが「ある」。
そして、そこに「ある」ことばが「物語」に「なる」、「物語」を語り継ぐとき、そこに「ある」ことばは「ことば」そのものに「なる」。
同じことばばかりを繰り返すことしかできないのだが、永島のことばには「ある」と「なる」が繰り返されることで動いていくという運動がある。「ある」と「なる」は、ある瞬間「区別」がつかなくなり、区別がつかなく「なる」のはほんとうは「区別」というものが「ある」からなのだ、ということに気がつき、その「気がつく」ということがまた何かに「なる」ことなのだ。
あ、こんなふうに「抽象的」になってはいけないなあ。
違うことを書いてみよう。違う角度から、永島の詩を読み直そう。
「あなた」と「話者(わたし)」が出会う。そこは「サガン」という「場」なのだが、ふたりが出会うことで「サガン」という「場」が動いている。
「サガン」のあるところには「川」がある。だからこそ、「あなた」は川の水を求め、やってくることができる。そしてサガンのある街には「駅前通り」がある。「イナバの神」というのは神社だろうか。そこでは道が交叉する。そこでひとは「右折」することができる。そして、右折すると「黒い塀」がある。
そうやってことばが描き出す「場」は「いま」そうあるだけではなく、「昔」からそうあるのだ。
「捨てられてゆくもの」とはなんだろう。たとえば「黒い塀」かもしれない。「イナバの神」かもしれない。「駅前通り」かもしれない。ようするに「話者(わたし)」と「あなた」が出会う「街」そのものの、暮らし、暮らしがつくりあげたさまざまな存在かもしれない。
「捨てる」はこのとき「忘れられる」「見向きもされない」「おざなりにされる」という「精神的な」ことがらかもしれない。
「今日」、つまり「いま」、この街で起きているのは、そういうことである。
それでも「あなた」は「川の水を求めて」やってくる。そして、「話者(わたし)」はそれを知っている。それは、(ここからが私の強引な「読み」、つまり「誤読」なのだが)、「あなた」がほかでもない「わたし(話者)」だからである。「わたし(話者)」はこの街を知っている。「わたし」のことばはこの街を語りながら「街」そのものにもなる。その「街」には当然「サガン」も含まれるから、
サガンも、そんなふうに語られることで、「わたし」はサガンそのものに「なる」。「わたし(話者)」は「あなた」で「あり」、サガンのある街で「あり」、サガンで「ある」。こういうとき、そこでは何でも起きる。起りうる。
「朝の匂い」から「最終便のバス」までの「時間」が凝縮される。「時間」のなかに、ひとは閉じ込められる。だからこそ「あなた」は、この「場」からどこかへ「帰る」こともできなくなる。
ある「場」を語ること。それはその「場」の「時間(過去-いまをむすび付ける時間)」を語ること(知ること)であり、同時にその「場」、その「時間」に閉じ込められることなのである。
「あなた」を語ることは「わたし」が「あなた」に閉じ込められることなのである。
「あなた」を語ること、ある「場」を語ること--それはきのう最初に書いた1行についてのことばを繰り返せば「呼吸」(息継ぎ)の「間」をなくしてしまい、連続したものになってしまうことなのである。
「語り継ぐ」は意図しなくても、つながってしまうのである。
語ることは、その「場」、その「時間」を、常に押し広げ、深く掘り下げ、わけのわからない何か、語るという行為そのものに「なる」ことかもしれない。
また、なんだかよくわからないことを書いてしまった。
もっと単純に書けばよかったのかもしれない。永島の詩のなかには「あなた」と「わたし」の区別がつかなくなる「時間」があり、そこでは「あなた」と「わたし」だけではなく、「わたし」のいる「場」と「わたし」の区別もつかなくなる。「わたし」のことばが動くとき、そこに「あなた」がいて「わたし」がいて、そして「サガン」のある「街」がある。「わたし」はあらゆるものになりながら、「なる」ことで、「わたし」で「ある」ことかできる。
あ、こんなふうに永島をつくりあげた(?)街、サガンのある街へ一度行ってみたいと思うのだ。その街はきっと永島の肉体そのものなのだ。その街を離れては永島は永島ではありえないのだ。どんな川があるのか。どんな水があるのか。そこで私のことばはどんなふうに動くことができるのか--そんなことを思うのだ。考えるのだ。
「左岸」のつづき。
水が首に巻きつきあなたを見失いそうになります
この1行の「主語」が誰のなかわからない、と私は書いた。こんなことを書くと、それは前後の文脈をきちんとたどらないからだ、と批判されそうである。このあと詩は、つづいている。
水が首に巻きつきあなたを見失いそうになります
さいごの見届け役としてこのサガンにいるのではありません
あなたと溺れながら次の水の物語を語り継ごうとしているのです
「見届け役」ということばを頼りにすれば、「話者」が「あなた」を見届けるという関係が成り立つから、「あなた」を見失うの主語は「話者」である。そして、それは次の「あなたと溺れながら」によって補足されている。「溺れる」は「水が首に巻きつき」の言い換えである。「話者(わたし)」の首に水が巻きつき、そのために「話者(わたし)」は溺れそうになってる。溺れている。そうして、溺れながら「話者(わたし)」は次の水の物語を語り継ごうとしている。
文脈をたどれば、「あなた」と「話者」を混同することはない。
たしかにその通りなのだが、私の「肉体」は、そんなふうに読むことを欲望しないのだ。そういう「論理的(?)」な文脈を欲望しない。「誤読」したい。
「溺れ」てしまえば、「水の物語」を語り継ぐことなどできない。だいたい「溺れ」て、死んでしまえば「次の」水の物語自体がありえない。この「次の」は「次」ではない。「いま」なのだ。「いま」、「あなた」と「話者(わたし)」が同時に溺れる--そのことによって、「物語」になる。「語り継ぐ」のではなく、「物語」そのものになってしまう--私は、そう「誤読」したいのだ。
語ること、ことばを書くこと--そうすることで「話者(わたし)」も「物語」になる。
七月のあなたを待っていました昔からこのサガンのなかで
あなたが川の水を求めてみえることは知っていましたよ
こう「話者(永島)」が語りはじめたとき、そこに「あなた」がいて「話者(わたし)」がいる。そして「サガン」という「場」があり、「話者(わたし)」には「あなたを待っていました」という過去(昔)がある。「あなた」が「川の水をもとめてみえる(やってくる)」という「いま」があり、それは「知っていた」と「過去-いま」を結ぶ時間のなかで出会う。登場人物がいて、それぞれが「独自」の時間をもって生きてきて、その二人が出会えばそこに、それぞれの「過去(昔)=時間」がぶつかり、それまでとは違った「時間」が動きはじめる。--それが「物語」になる。そして「物語」のなかで、さらに、それぞれの「時間(過去、昔)」が掘り起こされ、「場」のなかの見えなかったものも見えはじめる。
このとき、たしかにそこには、「あなた」がいて「わたし」がいて「場」があるのだけれど、それは「ことば」のなかからそのときそのときに「あらわれてくる」ものであって、ほんとうに「ある」といえるのは「ことば」だけである。
「物語」があるのではない。「ことば」は「物語」に「なる」が、「ある」のは「ことば」である。あくまで「ことば」だけが「ある」。
そして、そこに「ある」ことばが「物語」に「なる」、「物語」を語り継ぐとき、そこに「ある」ことばは「ことば」そのものに「なる」。
同じことばばかりを繰り返すことしかできないのだが、永島のことばには「ある」と「なる」が繰り返されることで動いていくという運動がある。「ある」と「なる」は、ある瞬間「区別」がつかなくなり、区別がつかなく「なる」のはほんとうは「区別」というものが「ある」からなのだ、ということに気がつき、その「気がつく」ということがまた何かに「なる」ことなのだ。
あ、こんなふうに「抽象的」になってはいけないなあ。
違うことを書いてみよう。違う角度から、永島の詩を読み直そう。
「あなた」と「話者(わたし)」が出会う。そこは「サガン」という「場」なのだが、ふたりが出会うことで「サガン」という「場」が動いている。
七月のあなたを待っていました昔からこのサガンのなかで
あなたが川の水を求めてみえることは知っていましたよ
駅前通りからイナバの神を右折すると黒い塀のはてがサガンです
「サガン」のあるところには「川」がある。だからこそ、「あなた」は川の水を求め、やってくることができる。そしてサガンのある街には「駅前通り」がある。「イナバの神」というのは神社だろうか。そこでは道が交叉する。そこでひとは「右折」することができる。そして、右折すると「黒い塀」がある。
そうやってことばが描き出す「場」は「いま」そうあるだけではなく、「昔」からそうあるのだ。
七月のあなたを待っていました昔からこのサガンのなかで
あなたが川の水を求めてみえることは知っていましたよ
駅前通りからイナバの神を右折すると黒い塀のはてがサガンです
捨てられてゆくものを許してしまう今日は不思議な暦ですね
「捨てられてゆくもの」とはなんだろう。たとえば「黒い塀」かもしれない。「イナバの神」かもしれない。「駅前通り」かもしれない。ようするに「話者(わたし)」と「あなた」が出会う「街」そのものの、暮らし、暮らしがつくりあげたさまざまな存在かもしれない。
「捨てる」はこのとき「忘れられる」「見向きもされない」「おざなりにされる」という「精神的な」ことがらかもしれない。
「今日」、つまり「いま」、この街で起きているのは、そういうことである。
それでも「あなた」は「川の水を求めて」やってくる。そして、「話者(わたし)」はそれを知っている。それは、(ここからが私の強引な「読み」、つまり「誤読」なのだが)、「あなた」がほかでもない「わたし(話者)」だからである。「わたし(話者)」はこの街を知っている。「わたし」のことばはこの街を語りながら「街」そのものにもなる。その「街」には当然「サガン」も含まれるから、
静かな室でノーゼンカズラとテーブルが薄明のなかで浮きあがり
わずかな一時ではありますが涼しい朝の匂いも呼んでおきました
サガンも、そんなふうに語られることで、「わたし」はサガンそのものに「なる」。「わたし(話者)」は「あなた」で「あり」、サガンのある街で「あり」、サガンで「ある」。こういうとき、そこでは何でも起きる。起りうる。
静かな室でノーゼンカズラとテーブルが薄明のなかで浮きあがり
わずかな一時ではありますが涼しい朝の匂いも呼んでおきました
白いドレスと少年の仮面を付けて立っているのがわたしです
かすかな湯気のたつ苦味のコーヒーをまずは召し上がってください
宛名のない駅へゆく最終便のバスはもう出てしまいましたよ
あなたはもう帰ることができなくなってしまったのです
「朝の匂い」から「最終便のバス」までの「時間」が凝縮される。「時間」のなかに、ひとは閉じ込められる。だからこそ「あなた」は、この「場」からどこかへ「帰る」こともできなくなる。
ある「場」を語ること。それはその「場」の「時間(過去-いまをむすび付ける時間)」を語ること(知ること)であり、同時にその「場」、その「時間」に閉じ込められることなのである。
「あなた」を語ることは「わたし」が「あなた」に閉じ込められることなのである。
「あなた」を語ること、ある「場」を語ること--それはきのう最初に書いた1行についてのことばを繰り返せば「呼吸」(息継ぎ)の「間」をなくしてしまい、連続したものになってしまうことなのである。
あなたと溺れながら次の水の物語を語り継ごうとしているのです
「語り継ぐ」は意図しなくても、つながってしまうのである。
語ることは、その「場」、その「時間」を、常に押し広げ、深く掘り下げ、わけのわからない何か、語るという行為そのものに「なる」ことかもしれない。
また、なんだかよくわからないことを書いてしまった。
もっと単純に書けばよかったのかもしれない。永島の詩のなかには「あなた」と「わたし」の区別がつかなくなる「時間」があり、そこでは「あなた」と「わたし」だけではなく、「わたし」のいる「場」と「わたし」の区別もつかなくなる。「わたし」のことばが動くとき、そこに「あなた」がいて「わたし」がいて、そして「サガン」のある「街」がある。「わたし」はあらゆるものになりながら、「なる」ことで、「わたし」で「ある」ことかできる。
あ、こんなふうに永島をつくりあげた(?)街、サガンのある街へ一度行ってみたいと思うのだ。その街はきっと永島の肉体そのものなのだ。その街を離れては永島は永島ではありえないのだ。どんな川があるのか。どんな水があるのか。そこで私のことばはどんなふうに動くことができるのか--そんなことを思うのだ。考えるのだ。
碧南偏執的複合的私言―永島卓詩集 (1966年) | |
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