詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤充江「重力探査」

2011-04-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤充江「重力探査」(「幻竜」13、2011年03月20日発行)

 斎藤充江「重力探査」は、二重の意味でおもしろい。
 ひとつは、何も書いていない。何も書いていないというと、語弊があるかもしれないが、何かが書いてあるという印象がない。そして、そこがおもしろい。

重たくて仕方が無い と
ずるずるとひきずって歩いている
この荷物は何だ
気がつくと わたしは久しい間
この荷物の虜になっている
いや
そんなことは無い ただ少し重いだけだ
だが
この頃は足も悪くなって平衡感覚も悪く
荷物の重さで景色が歪んで見える
少しの勾配にも疲れる
音も無く風が渡っている時間
薄い闇に取り囲まれて横たわっている刻
荷物はどっしりと
わたしの上に圧し掛かって 息苦しい

 ひとは、ここには重い荷物を引きずっている「わたし」が書かれている、というかもしれない。まあ、そうかもしれない。でも、その荷物って何? どんな形? どんな色? 何もわからない。だから、私は「何も書かれていない」と言うのである。
 では、それでもそれがおもしろい、というのは?
 4行目。「気がつくと」。これが私にはおもしろかった。重い荷物は存在しないのである。だから、書きようがない。どんな形? どんな色?と私は書いたが、そんな形や色などない。大きさもない。「気がつく」ということが「荷物」であり、それが「重い」のである。
 ここには「気がつく」ということが丁寧に書き直されている。気がつくということはどういうことかが、書かれている。

この頃は足も悪くなって平衡感覚も悪く
荷物の重さで景色が歪んで見える

 この2行が楽しい。楽しいというと、斎藤は困るかもしれないけれど。「気がつく」がどんどん「肉体」のなかで広がっていく。「気づく」は一か所(?)というか、ひとつのことでは終わらない。
 「重い荷物」はいっさい説明されないが、「足が悪くなって平衡感覚も悪く」という事情が説明される。斎藤が書いていることは「重さ」の説明ではないね。しかし、その重さが、たとえば 100キロと言われるよりも、不思議なことに「重さ」がつたわってくるねえ。「荷物の重さで景色が歪んで見える」へとことばが動いていくと、その「重さ」が何キロというのは関係がなくなる。1キロでも 100キロでも同じである。重さを感じること、重さに「気がつく」ことが、「肉体」へと広がり、そのとき「肉体」が感じることが「視覚」にはねかえってくる。
 ここがおもしろいし、こういうことが書かれているから、何も書かれていないのに、それがおもしろい。
 --言いなおすと。
 ここには「わたし」が引きずっている「荷物」の形も、重さも書かれていない。けれど、その「重い荷物」をもったときの感覚が書かれている。肉体の様子が書かれている。そして、その「重さ」を受け止めている「肉体」によって、視覚までもが影響を受けているということが書かれている。
 それが、わかる。だから、おもしろい。
 その荷物が 100キロか1キロか、50キロか。そんなことは、知りたくはないの。私は、知りたくはない。 100キロを重いと感じるひともいれば、軽いと感じるひともいる。おもしろいのは、その「感じ」なのである。
 感じというのは、ひとそれぞれによって違う。だから、それを書いたものは何であってもおもしろいのだ、きっと。
 斎藤の手柄(?)は「気がつくと」ということばを発見したことである。それを詩のなかに取り込んだことである。「気がつくと」は、ふつうは書かないかもしれない。けれども斎藤は書かずにはいられない。書いても書かなくても、詩の「意味・内容」(ここでいうと、「わたし」が「重い荷物」を引きずっているということ)がかわるわけではない。こういう無駄(?)なことばに、ひとの「思想」はあらわれる。

 「気づく」は2連目では、「気が付かない」という形出てくる。そして、ここに実は大きな問題が生まれる。

荷物は
変幻自在に大きさを変化させる
片手で下げて少し無様だが
自分で気が付かない時はよいのだが
突然
身動きが取れない重さになり
大きさになり見る間に
岩石のようになって
私の前に立ちはだかる

 このことばは1連目に比べると、私にはまったくおもしろくない。「肉体」がまったく出てく来ないからだと思う。「片手で下げて」と手は出てくるが、その片手への影響というか片手が感じることが書かれていない。
 なぜ、急にことばがこんなに変わってしまったのか。
 「気がつく」(1連目)と「気が付かない」(2連目)の違いが影響している。「気が付かない」をことばが通った瞬間、「気」と離れてしまったのだ。
 そして思うのだが、(ここの部分、ちょっと私のことばの運動の中で「飛躍」があるね。うまく書けない……)、このとき「気」とは「肉体」と同じものであると私は気がつく。
 「気が付かない」というとき、ことばは「気」といっしょにないだけではなく、「肉体」ともいっしょに存在しない。
 強引にことばを動かして書くと……。
 気が「ことばに」つかないとき、つまり、気が「ことば」の動かないところをさまよっているとき、肉体もまた「ことば」とは無関係なところを動いている。気が「ことばに」つかないというのと、肉体が「ことば」につかないというのは同じなのである。それは、ことばが「気に」つかない、ことばが「肉体」につかないというのとも同じである。
 こういうとき、ことばはでは「何に」ついているのか。私のいつものことばでいえば「頭に」ついている。「気が付かない」を通ったために、ことばが抽象的になり、おもしろくなくなるのだ。
 1連目と2連目の違いは、「気がつく」「気が付かない」だけではない。
 1連目は「少し重い」と書かれていた「荷物」が、2連目では「大きさ」に変わっている。「重さ」と大きさは違ったものである。同じ大きさでも重さが違うということはある。大きさが違ったからといって「重さ」が変わるということはない。もし大きさと「重さ」が比例するのなら、それは「荷物」の「質量」が同じ場合である。しかし、1連目で書いているのは「荷物」の「質量」そのものが変わるということだと思う。そしてその「質量」というのはあくまで「気」がとらえるものであって、科学的なものではない。「気がついた」ときに、「質量」が「重さ」となって「肉体」に影響を与えるのである。
 「大きさ」ももちろん「気」しだいで大きく見えたり小さく見えたりしないわけではないが、この2連目の「大きさ」と「重さ」を比例させる数学は、「肉体」ではなくあくまで「頭」の問題である。

 ことばは、「肉体」ではなく「頭」を通ると「思想」ではなくなる。

 ことばは、「肉体」ではなく「頭」を通ると、抽象的になり、「正確」になる。そして、私の考えでは「正確」というのは「思想」ではない。「思想」というのはいつでも「間違い」を含んでいる。間違えてしまうのが「思想」である。だからこそ、幾種類もあるのだ。さまざまなことばとなって動いているのだ。「比例」は絶対に入り込まないのだ。

 3連目。

たかが 一抱えの荷物ではないか
自在に大きさを変えたり
重さを変えたりするので
憂鬱にはなるが

 斎藤は大急ぎで「大きさ」と「重さ」を並列させているが、この軌道修正も「頭」による修正だ。そして、この軌道修正のとき、斎藤は「気」そのものを捨ててしまっている。「荷物」と「わたし」との間に「気」以外のものが入ってきて「気」を捨てるしかなくなっている。
 3連目の書き出し。

この荷物 押しつけられて持っているのか
誰かに頼まれて 預けられたまま
持たされているのか
荷物に何か魅力を感じて自からすすんで持ったのか
わすれてしまった

 「気(気持ち、と同じであるかどうか、ちょっと微妙だが)」もどこかへ去っていく--それを「わすれる」という動詞であらわせるかどうか、難しい問題だが、一般的には「気」が「わすれる」とは言わないように思う。「わすれる」のはあくまで「頭」である。そして、その「頭」に「誰か(他人)」が入ってきてしまうと、もう「荷物(の重さ)」は「わたし」だけの問題ではなくなる。
 だから、この詩は、とても変な感じで終わってしまう。

だれに頼まれて持たされたわけでもない荷物
だれにも拾われない荷物
拾った奴が たぶん困る荷物

 1連目。困っていたのは「わたし」。それがいつのまにか「拾った奴」(他人)が「困る」というふうにすり変わってしまう。
 「気が付かない」ということばを通ってしまったたために、ことばは、ここまで変わってしまう。
 ことばは、とても正直だと思う。正直に動くしかないのが、ことばの本質なのだと思う。
 なんだか、斎藤の作品に対する「感想」とは違うものを書いてしまったような気がするが。


 「正直に」告白すると、1連目には斎藤の実感が書かれている。それがとてもよく書けてしまったので2連目からは「頭」でことばをつないでいって完成した--というのが、この作品だと思う。実感(気)が、「頭」にわかってしまったために、ことばがかわってしまった、というのが私の感想なのである。「気(実感)」のことばと「頭」のことばは、まったく違うものだ、というのが私の感想である。
 そして私は、2、3連目のような、「頭」で整理し直したことばの運動はおもしろくないなあと思うのである。最初から最後まで「頭」で動かすことばは、それはそれで「頭」が「肉体」になっているからいいのだが。



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ナボコフ『賜物』(41)

2011-04-14 11:02:28 | ナボコフ・賜物

 そんな風にしてひと夏をだらだら過ごし、ざっと二ダースほどの詩を生み、育て、そして永遠に見限ってから、ある晴れた涼しい日、土曜日のことだったが(晩には集まりがあることになっていた)、彼は大事な買い物に出かけた。落葉は歩道の上に敷きつめられているわけではなく、干からびて反りかえり、葉の一枚一枚の下から青い影の角が突き出ていた。キャンディでできた窓のついたお菓子の小屋から、箒を持ち、清潔なエプロンを掛けた老婆が出てきた。彼女は小さな尖った顔と、並はずれてばかでかい足をしていた。そう、秋なんだ!
                                 (99ページ)

 私は、わざと長い引用をした。私が感動したのは「葉の一枚一枚の舌から青い影の角が突き出ていた。」という部分なのだが、その部分だけではなく、あえてその周辺を含めて引用した。そうしてみると、不思議な気持ちになる。
 ナボコフは、なぜこのことばを書いたのだろう。読ませたかったのか。隠したかったのか。
 「青い影」だけでもとても美しいが、「青い影」ではなく「青い影の角」。あ、葉っぱは尖ったているのだ。丸い部分もあるかもしれないが、尖った部分を持っている。それが「一枚一枚」の下から突き出している。この繊細な感覚が(描写が)、「そう、秋なんだ!」ということばに結びついていく。「ある晴れた涼しい日」と「青い影の角」と「秋」が結晶し、きらきら輝く。
 でも、そのまわりには、その透明さとは相いれないものがひしめきあっている。矛盾したものがひしめきあっている。キャンディでできた窓のついたお菓子の小屋(公衆トイレ)、清潔なエプロン、老婆、ばかでかい足。
 そういう「もの」だけではない。

 落葉は歩道の上に敷きつめられているわけではなく、

 ロシア語の原文がどうなっているのかわからないが、ここに日本語としてやくしゅつれれていることばがすべてロシア語でも書かれていると仮定すると。
 「歩道の上に」の「上に」がとても気になる。この「上に」は「葉の一枚一枚の下から」の「下から」と対応しているのだが、「上に」って必要? 「下に」敷きつめるということなどできない。「上に」敷きつめるしか、表現としては存在しない。それなのになぜ、「上に」?
 もしかすると、ナボコフは「青い影の角」ではなく、それを一枚一枚の葉の「下に」みつけたことを書きたかったのかもしれない。「下に」ということばを書きたかったのかもしれない。「青い影の角」は、それを引き出すためのものなのだ。

 --というのは、とても変な読み方である。

 わかっているのだが、気になるのだ。「涼しい」「青い影(の角)」「秋」という結晶の美しさ。それを読むだけのために私は何度もこのページを読むのだが、そのことについて書こうとすると「下から」ということば、「上に」ということばの対比(構造)が気になって仕方がないのだ。
 ナボコフはある情景をぱっと思い浮かべ、それをていねいに書き留めるのではなく(描写しているのではなく)、どんな情景もきちんと「構造」をつくりあげながら(意識しながら)、情景を創出しているのかもしれない。
 情景があり、それをことばが追いかけるのではなく、ことばを組み合わせることで情景をつくりだしているのかもしれない。





ナボコフ伝 ロシア時代(上)
B・ボイド
みすず書房
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