詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

里中智沙「被爆のマリア」「美しい夏」

2011-04-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
里中智沙「被爆のマリア」「美しい夏」(「獅子座」17、2011年03月20日発行)

 里中智沙「被爆のマリア」は長崎・浦上天主堂のマリア像のことである。原爆で破壊された。その痕跡が顔にくっきりと刻印されている。

わたしはもう
目は 捨てた。
ぽっかりと空いた ふたつの虚(うろ)
を こわごわと見てないで
指を入れてみなさい。
だれか
このふたつの闇に
手を突っ込んでみなさい。

 「わたし」は「被爆のマリア」である。里中自身のことではない。マリアに触れて、その衝撃で里中は一瞬、里中が里中であることを忘れてしまった。マリアに引きこまれ、マリアの「声」になってしまったのだ。
 そこから、ことばが自然に動いている。
 実際に、その失われた目のなかに指を入れたひとはいないだろう。手を入れたひとはいないだろう。
 それでも、そこに書いてあることが、瞬間的につたわってくる。
 きっと誰にでも、何があるかわからない「穴」に手をいれるときの「こわごわ」とした体験があるからだろう。見ているだけでもこわい。手を入れるのはなおこわい。そんな記憶がよみがえるからだろう。
 それはマリアの声ではなく、だれもが体験したことがある「肉体」の声なのだ。「肉体」を呼び覚ます声なのだ。
 それにしても、「指を入れてみなさい」「手を突っ込んでみなさい」とは強烈である。誰も書かなかったことばである。きっと、マリアの悲惨さに触れ、その傷ついた「肉体」の内部に触れることは、マリアの尊厳をおかすような気持ちになるからだろう。
 けれど、マリアが知ってもらいたいのは、ひとがおそれていること--恐怖で遠ざけている「苦悩」そのものなのだ。それは「見る」だけではだめなのだ。「聞く」だけではだめなのだ。「見る」も「聞く」も対象と自分とのあいだに「距離」がある。そういう「距離」を超えて、対象に触れなければならない。
 触れる。触れることが恐怖なのは、触れることで自分の「肉体」が直に影響を受けるからである。
 だが、直に影響を受けなければ、ほんとうは知ったことにはならないのだ。
 この声を経由するから、次に書かれることが切実になる。

それはひきこまれ
たちまち焼け焦げ焼け落ちるだろう
(私の右の頬のように)
そこはあの日の浦上
炎(ひ)は まだ燃えているのだよ
にんげんも 燃えているのだよ
燃えて燃えて
せいかじゅうに飛び火して
にんげんたちは
熱い闇の中を
漂っているのだよ
             (谷内注 炎を里中は「火」を三つ重ねて書いている)

 触れることで、影響を受ける。影響は、そこにとどまらない。なにかに触れた影響は、つづいていく。広がっていく。
 「肉体」の、そして「触覚」の本質を描いている。


 「美しい夏」はただひとりの、里中の「肉体」を丁寧に描いている。

しばらくおいて溶けてから食べてください
と言われて 凍ったシュークリームを買った
コーヒーを淹れ 洋梨を切り
シュークリームの袋はしだいに水滴で覆われ
でも完全に溶けてはいなかったのか
甘いつめたい塊が喉の奥に落ちていった
ふるふる震えながらゆっくりと
そのとき
わたしのからだのくらがりに立ちなずんでいた夏を
いっしゅんの花火のように照らしたのだった
つめたいものは身体を冷やすから
冷えるものはよくないからと
アイスティーもアイスコーヒーもアイスクリームも
取らなかった夏

 「肉体」の事情でつめたいものを取ることができなかった夏。それをいま、「肉体」にいれてみると、そのときの記憶が反作用のようによみがえる。「花火のように照らした」という比喩が美しい。この花火は大きな打ち上げ花火ではないだろう。手元で小さく弾ける線香花火だろう。
 マリア像の「指を入れてみなさい」と同じように、瞬間的に、ひきこまれる。
 ここにも、「触れる」ということばはないのだが「触覚」が書かれている。「甘いつめたい塊が喉の奥に落ちていった」の「つめたい」。それは「触れる」ことで知る感覚である。そのあとの「ふるふる震える」「ゆっくり」も触覚--なにかに直に触れることで感じることである。
 触れること--直に接すること。そのことが人間を目覚めさせる。





手童(たわらは)のごと
里中 智沙
ミッドナイトプレス
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 誰も書かなかった西脇順三郎(207 )

2011-04-12 11:55:50 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。さらに「哀」について。

岩かどに咲くすみれの汁は
女の旅人の日記を暗くしている
野原も見えなくなつた

 どうしてこんなことばが出てくるのかわからない。たとえば「岩かど」。普通は「岩陰」と言わないだろうか。「岩陰に咲く」というのは、必ずしも「陰」とはかぎらないだろうけれど、岩のそばである。「岩かど」「岩かげ」は1字違いなのだけれど、「かど」の方が荒々しい。「文学」から逸脱している。この場合「文学」というのは、いままでの「文学」の定型(常套句)ということだけれど。
 そうなのだ。
 西脇は、文学の「常套句」を破る。そこに乱調が生まれる。そして、乱調から「もの」が生まれる。「岩かげ」では「岩」そものもが見えて来ない。「岩かげ」というすでに「文学」になってしまった「ことば」が見えるだけである。その「こば」を破り、「もの」に返す。そういう野蛮な(?)運動が西脇のことばの基本である。
 「すみれの汁」というのは、すみれをつぶしたときに出てくる「汁」だろうけれど、これも強烈である。「汁」ということば単独ですみれと結びつけることは、ふつうはしないだろう。すみれを間違ってふんでしまったら、そこに小さな染みができた--涙のような染みができた、というのが「文学」であった。西脇は、そういう「文学」をひっくりかえすのである。「もの」によって。「もの」そのものの「音」によって。
 こういう「破壊」があるから、「女の旅人の日記を暗くしている」というセンチメンタルもの何か新しいもののように響いてくる。
 そして、唐突に、「野原も見えなくなつた」と視界の広さを変えてしまう。「センチメタル」というのは「岩陰(これは、わざと書いているのです)」とか「すみれ」とか「汁」、あるいは「日記」「暗く」というような、なんだか視界が限定されたところで動く。「狭い場」を繊細に動いて、その「狭さ」のなかに繊細な形を浮かび上がらせることが多い。
 それを「野原」という広いもので、西脇は一気に破壊する。

麦畑の方からいかずちのきらめきが
盃に落ちて酒はあけぼのの海となる

 書いてあることは(ことばは)みんな知っている。わからないことばはない。けれど、そのことばの組み合わせ方ひとつひとつが微妙に変である。「岩かど」のように、わかるけれど、そうはいわないのでは……でも、西脇の書いていることばの方が強烈だなあ、と思わせることばである。
 いかずち(大)→きらめき(小)→盃(小)→海(大)
 この書かれたことばのもっている「大・小」の印象の変化がおもしろいのかもしれない。大きいものが砕けて小さくなり、その小さいものが小さいものと重なって、突然大きなものになる。
 そこには、何か、うまくいうことができないが「破壊」がある。秩序の「破壊」がある。「乱調」がある。
 この乱れと、ことばそのもののの「音」の変化がとても美しい。
 私は音読をしないが、音読をしないからかもしれないのだが、西脇のことばの「音」には、破壊と乱調と、その乱調のあとの「沈黙」の透明な音楽がある。
 そして、その透明な音楽を受け止めるようにして、世界が、また一瞬のうちにかわる。
明日もまた雨がふるだろう

 この変化によって、さっきの透明な音楽が、汚れから回避される。どんなに美しいものでも、西脇は「一瞬」しか、それに時間を割かない。美しい一瞬に溺れてしまわない。溺れそうになったら、それをさらに破壊する--そうすることで、「純潔」を保つのである。いさぎよいのである。

アスガルの岡にくぼむ石の髄まで滴る
こわれた泥ベイの中で種まきの話をして
いてもきこえないポポイ
桃の花が咲いても見えないポポイ
明日もまただれか眼鏡をかけて
カメラをもつた男が君をよこぎるだろう

 「意味」はなるのか、ないのか。まあ、関係ないなあ。「音」が、もう「音」だけで動いていく。「泥塀」を「泥ベイ」と書くと「ポポイ」になぜかつながる。それはたしかギリシャ語の「感嘆符」のようなものだと思うが、それが「悲しい」感嘆であっても、「楽しい」感嘆になってしまう。「泥ベイ」の「泥」、その「俗」というか、華麗ではないもの、華奢ではないもの、むしろ荒々しく自然なものの「素朴」な力がとてもいいのだ。
 西脇は、こういう「俗」というか、地についたことばを、美しい「音」にかえる天才だと思う。西脇によって、「文学」から見捨てられたことばが、しずかな「場」を生きていたことばが、一気によみがえる。




西脇順三郎全詩引喩集成
新倉 俊一
筑摩書房



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現代詩講座1

2011-04-12 10:23:26 | 現代詩講座
(2011年04月11日の講座内容の概略です。)

 こんにちは。谷内修三です。「現代詩講座」の講師をさせていただきます。
 テーマは、詩は気障な嘘つき。
 詩というと、ほんとうのことを書きましょう、思っていることを書きましょう、ということになるのだけれど、私は逆に考えています。
 どんどん嘘をつきましょう。

 たとえば……。私は、現代詩界のジョージ・クルーニー、です。目が大きくて、髪が黒くて、背が高い。
 というのは冗談だけれど(半分本気)だけれど、嘘というのはとても難しい。
 私が嘘が難しいというのは、嘘はばれるから--という理由からではありません。嘘は、つきつづけられない。嘘はどうしてもほんとうのことを言ってしまうからです。たとえば、私は目が大きい方です。髪は、白髪まじりだけれど、黒ですね。背も高い方です。嘘をついたつもりが、どこかで「ほんとう」が出てくる。嘘は、つけないのです。
 これが、私が考えていることです。どんなに嘘をついてもほんとうのことを言ってしまうのが人間。だから、気障に嘘をついて、ほんとうのことをちょっとかっこよくしてみよう。かっこいいことばで言ってみよう。おもしろいことばで言ってみよう。書いてみよう、というのが私の講座の内容です。

 1回目なので、昨年発行された詩集のなかで、私がいちばんおもしろいと思った詩集について語らせてください。和田まさ子『わたしの好きな日』(思潮社、2010年10月25日発行)。コピーの1枚目の作品です。何年か前に「現代詩手帖」の投稿欄(新人作品蘭)にのった作品です。



あいさつに行ったのに
先生は
いなかった

出てきた女性は
「先生はいま 壺におなりです」
というのだ
「昨日は 石におなりでした」
ははあ 壺か
「お会いしたいですね せっかくですから」

わたしは地味な益子焼の壺を想像したが
見せられたのは有田焼の壺であった
先生は楽しい気分なのだろう

先生は無口だった
やはり壺だから

わたしは近況を報告した
わたしは香港に行った
わたしはマンゴーが好きになった
わたしはポトスを育てている
わたしは
とつづけていいかけると
「それまで」
と壺がいった
聞いていたらしい

「模様がきれいですね」というと
「ホッホッ」と先生が笑った
わたしは壺の横にすわった
だんだん壺になっていくようだ
わたしもきれいな模様がほしいと思った

アパートほうれん荘
二階三〇一号室に帰ると部屋に壺があった
それはわたし?

たとえばこんな一日が
わたしの好きな一日だ

 わかることろと、わからないところがあります。最初の三行は普通のことを書いているから、わかりますね。
 2連目は変ですねえ。「先生はいま 壺におなりです」。これは、嘘ですね。先生は人間であって、人間は壺になんかはなりません。和田まさ子は嘘をついています。私がジョージ・クルーニーと言ったのと同じです。
 でも、そこには、たとえばどんな「ほんとう」が書いてあるのかな?
 「壺」とわからないけれど、「昨日は 石におなりでした」はなんとなくわかるような気がしますね。不機嫌で、硬く口を閉ざしている。そんなことを「石におなりでした」と言ったのかもしれない。「石のように口を閉ざす、黙り込む」--こういう文章をどこかで読んだり、聞いたりしたことがあるでしょ? また「石頭」という言い方もありますね。何か、融通がきかない、頑固な状態。昨日は、先生は、そういう状態だったというのかもしれません。
 何か少しわかったような気持ちになりますね。
 「壺」は「石」に比べると、どうかなあ。中が空洞ですね。中に何かが入っていますね。石よりは、ましかなあ。
 それで、
 「お会いしたいですね せっかくですから」と私は(和田まさ子かな?)は女性に答える。この「お会いしたいですね せっかくですから」というのは、だれかを訪問して行ったけれど、相手の都合がよくない。けれど、「せっかくだから」と一押しする感じですね。
 訪問したひとが病気だとか、寝ているとか、そういうときも「顔だけでもみたいですね せっかくですから」というのに似ています。ここにも、何か「ほんとう」がありますね。先生は壺になった--という嘘を書いているのだけれど、「ほんとう」が紛れ込んでいる。そして、そこに和田の普通のときの「生き方」がにじんでいる。
 そのあとは、また、嘘がつづく。

わたしは地味な益子焼の壺を想像したが
見せられたのは有田焼の壺であった
先生は楽しい気分なのだろう

 そして、次に「ほんとう」がやってくる。

先生は無口だった
やはり壺だから

 これは、先生が口をきかない、すねて(?)黙っているということを言い換えたのかもしれない。比喩ですね。でも「壺だから/無口」、口をきかない、というのは「無口」ごだからというのを別にすれば「ほんとう」が含まれています。壺はしゃべりません。これは「ほんとう」です。

 訪問して言った先生が、石のようにからは少しはまともになっているけれど、やっぱりすねて(?)、黙りこくっている。
 それで、「わたし(和田)」は、せっかくだから、近況報告をする。おしゃべりをする。そのおしゃべりが、だんだん調子付いてくる。その調子付いてくる。
 そうすると、先生が、うるさいと思ったのか「それまで」と突然、声を出す。
 これ、おかしいですね。
 でも、こういうこと、よくありますね。
 たとえば、家でつれあいとけんかする。黙りこくる。「もう口をきかない」。そのひとことをいいことに、あれこれしゃべりまくる。悪口でもいいんだけれど、ばかばかしいだじゃれなんかもおもしろいかな。で、笑いだしそうになって、「口をきかない」といったはずの相手が「それまで」といったりとか……。
 そういうことってあるでしょ?
 ほら、やっぱり「ほんとう」がでてきてしまうんですねえ。

 それとは、別に、私は、

わたしはポトスを育てている

 という行がとてもおもしろいと思った。私はもともとカタカナがとても苦手で、正しく読めない。「ポトス」というのはどうも植物らしいのだけれど、私はこれを「トポス」と読んでしまった。ギリシャ語で「場」という意味です。
 気障でしょ? こういうことをいうのは。ちょっと教養があるところもみせたいなあ、と思って、私はわざとこんなことを言っているんだけれど……。
 で、さっき、調子にのってどんどん話をする、というふうにいったのだけれど、この「ポトス」が「トポス」なら、その調子付いたことがもってとわかるかな。植物なら育てられるけれど「トポス」(場)は育てられない。でも、ギリシャ哲学の「内容」を育てる--深めるということなら、できないことはない。黙っているのをいいことに、知ったかぶりをする。それに対して、先生が、
 「そこまで」という。
 あ、こういうこともよくあるでしょ。調子付いて騒いでいると「そこまで」と先生にしかられたことってありません?
 嘘はつきつづけられない。どうしてもほんとうがのぞいてしまう。
 これがおもしろいと、私は思う。

「模様がきれいですね」というと
「ホッホッ」と先生が笑った
わたしは壺の横にすわった
だんだん壺になっていくようだ
わたしもきれいな模様がほしいと思った

 ほめられて「ホッホッ」と笑う。そういう人間の反応も「ほんとう」ですね。そしてそれが「わっはっはっ」ではなく「ホッホッ」というのもリアリティがあるでしょ? 先生の説明は全然出てこないのだけれど、この「ホッホッ」だけで、あ、おかまっぽい先生なんだなあ。笑うとき、口に手を当てたりするんだろうなあ、と思ったりする。
 ここにも「ほんとう」がありますね。私たちが普通に見ている「人間」のほんとうの姿がある。
 こういうことが、とてもおもしろい。

 最後の2連は、なんだろう。「ほうれん荘」というだじゃれがあるけれど、これは嘘だろうなあ。
 わからない。
 わからないことろは、私は気にしないのです。わからなくてもいい。そのうちわかるかもしれないし、永遠にわからないかもしれない。こんなことは詩なので、いいかげんでいいのです。
 気に入ったところをみつけ、ここがおもしろい、これをいつかちょっとまねして言ってみよう。そうすると、みんなどんな顔をするかな、そういう感じで詩を読んでいけたら、とてもおもしろいと思う。 

 それから追加。
 もうひとつ。さっき私は「わたしはポトスを育てている」という行から「トポス」を育てる、というふうに間違って読んだということを書いたのだけれど。
 ことばは読み間違いのほかに、解釈のまちがいというのもありますね。「ふるさと」。♪うさぎおいしかのやま、こぶなつりしかのかわ……。この「うさぎおいし」を「うさぎおいしい」と思って歌ったことはありませんか? うさぎを追いかけた--がほんとうの意味なのだけれど、それを「おいしい」ととんでもない意味に理解してしまう。思い込んでしまう。
 これは間違いなんだけれど、その間違いのなかには「ほんとう」があります。
 うさぎを食べたら、おいしいかもしれない。欲望ですね。うさぎを食べたい。これは、私たちの年代になると、とちょっと切実です。昔は食べ物がなかった。肉なんてめったにないから、肉が食べてみたい。うさぎならおいしいかもしれない。うさぎを食べたことがないのに「うさぎおいしい」と思ってしまう。
 嘘がどうしても「ほんとう」を含んでしまうのと同じように、間違いも「ほんとう」を含んでしまう。
 嘘をついたり、間違いをしたりするのは、どこかで「ほんとう」とつながることなのです。ほんとうのことや、正しいことを書くのは難しいけれど、嘘や間違いを書くと、そこから「ほんとう」があらわれてくる、と思うと、ちょっとおもしろいかなあ、と思う。

 そういうことを、この講座をとおして、みなさんといっしょに楽しみたいと思っています。



  このあと、質疑応答?(雑談、ですね。)

 そのなかで、私が非常にびっくりしたことがあった。私はこの詩の「先生」を男だと思って読んでいたが、女だと思ったひとがおよそ半分いた。私は、「出てきた女性は」という2連目の1行目で、出てこないひとは反対のひと、女ではなく男と読んだのだが……。
 谷内「なぜ女性?」
 受講生1「壺って丸くって、曲線が女のひとを思わせる」
 受講生2「地味な益子焼なら男だろうけれど、有田焼は美しいだから女性」
 受講生3「ホッホッという笑い方が女っぽい」
 受講生4「壺の隣に身を寄せて座っている。先生が男なら隣には座らない」
 受講生5「ポトスを育てているとか、身近なことを話している。男にはそんな話をしない」
 あまりにびっくりして、私と同じように「先生」を男と思った人の「理由」を聞き忘れてしまった。(聞いたけれど、忘れてしまった。)

 また、前記の「講座内容」では言わなかったことも書いてあるのだが、「ほうれん荘」のくだりについて、「ここには漫画の影響がある」という指摘があった。何人かが同じ意見だった。「まかろにほうれんそう」(?)という漫画があるらしい。
 和田まさ子のポップなことばの感じ全体にも、漫画の影響が感じられるということであった。

 「ポトス」については、「ポスト」と読み間違えた、というひともいた。(私も、以前このブログに感想を書いたとき「ポスト」と読み間違えた、と書いている。今回、「トポス」と読み間違えたと書いたのは、今回たしかにそう読み間違えたのだけれど、きっと何かかっこいいことを言わなければ、という気持ちもあって、そんなふうになったのだと思う。読む度に違っていくのが詩である、とも思った。)

(このあと、北川透の作品も2篇読み、感想を語り合ったが省略。ここでも、とても鋭い「読み」が次々にでてきて、私は「講師」というより「生徒」という感じだった。)



 よみうりFBS文化センター「現代詩講座」は次の要領で開催してます。受講生を募集中です。
テーマは、

詩は気取った嘘つきです。いつもとは違うことばを使い、だれも知らない「新しい私」になって、友達をだましてみましょう。

現代詩の実作と鑑賞をとおして講座を進めて行きます。
1回目は「鑑賞」だったので、2回目は「実作と批評(鑑賞)」。受講生の作品を読み、感想を語り合います。
交互に繰り返します。

受講日 第2、4月曜日(月2回)
    13時-14時30分(1 時間30分)
受講料 3か月全納・消費税込み
    1万1340円(1か月あたり3780円)
    維持費630円(1か月あたり 210円)
開 場 読売福岡ビル9階会議室
    (福岡市中央区赤坂1、地下鉄赤坂駅2番出口から徒歩3分)

申し込み・問い合わせ
    よみうりFBS文化センター
    (福 岡)TEL092-715-4338
         FAX092-715-6079
    (北九州)TEL093-511-6555
         FAX093-541-6556
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