里中智沙「被爆のマリア」「美しい夏」(「獅子座」17、2011年03月20日発行)
里中智沙「被爆のマリア」は長崎・浦上天主堂のマリア像のことである。原爆で破壊された。その痕跡が顔にくっきりと刻印されている。
「わたし」は「被爆のマリア」である。里中自身のことではない。マリアに触れて、その衝撃で里中は一瞬、里中が里中であることを忘れてしまった。マリアに引きこまれ、マリアの「声」になってしまったのだ。
そこから、ことばが自然に動いている。
実際に、その失われた目のなかに指を入れたひとはいないだろう。手を入れたひとはいないだろう。
それでも、そこに書いてあることが、瞬間的につたわってくる。
きっと誰にでも、何があるかわからない「穴」に手をいれるときの「こわごわ」とした体験があるからだろう。見ているだけでもこわい。手を入れるのはなおこわい。そんな記憶がよみがえるからだろう。
それはマリアの声ではなく、だれもが体験したことがある「肉体」の声なのだ。「肉体」を呼び覚ます声なのだ。
それにしても、「指を入れてみなさい」「手を突っ込んでみなさい」とは強烈である。誰も書かなかったことばである。きっと、マリアの悲惨さに触れ、その傷ついた「肉体」の内部に触れることは、マリアの尊厳をおかすような気持ちになるからだろう。
けれど、マリアが知ってもらいたいのは、ひとがおそれていること--恐怖で遠ざけている「苦悩」そのものなのだ。それは「見る」だけではだめなのだ。「聞く」だけではだめなのだ。「見る」も「聞く」も対象と自分とのあいだに「距離」がある。そういう「距離」を超えて、対象に触れなければならない。
触れる。触れることが恐怖なのは、触れることで自分の「肉体」が直に影響を受けるからである。
だが、直に影響を受けなければ、ほんとうは知ったことにはならないのだ。
この声を経由するから、次に書かれることが切実になる。
触れることで、影響を受ける。影響は、そこにとどまらない。なにかに触れた影響は、つづいていく。広がっていく。
「肉体」の、そして「触覚」の本質を描いている。
*
「美しい夏」はただひとりの、里中の「肉体」を丁寧に描いている。
「肉体」の事情でつめたいものを取ることができなかった夏。それをいま、「肉体」にいれてみると、そのときの記憶が反作用のようによみがえる。「花火のように照らした」という比喩が美しい。この花火は大きな打ち上げ花火ではないだろう。手元で小さく弾ける線香花火だろう。
マリア像の「指を入れてみなさい」と同じように、瞬間的に、ひきこまれる。
ここにも、「触れる」ということばはないのだが「触覚」が書かれている。「甘いつめたい塊が喉の奥に落ちていった」の「つめたい」。それは「触れる」ことで知る感覚である。そのあとの「ふるふる震える」「ゆっくり」も触覚--なにかに直に触れることで感じることである。
触れること--直に接すること。そのことが人間を目覚めさせる。
里中智沙「被爆のマリア」は長崎・浦上天主堂のマリア像のことである。原爆で破壊された。その痕跡が顔にくっきりと刻印されている。
わたしはもう
目は 捨てた。
ぽっかりと空いた ふたつの虚(うろ)
を こわごわと見てないで
指を入れてみなさい。
だれか
このふたつの闇に
手を突っ込んでみなさい。
「わたし」は「被爆のマリア」である。里中自身のことではない。マリアに触れて、その衝撃で里中は一瞬、里中が里中であることを忘れてしまった。マリアに引きこまれ、マリアの「声」になってしまったのだ。
そこから、ことばが自然に動いている。
実際に、その失われた目のなかに指を入れたひとはいないだろう。手を入れたひとはいないだろう。
それでも、そこに書いてあることが、瞬間的につたわってくる。
きっと誰にでも、何があるかわからない「穴」に手をいれるときの「こわごわ」とした体験があるからだろう。見ているだけでもこわい。手を入れるのはなおこわい。そんな記憶がよみがえるからだろう。
それはマリアの声ではなく、だれもが体験したことがある「肉体」の声なのだ。「肉体」を呼び覚ます声なのだ。
それにしても、「指を入れてみなさい」「手を突っ込んでみなさい」とは強烈である。誰も書かなかったことばである。きっと、マリアの悲惨さに触れ、その傷ついた「肉体」の内部に触れることは、マリアの尊厳をおかすような気持ちになるからだろう。
けれど、マリアが知ってもらいたいのは、ひとがおそれていること--恐怖で遠ざけている「苦悩」そのものなのだ。それは「見る」だけではだめなのだ。「聞く」だけではだめなのだ。「見る」も「聞く」も対象と自分とのあいだに「距離」がある。そういう「距離」を超えて、対象に触れなければならない。
触れる。触れることが恐怖なのは、触れることで自分の「肉体」が直に影響を受けるからである。
だが、直に影響を受けなければ、ほんとうは知ったことにはならないのだ。
この声を経由するから、次に書かれることが切実になる。
それはひきこまれ
たちまち焼け焦げ焼け落ちるだろう
(私の右の頬のように)
そこはあの日の浦上
炎(ひ)は まだ燃えているのだよ
にんげんも 燃えているのだよ
燃えて燃えて
せいかじゅうに飛び火して
にんげんたちは
熱い闇の中を
漂っているのだよ
(谷内注 炎を里中は「火」を三つ重ねて書いている)
触れることで、影響を受ける。影響は、そこにとどまらない。なにかに触れた影響は、つづいていく。広がっていく。
「肉体」の、そして「触覚」の本質を描いている。
*
「美しい夏」はただひとりの、里中の「肉体」を丁寧に描いている。
しばらくおいて溶けてから食べてください
と言われて 凍ったシュークリームを買った
コーヒーを淹れ 洋梨を切り
シュークリームの袋はしだいに水滴で覆われ
でも完全に溶けてはいなかったのか
甘いつめたい塊が喉の奥に落ちていった
ふるふる震えながらゆっくりと
そのとき
わたしのからだのくらがりに立ちなずんでいた夏を
いっしゅんの花火のように照らしたのだった
つめたいものは身体を冷やすから
冷えるものはよくないからと
アイスティーもアイスコーヒーもアイスクリームも
取らなかった夏
「肉体」の事情でつめたいものを取ることができなかった夏。それをいま、「肉体」にいれてみると、そのときの記憶が反作用のようによみがえる。「花火のように照らした」という比喩が美しい。この花火は大きな打ち上げ花火ではないだろう。手元で小さく弾ける線香花火だろう。
マリア像の「指を入れてみなさい」と同じように、瞬間的に、ひきこまれる。
ここにも、「触れる」ということばはないのだが「触覚」が書かれている。「甘いつめたい塊が喉の奥に落ちていった」の「つめたい」。それは「触れる」ことで知る感覚である。そのあとの「ふるふる震える」「ゆっくり」も触覚--なにかに直に触れることで感じることである。
触れること--直に接すること。そのことが人間を目覚めさせる。
手童(たわらは)のごと | |
里中 智沙 | |
ミッドナイトプレス |