詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小島数子「見知らぬ正直さ」、北川朱実「空の匂い」

2011-04-30 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
小島数子「見知らぬ正直さ」、北川朱実「空の匂い」(「庭園 アンソロジー2011」、2011年04月22日発行)

 詩人は、ことばを何の力で動かすか。細見和之は「思考」の力で動かす。彼の思考は「具体」と「抽象」を往復することで「正確」になっていく。そして、その「正確」を基盤にして「感情」をみつけだす。
 28日に読んだ糸井茂莉も「思考」派の詩人だろう。ただし、糸井は「具象」と「抽象」を往復しない。糸井は「音」(声)を掘り起こす。
 細見が「脳髄」の詩人なら、糸井は「耳」の詩人である。
 小島数子はどうだろう。小島の詩も、ことばが「思考」の力で動かされているのを感じる。ずいぶん抽象的なことがら、抽象的な思考を強いる運動をする。
 「見知らぬ正直さ」の1連目。

躰を負う魂は
若々しく働き
見知らぬ正直さに出会おうとする
現実のための現実は
ていねいに真実を待とうとする
そんなことを考えながら
ひとりで歩いた

 「感じる」ではなく「考える」が小島の基本的な姿勢である。小島は、人間を「躰」と「魂」との「二元論」でとらえている。そして、その関係は魂が躰を「負う」である。つまり魂の上に躰がある。だから、躰が動くのではなく、魂が躰をどこかへ運んでいくのである。躰は、ずぼら(?)を決め込んで動かない。これは、変な言い方になるが、魂が「肉体」をもって、「肉体」である「躰」をどこかへ動かす、運んでゆくということである。位置的には魂は躰の下にあるのだが、躰の自由(どこへゆくか、どんな動きをするか)は魂にまかせられている。
 (細見の場合、「思考」が肉体を動かしているといえるが、それは「負う(背負う)」という関係ではなく、「思考」を「脳髄」と呼ぶことで、肉体そのものになり、肉体の内部から肉体を動かすことになる。--「思考」というのはどこにあるかわからないが、「脳髄」は肉体の内部にあることは、解剖学的に「定義」されている。糸井の場合は、「思考」はどこにあるかわからないが、「音」とともにある。そして、その「音」をとらえる肉体器官は「耳」であり、発生器官は「のど」や「口」であり、「思考」は「音」になる。一方、細見の「思考」はまず「文字」になる。あるいは「/」というような「記号」になる。「/」は細見が「音」を基本に「思考」を動かしていない証拠でもある。あ、脱線した……。)

 小島の魂は躰を動かす。でも、どんなふうに動かすかは小島は書いていない。どんなふうに動かすかは書いていないが、なぜ、あるいは、どこへ動かすかは決まっているようだ。

見知らぬ正直さに出会おうとする

 ここにはふたつのことが書かれている。「見知らぬ」と「正直さ」である。そして、このことばは小島は、それとは別に「正直」を知っているということを語る。「知っている正直」がある。その一方で「見知らぬ正直」というものがある。
 「知っている正直」とは何か。魂である。小島の魂は正直である。それを小島は知っている。そして、それだけでは満足せずに、小島の知らない「正直」というものがどこかにあるはずだ、どこかで誰かの躰を動かしているはずだと考え、その方向へ動こうとしている。

現実のための現実は
ていねいに真実を待とうとする

 この2行は、「見知らぬ正直」と「正直」の関係を、パラレルに書いたものである。反復したのもである。細見なら「見知らぬ正直/現実が待っている真実」と書くかもしれない。「知っている正直/現実」があり、他方に「見知らぬ正直/現実が待っている真実」があるのだが、それは「知っている正直・現実/見知らぬ正直・現実が待っている真実」という形に書き直すこともできるかもしれない。--こんなふうに書き直すことを「考える」というのかもしれない。
 書き直し、考えながら、どうするのか。「待つ」のである。「ていねいに/待つ」のである。魂は躰を負いながら動く(働く)のであるが、それは「待つ」ことなのだ。「動く(働く)」と「待つ」は、矛盾してみえるが、矛盾しているからこそ、それが「思想」なのである。
 「考える」という行為のなかに「矛盾」があり、その「矛盾」のなかでこそ、躰と魂は出会い、その出会いだけが別の出会いと出会えるのだ。
 そういうことを小島は書こうとしているだと思う。

 でも、そういうことって何? 小島の「思考」はそれでは、どこへ行くのか。どこへ到達するのか--そう問い返されたとき、「答え」はいままで書いてきたことばのなかへ引き返す形でしか語れない。
 「見知らぬ正直」へ行くのだ。「ていねい」に「待つ」のだ。「ていねい」に「待つ」ことが、つまり現実の躰を「いま」「ここ」において、魂で背負った躰を「いま」「ここ」ではないところへ動かし、そのことを「思考」するのだ。「思考」したことをことばにし、それを書き留めるのだ。
 ことばと思考の一致、としての詩がここから生まれる。



 北川朱実「空の匂い」は「思考派」の詩人ではない--と書くと、「私も思考します」と叱られるかもしれないが……。
 小島の詩のなかにでてきたことばを借用して言えば、北川は「出会い派」の詩人である。「思考派」の詩人たちは自分の考えをしっかりと維持してことばを動かしていく。自分のことばを積み重ねる。だから、それはしばしば同じことばを何度もくりかえす。同じことばと書いたが、実は、見かけが同じだけで「意味」の詳細では違っていることばをくりかえす。小島の作品に「現実のための現実は」という1行があったが、先にでてきた「現実」と次の「現実」の差異(ずれ)は、小島の肉体にからみついていて、それを分離した状態で説明することはできない。(言いなおすと、数行を引用し、分析することでは明確にはできない。彼女の全作品を分析しないと、差異は明確にできない。)

 北川が「出会い派」というのは「空の匂い」という作品の読むだけでもわかる。友人がアマゾンへ旅行に行った。そして、その旅行先から電話をかけてくる。

--あ、聞こえる? アカホエザルよ
  ああ、もりじゅうに響いて、
  空気がビリビリ震えて、

突然電話が切れ
プラチナのような声が
明け方の空に貼りついたままだ

遠く
今からでも急がねばならない場所が
私にもあった気がする

 他者のことばによって、北川がめざめる。ことばにならないものがめざめる。それは「気がする」というぼんやりした形で動きだすが、この「ぼんやり」としたスタートに、小島のいう「正直」がある。
 ことばはいつでも後からやってくる。それを待って、そのことばについて行く。北川はいつでも、どこかからかやってくることばに「肉体」をあずけ、それから「肉体」のなかでめざめたことばが動きだすのを待っている。
 こういうことばの動かし方は、糸井や細見、小島のことばの動かし方からすると「他人まかせ」のようにみえるかもしれないけれど、自分はどうなってもいいというような覚悟があって、私は好きである。誰かを好きになる。愛する。それは、その人についていくことで自分がどんなふうに変わろうとも平気であると覚悟することである。
 「空の匂い」という詩に強引にあてはめていうと、友人がアマゾンからどんな電話をかけてこようが、そんなことは関係ないはずなのだが(関係ないと考えることができるはずなのだが)、北川は「関係ない」とは言わない。電話をかけてきた、そしてそこで何かを語った--その一瞬の出会い、そこから自分はどう変われるか、それを追うようにしてことばを動かすのだ。この一瞬から、北川はどこへ動いていくのか。どこへ行ったっていい。どこへ行ったって、そこへ行くしかない。一期一会を北川は生きるのである。それは、ある意味で「思考」を捨てることかもしれない。自分が自分であると定義してくれる「思考」を捨て、生まれ変わることかもしれない。
 北川の詩には、生まれ変わることにかけた詩人の伸びやかさがある。自由がある。







 今月のお薦め。
1 永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』
2 糸井茂莉「夜。括弧(  )、のために」
3 粒来哲蔵「鳰」

詩集 等身境
小島 数子
思潮社

人のかたち鳥のかたち
北川 朱実
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マーティン・スコセッシ監督「タクシードライバー」(★★★★)

2011-04-30 20:42:19 | 午前十時の映画祭
監督 マーティン・スコセッシ  出演 ロバート・デ・ニーロ、ジョディ・フォスター

 映画の始まりがとても好きだ。地下鉄の蒸気がスクリーンを覆っている。その奥から黄色いタクシーがぬーっとあらわれる。その、ゆっくりしたスピードがおもしろい。目的地があるのではなく、また走るというのでもなく、時間をつぶす――という感じの無意味さ、無為の感じが、えっ、ニューヨークってこんな虚無にみちた街、と驚かされる。雨、雨にぬれた光があらゆるものにこびり着き、眠らない街を印象付ける。ただし眠らないといっても、活気にみちているというのではなく、疲れて眠れない――ロバート・デ・ニーロが演じる主人公そのままに、何もすることがなくて不眠症、しかたなく起きている、という感じが不気味である。ときどきみせる人なつっこい笑顔が、べたあっと肌にからみついてくる。あ、孤独で、人に餓えているのだ。
 眠れない男、何もすることがない男がニューヨークで見るのは、何もすることがなくて、それでも起きていて、時間つぶしにうごめく人々である。売春、ドラッグの売人、気弱な人間はポルノ映画館に逃げ込んでいる。汚れた人々。雨のなか、タクシーを走らせながら、この汚れをすべて洗い流す雨が降ればいいのに、と思っている。そういう男が副大統領の選挙ボランティアの女性を「はきだめの鶴」のように感じ、ひと目ぼれし、振られ、復讐として副大統領を暗殺しようとし、失敗し・・・と、ちょっとイージーなストーリーの果てに、ジョディ・フォスターが演じる売春の少女を組織から救い出そうとする。あ、なんだかいやあなストーリー。
でも、この当時のジョディ・フォスターは歯の矯正がまだすんでいなくて、前歯がすいている。醜いところが残っているのだが、それがリアリティになっている。演技というより、ふとみせるしぐさ、こんなことをしたって・・・という感じの表情がすばらしい。映画に対する変な怒りが感じられる。それはやっている少女売春婦という存在に対する怒りかもしれないが、それが彼女を清潔にしている。こういう表情をできる役者は好きだなあ。「人間の地」が美しい。 
 ロバート・デ・ニーロが銃に目覚めていくシーンもひきつけられる。ホルダーを改良し、使い心地を試すところなんか、いいなあ。銃という凶器に、男の狂気が重なってゆく。副大統領候補を暗殺して、デ・ニーロを振った女の目を引きつける。引き付けたい。あるいはジョディ・フォスターを悪から救いたい――あ、この二つ、まったく逆方向の動きだねえ。暗殺は完全な悪、少女救出は善意。正反対のものが、矛盾せずにデ・ニーロの「肉体」のなかで結びついている。だから、狂気なんだなあ。細い体が、ストイックな肉体鍛錬でさらに細くなっていくところが、むき出しの精神をみるようで、ちょっとぞくぞくする。
警官に囲まれ、自分の指で頭を撃ち抜くポーズをとるところも好きだなあ。ポーズだけではなく、口で音にならない音を出すふりをするところがいい。デ・ニーロがやったことは、どんなに現実と交渉があっても「ふり」なのだ。デ・ニーロの頭のなかで完結した世界なのだ。知っていて、にたーっと笑う。その笑顔が悲しい。ジョディ・フォスターの「地」と同じく美しい・
そして、その頭のなかの完結と、現実は、結局は分離する。ジョディ・フォスターの両親はデ・ニーロに感謝の手紙はよこすが、直接は会わない。デ・ニーロを振った女はデ・ニーロのタクシーに乗るが、それだけ。後者は、デ・ニーロの方が近づいて行かないのだけれど。
――でも、この部分が説明的すぎるし、センチメンタルでいやだなあ。指鉄砲で「ぽふっ、ぽふっ」とやっているところで終われば傑作なのになあと思う。冒頭の地下鉄の蒸気、そこからあらわれるタクシーのボディーがどうすることもできない「現実」だったのに、最後のバックミラーにうつる世界、窓越しに見える滲んだ光はセンチメンタルな「孤独」という夢想になってしまった。「孤独」を描いているうちに、「孤独」によごれてしまった。
(「午前十時の映画祭」青シリーズ13本目、天神東宝6)

タクシードライバー 製作35周年記念 HDデジタル・リマスター版 ブルーレイ・コレクターズ・エディション 【初回生産限定】 [Blu-ray]
クリエーター情報なし
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする