小島数子「見知らぬ正直さ」、北川朱実「空の匂い」(「庭園 アンソロジー2011」、2011年04月22日発行)
詩人は、ことばを何の力で動かすか。細見和之は「思考」の力で動かす。彼の思考は「具体」と「抽象」を往復することで「正確」になっていく。そして、その「正確」を基盤にして「感情」をみつけだす。
28日に読んだ糸井茂莉も「思考」派の詩人だろう。ただし、糸井は「具象」と「抽象」を往復しない。糸井は「音」(声)を掘り起こす。
細見が「脳髄」の詩人なら、糸井は「耳」の詩人である。
小島数子はどうだろう。小島の詩も、ことばが「思考」の力で動かされているのを感じる。ずいぶん抽象的なことがら、抽象的な思考を強いる運動をする。
「見知らぬ正直さ」の1連目。
「感じる」ではなく「考える」が小島の基本的な姿勢である。小島は、人間を「躰」と「魂」との「二元論」でとらえている。そして、その関係は魂が躰を「負う」である。つまり魂の上に躰がある。だから、躰が動くのではなく、魂が躰をどこかへ運んでいくのである。躰は、ずぼら(?)を決め込んで動かない。これは、変な言い方になるが、魂が「肉体」をもって、「肉体」である「躰」をどこかへ動かす、運んでゆくということである。位置的には魂は躰の下にあるのだが、躰の自由(どこへゆくか、どんな動きをするか)は魂にまかせられている。
(細見の場合、「思考」が肉体を動かしているといえるが、それは「負う(背負う)」という関係ではなく、「思考」を「脳髄」と呼ぶことで、肉体そのものになり、肉体の内部から肉体を動かすことになる。--「思考」というのはどこにあるかわからないが、「脳髄」は肉体の内部にあることは、解剖学的に「定義」されている。糸井の場合は、「思考」はどこにあるかわからないが、「音」とともにある。そして、その「音」をとらえる肉体器官は「耳」であり、発生器官は「のど」や「口」であり、「思考」は「音」になる。一方、細見の「思考」はまず「文字」になる。あるいは「/」というような「記号」になる。「/」は細見が「音」を基本に「思考」を動かしていない証拠でもある。あ、脱線した……。)
小島の魂は躰を動かす。でも、どんなふうに動かすかは小島は書いていない。どんなふうに動かすかは書いていないが、なぜ、あるいは、どこへ動かすかは決まっているようだ。
ここにはふたつのことが書かれている。「見知らぬ」と「正直さ」である。そして、このことばは小島は、それとは別に「正直」を知っているということを語る。「知っている正直」がある。その一方で「見知らぬ正直」というものがある。
「知っている正直」とは何か。魂である。小島の魂は正直である。それを小島は知っている。そして、それだけでは満足せずに、小島の知らない「正直」というものがどこかにあるはずだ、どこかで誰かの躰を動かしているはずだと考え、その方向へ動こうとしている。
この2行は、「見知らぬ正直」と「正直」の関係を、パラレルに書いたものである。反復したのもである。細見なら「見知らぬ正直/現実が待っている真実」と書くかもしれない。「知っている正直/現実」があり、他方に「見知らぬ正直/現実が待っている真実」があるのだが、それは「知っている正直・現実/見知らぬ正直・現実が待っている真実」という形に書き直すこともできるかもしれない。--こんなふうに書き直すことを「考える」というのかもしれない。
書き直し、考えながら、どうするのか。「待つ」のである。「ていねいに/待つ」のである。魂は躰を負いながら動く(働く)のであるが、それは「待つ」ことなのだ。「動く(働く)」と「待つ」は、矛盾してみえるが、矛盾しているからこそ、それが「思想」なのである。
「考える」という行為のなかに「矛盾」があり、その「矛盾」のなかでこそ、躰と魂は出会い、その出会いだけが別の出会いと出会えるのだ。
そういうことを小島は書こうとしているだと思う。
でも、そういうことって何? 小島の「思考」はそれでは、どこへ行くのか。どこへ到達するのか--そう問い返されたとき、「答え」はいままで書いてきたことばのなかへ引き返す形でしか語れない。
「見知らぬ正直」へ行くのだ。「ていねい」に「待つ」のだ。「ていねい」に「待つ」ことが、つまり現実の躰を「いま」「ここ」において、魂で背負った躰を「いま」「ここ」ではないところへ動かし、そのことを「思考」するのだ。「思考」したことをことばにし、それを書き留めるのだ。
ことばと思考の一致、としての詩がここから生まれる。
*
北川朱実「空の匂い」は「思考派」の詩人ではない--と書くと、「私も思考します」と叱られるかもしれないが……。
小島の詩のなかにでてきたことばを借用して言えば、北川は「出会い派」の詩人である。「思考派」の詩人たちは自分の考えをしっかりと維持してことばを動かしていく。自分のことばを積み重ねる。だから、それはしばしば同じことばを何度もくりかえす。同じことばと書いたが、実は、見かけが同じだけで「意味」の詳細では違っていることばをくりかえす。小島の作品に「現実のための現実は」という1行があったが、先にでてきた「現実」と次の「現実」の差異(ずれ)は、小島の肉体にからみついていて、それを分離した状態で説明することはできない。(言いなおすと、数行を引用し、分析することでは明確にはできない。彼女の全作品を分析しないと、差異は明確にできない。)
北川が「出会い派」というのは「空の匂い」という作品の読むだけでもわかる。友人がアマゾンへ旅行に行った。そして、その旅行先から電話をかけてくる。
他者のことばによって、北川がめざめる。ことばにならないものがめざめる。それは「気がする」というぼんやりした形で動きだすが、この「ぼんやり」としたスタートに、小島のいう「正直」がある。
ことばはいつでも後からやってくる。それを待って、そのことばについて行く。北川はいつでも、どこかからかやってくることばに「肉体」をあずけ、それから「肉体」のなかでめざめたことばが動きだすのを待っている。
こういうことばの動かし方は、糸井や細見、小島のことばの動かし方からすると「他人まかせ」のようにみえるかもしれないけれど、自分はどうなってもいいというような覚悟があって、私は好きである。誰かを好きになる。愛する。それは、その人についていくことで自分がどんなふうに変わろうとも平気であると覚悟することである。
「空の匂い」という詩に強引にあてはめていうと、友人がアマゾンからどんな電話をかけてこようが、そんなことは関係ないはずなのだが(関係ないと考えることができるはずなのだが)、北川は「関係ない」とは言わない。電話をかけてきた、そしてそこで何かを語った--その一瞬の出会い、そこから自分はどう変われるか、それを追うようにしてことばを動かすのだ。この一瞬から、北川はどこへ動いていくのか。どこへ行ったっていい。どこへ行ったって、そこへ行くしかない。一期一会を北川は生きるのである。それは、ある意味で「思考」を捨てることかもしれない。自分が自分であると定義してくれる「思考」を捨て、生まれ変わることかもしれない。
北川の詩には、生まれ変わることにかけた詩人の伸びやかさがある。自由がある。
*
今月のお薦め。
1 永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』
2 糸井茂莉「夜。括弧( )、のために」
3 粒来哲蔵「鳰」
詩人は、ことばを何の力で動かすか。細見和之は「思考」の力で動かす。彼の思考は「具体」と「抽象」を往復することで「正確」になっていく。そして、その「正確」を基盤にして「感情」をみつけだす。
28日に読んだ糸井茂莉も「思考」派の詩人だろう。ただし、糸井は「具象」と「抽象」を往復しない。糸井は「音」(声)を掘り起こす。
細見が「脳髄」の詩人なら、糸井は「耳」の詩人である。
小島数子はどうだろう。小島の詩も、ことばが「思考」の力で動かされているのを感じる。ずいぶん抽象的なことがら、抽象的な思考を強いる運動をする。
「見知らぬ正直さ」の1連目。
躰を負う魂は
若々しく働き
見知らぬ正直さに出会おうとする
現実のための現実は
ていねいに真実を待とうとする
そんなことを考えながら
ひとりで歩いた
「感じる」ではなく「考える」が小島の基本的な姿勢である。小島は、人間を「躰」と「魂」との「二元論」でとらえている。そして、その関係は魂が躰を「負う」である。つまり魂の上に躰がある。だから、躰が動くのではなく、魂が躰をどこかへ運んでいくのである。躰は、ずぼら(?)を決め込んで動かない。これは、変な言い方になるが、魂が「肉体」をもって、「肉体」である「躰」をどこかへ動かす、運んでゆくということである。位置的には魂は躰の下にあるのだが、躰の自由(どこへゆくか、どんな動きをするか)は魂にまかせられている。
(細見の場合、「思考」が肉体を動かしているといえるが、それは「負う(背負う)」という関係ではなく、「思考」を「脳髄」と呼ぶことで、肉体そのものになり、肉体の内部から肉体を動かすことになる。--「思考」というのはどこにあるかわからないが、「脳髄」は肉体の内部にあることは、解剖学的に「定義」されている。糸井の場合は、「思考」はどこにあるかわからないが、「音」とともにある。そして、その「音」をとらえる肉体器官は「耳」であり、発生器官は「のど」や「口」であり、「思考」は「音」になる。一方、細見の「思考」はまず「文字」になる。あるいは「/」というような「記号」になる。「/」は細見が「音」を基本に「思考」を動かしていない証拠でもある。あ、脱線した……。)
小島の魂は躰を動かす。でも、どんなふうに動かすかは小島は書いていない。どんなふうに動かすかは書いていないが、なぜ、あるいは、どこへ動かすかは決まっているようだ。
見知らぬ正直さに出会おうとする
ここにはふたつのことが書かれている。「見知らぬ」と「正直さ」である。そして、このことばは小島は、それとは別に「正直」を知っているということを語る。「知っている正直」がある。その一方で「見知らぬ正直」というものがある。
「知っている正直」とは何か。魂である。小島の魂は正直である。それを小島は知っている。そして、それだけでは満足せずに、小島の知らない「正直」というものがどこかにあるはずだ、どこかで誰かの躰を動かしているはずだと考え、その方向へ動こうとしている。
現実のための現実は
ていねいに真実を待とうとする
この2行は、「見知らぬ正直」と「正直」の関係を、パラレルに書いたものである。反復したのもである。細見なら「見知らぬ正直/現実が待っている真実」と書くかもしれない。「知っている正直/現実」があり、他方に「見知らぬ正直/現実が待っている真実」があるのだが、それは「知っている正直・現実/見知らぬ正直・現実が待っている真実」という形に書き直すこともできるかもしれない。--こんなふうに書き直すことを「考える」というのかもしれない。
書き直し、考えながら、どうするのか。「待つ」のである。「ていねいに/待つ」のである。魂は躰を負いながら動く(働く)のであるが、それは「待つ」ことなのだ。「動く(働く)」と「待つ」は、矛盾してみえるが、矛盾しているからこそ、それが「思想」なのである。
「考える」という行為のなかに「矛盾」があり、その「矛盾」のなかでこそ、躰と魂は出会い、その出会いだけが別の出会いと出会えるのだ。
そういうことを小島は書こうとしているだと思う。
でも、そういうことって何? 小島の「思考」はそれでは、どこへ行くのか。どこへ到達するのか--そう問い返されたとき、「答え」はいままで書いてきたことばのなかへ引き返す形でしか語れない。
「見知らぬ正直」へ行くのだ。「ていねい」に「待つ」のだ。「ていねい」に「待つ」ことが、つまり現実の躰を「いま」「ここ」において、魂で背負った躰を「いま」「ここ」ではないところへ動かし、そのことを「思考」するのだ。「思考」したことをことばにし、それを書き留めるのだ。
ことばと思考の一致、としての詩がここから生まれる。
*
北川朱実「空の匂い」は「思考派」の詩人ではない--と書くと、「私も思考します」と叱られるかもしれないが……。
小島の詩のなかにでてきたことばを借用して言えば、北川は「出会い派」の詩人である。「思考派」の詩人たちは自分の考えをしっかりと維持してことばを動かしていく。自分のことばを積み重ねる。だから、それはしばしば同じことばを何度もくりかえす。同じことばと書いたが、実は、見かけが同じだけで「意味」の詳細では違っていることばをくりかえす。小島の作品に「現実のための現実は」という1行があったが、先にでてきた「現実」と次の「現実」の差異(ずれ)は、小島の肉体にからみついていて、それを分離した状態で説明することはできない。(言いなおすと、数行を引用し、分析することでは明確にはできない。彼女の全作品を分析しないと、差異は明確にできない。)
北川が「出会い派」というのは「空の匂い」という作品の読むだけでもわかる。友人がアマゾンへ旅行に行った。そして、その旅行先から電話をかけてくる。
--あ、聞こえる? アカホエザルよ
ああ、もりじゅうに響いて、
空気がビリビリ震えて、
突然電話が切れ
プラチナのような声が
明け方の空に貼りついたままだ
遠く
今からでも急がねばならない場所が
私にもあった気がする
他者のことばによって、北川がめざめる。ことばにならないものがめざめる。それは「気がする」というぼんやりした形で動きだすが、この「ぼんやり」としたスタートに、小島のいう「正直」がある。
ことばはいつでも後からやってくる。それを待って、そのことばについて行く。北川はいつでも、どこかからかやってくることばに「肉体」をあずけ、それから「肉体」のなかでめざめたことばが動きだすのを待っている。
こういうことばの動かし方は、糸井や細見、小島のことばの動かし方からすると「他人まかせ」のようにみえるかもしれないけれど、自分はどうなってもいいというような覚悟があって、私は好きである。誰かを好きになる。愛する。それは、その人についていくことで自分がどんなふうに変わろうとも平気であると覚悟することである。
「空の匂い」という詩に強引にあてはめていうと、友人がアマゾンからどんな電話をかけてこようが、そんなことは関係ないはずなのだが(関係ないと考えることができるはずなのだが)、北川は「関係ない」とは言わない。電話をかけてきた、そしてそこで何かを語った--その一瞬の出会い、そこから自分はどう変われるか、それを追うようにしてことばを動かすのだ。この一瞬から、北川はどこへ動いていくのか。どこへ行ったっていい。どこへ行ったって、そこへ行くしかない。一期一会を北川は生きるのである。それは、ある意味で「思考」を捨てることかもしれない。自分が自分であると定義してくれる「思考」を捨て、生まれ変わることかもしれない。
北川の詩には、生まれ変わることにかけた詩人の伸びやかさがある。自由がある。
*
今月のお薦め。
1 永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』
2 糸井茂莉「夜。括弧( )、のために」
3 粒来哲蔵「鳰」
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