榎本櫻湖「どくだみ健康チャンネル」(「おもちゃ箱の午後」創刊号、2011年03月20日発行)
榎本櫻湖「どくだみ健康チャンネル」。ことばはどこまでストーリーを逸脱できるか。そのことを楽しんでいる。
あ、これは、どこまで行っても終わらない。実際、最後まで句点「。」は登場しないのだが、それは榎本が意図して終わらせないのだ。ことばがストーリーに収斂していくことを拒絶して、どこまでもどこまでも逸脱していくことを狙っているのだ。
そして、このとき、とてもおもしろいことが起きる。
榎本はことばの逸脱する力、逸脱するよろこびを肉体のなかに取りこもうとしているのだが、その「逸脱」には「ある法則」のようなものがある。「逸脱」は簡単にはおこなわれないのである。「逸脱」とはまったく反対のものを浮かび上がらせるのである。
「ジャスミン茶のプールにイルカが歌いながら泳いでいる、という光景の」の「という」ということば。
「逸脱」とは、それ以前のことがらを「肯定」して、そののちに始めて起きる。だれの場合でもそうであるとは言えないけれど、榎本は、前のことばを肯定し、前のことばを実際に存在する「世界」であると仮定し、そののちに逸脱する。「逸脱」は「否定」ではなく、「肯定」なのである。
逸脱とは、先へ進む(未来へ進む)ということと同時に、過去を確立し、同時に捨てることなのだ。過去を確立しないことには捨てられない。
逸脱とは、矛盾した粘着力のことでもある。(あ、変な表現だねえ。)
それは、いま引用した部分ではわかりにくいかもしれないが、次の部分ではっきりする。「逸脱」は「未来」へ飛び出すように見えるが、実際は、ことばのもっている粘着力によって「未来」へ突き進むのではなく、逆に「過去」へ「過去」へと引きずり込まれるのだ。
「それらの」「その」「その」「それを」「そうした」「それは」。こうしたことばはすべて「前述」したことがらを指している。「前述」のことがらを、そうやって「粘着」させながら、「前述」のことばから「逸脱」していくことを榎本は書いている。
でも、これって逸脱じゃないでしょ?
「逸脱」を「いま」「ここ」からどこかへ行ってしまうこと、本来のすすむべきところとは違うところへ行ってしまうことと定義するなら、榎本の書いているは「逸脱」ではないことになる。
では、なにか。
「過去」への回帰である。「過去」を確立しながら、それを捨て去る。「過去」とは無縁の、そして「いま」とも無縁のことばの運動のなかへ自己を解放しようとするのだが、そうすればそうするほど、「逸脱」ではなく、「過去」が増殖していく。「過去」がからみあって、榎本のことばをことばの重力のなかへ引きこまれる。
実際、ことばの重力、ことばのブラックホールからのがれることは、ことばにはできないことなのかもしれない。だからこそ、その重力から逸脱したいという欲望も生まれる。
で、こういうことばの重力からの逸脱の冒険のとき、何が見えてくるか。--と、私は、かなり強引に「論理」を飛躍させる。(「論理」と呼べるものが私の文章にあると仮定してのことだが……。)
ことばの重力からの逸脱の冒険のとき、何が見えてくるか。そのことばの「肉体」が見えてくる。
榎本の書いていることはストーリーからの逸脱なのだから、そこに書いてあることは、どんなに工夫してみても「要約」できない。何が書いてあったのか、その「意味」を語ることはできない。「無意味」しかない。
それでも、榎本の書いていることばが「わかる」。読めてしまう。これは、どういうことなのか。「ことば」が「肉体」として、私の「肉体」に触れてくるのだ。
ジャスミン茶。水。プール。水。イルカ。榎本は「水」ということばを書いていないが、書かれていない「水」がそこには存在する。その書かれていないけれど、意識の粘着力が呼び寄せしてしまうものを「ことばの過去、ことばの時間」と呼べば、そこには「ことばの過去」がある。榎本のことばは「ことばの過去」をしっかり守って動いている。「イルカ」と「歌」、「イルカ」と「泳ぐ」も同じである。榎本のことばが、どんなことばといっしょに生きてきたかが、「肉体」のありようのように、触れてくる。
ひとが路傍で腹を抱えてうずくまっているとき、あ、このひとは腹が痛いのだ、と自分の「肉体」の痛みでもないのにわかってしまう。私の「肉体」が反応してしまう。
それと同じように、榎本のことばにふれると、私のことばの「肉体」が榎本の「ことばの肉体」と共鳴してしまう。共振してしまう。
わかってしまう。
こういう共鳴、共振運動(作用?)のとき、重要な「働き」をするのが「音」である。(これは、私の持論、自論?)。音が不自然だと、というか、聴いたことがない音だと、私の場合、反応できない。「ことばの肉体」を感じることができない。「暢気な塩梅」というような、古くさい音もあるのだが、「ジャスミン茶のプール」というとても美しい音からこの詩が始まっているのは、それだけで、もう引きこまれてしまうのだ。
「分裂」「結合」「映像」「角膜」「鱗粉」「錯覚」「点滅」「記号」「残像」「眼底」ということばの「音」と、そのことばが抱え込んでいる「過去(時間)」の旋律を、私はなじみのあるものとして感じてしまうのだ。
あ、とりとめもないことを書いてしまったなあ。
榎本櫻湖「どくだみ健康チャンネル」。ことばはどこまでストーリーを逸脱できるか。そのことを楽しんでいる。
ジャスミン茶のプールにイルカが歌いながら泳いでいる、という光景の暢気な塩梅に顕微鏡を近づけて、割れてしまったカヴァー・ガラスの戒名を呟きながら漫ろ歩いた雑木林での爽やかな嘘をそっと記述する初老の男の背中に、みたこともない微生物が分裂したり結合したりするのをどこからか覗いているような心持ちにさせる映像、というより角膜に貼りついたイマージュがひらひらはためいて、少しずつ漂う鱗粉に紛れて梅の香りが鼻さきをくすぐるような錯覚が珈琲を煎る匂いにまじっていて、蛍光灯の点滅にさまざまな記号の残像が眼底をヒラメのように這い、野良猫が裏庭でツグミかなにかを追いかけているのが想像できるくらいには鮮明な頭のなかには、たぶんめずらかな南国産の蛾が数えきれないくらい詰まっているのが実感としてあるような気がして、
あ、これは、どこまで行っても終わらない。実際、最後まで句点「。」は登場しないのだが、それは榎本が意図して終わらせないのだ。ことばがストーリーに収斂していくことを拒絶して、どこまでもどこまでも逸脱していくことを狙っているのだ。
そして、このとき、とてもおもしろいことが起きる。
榎本はことばの逸脱する力、逸脱するよろこびを肉体のなかに取りこもうとしているのだが、その「逸脱」には「ある法則」のようなものがある。「逸脱」は簡単にはおこなわれないのである。「逸脱」とはまったく反対のものを浮かび上がらせるのである。
「ジャスミン茶のプールにイルカが歌いながら泳いでいる、という光景の」の「という」ということば。
「逸脱」とは、それ以前のことがらを「肯定」して、そののちに始めて起きる。だれの場合でもそうであるとは言えないけれど、榎本は、前のことばを肯定し、前のことばを実際に存在する「世界」であると仮定し、そののちに逸脱する。「逸脱」は「否定」ではなく、「肯定」なのである。
逸脱とは、先へ進む(未来へ進む)ということと同時に、過去を確立し、同時に捨てることなのだ。過去を確立しないことには捨てられない。
逸脱とは、矛盾した粘着力のことでもある。(あ、変な表現だねえ。)
それは、いま引用した部分ではわかりにくいかもしれないが、次の部分ではっきりする。「逸脱」は「未来」へ飛び出すように見えるが、実際は、ことばのもっている粘着力によって「未来」へ突き進むのではなく、逆に「過去」へ「過去」へと引きずり込まれるのだ。
それらの羽搏きの耳障りな音が砂に埋もれた細かな金属をひきつけ、その瞬間遠くの行ったことのない惑星に繁茂する奇怪な羊歯植物から棚引く煙のような胞子の群れを連想させ、そのひとつが別の惑星の水溜まりにはらりと落ちて、未知の水棲植物のうちのどれかを受粉させる生命力の強さに感嘆しながら、ふと水際で虹色の鹿が一頭、あきらかに神秘的な装いで佇んでいて、それを目撃するものにこれが夢であることにはやく気づきなさい、と諭すような、達観しているような朧げな印象を与えるものだから、そうした欺瞞のただなかをたゆたうクラゲのような知的生命体からいくつかのメッセージを受信しようとするとき、それは果たしてどのような言語で、どのような方法で、そしてそれを書き残すための鉛筆や紙は豊富に用意されているのか、
「それらの」「その」「その」「それを」「そうした」「それは」。こうしたことばはすべて「前述」したことがらを指している。「前述」のことがらを、そうやって「粘着」させながら、「前述」のことばから「逸脱」していくことを榎本は書いている。
でも、これって逸脱じゃないでしょ?
「逸脱」を「いま」「ここ」からどこかへ行ってしまうこと、本来のすすむべきところとは違うところへ行ってしまうことと定義するなら、榎本の書いているは「逸脱」ではないことになる。
では、なにか。
「過去」への回帰である。「過去」を確立しながら、それを捨て去る。「過去」とは無縁の、そして「いま」とも無縁のことばの運動のなかへ自己を解放しようとするのだが、そうすればそうするほど、「逸脱」ではなく、「過去」が増殖していく。「過去」がからみあって、榎本のことばをことばの重力のなかへ引きこまれる。
実際、ことばの重力、ことばのブラックホールからのがれることは、ことばにはできないことなのかもしれない。だからこそ、その重力から逸脱したいという欲望も生まれる。
で、こういうことばの重力からの逸脱の冒険のとき、何が見えてくるか。--と、私は、かなり強引に「論理」を飛躍させる。(「論理」と呼べるものが私の文章にあると仮定してのことだが……。)
ことばの重力からの逸脱の冒険のとき、何が見えてくるか。そのことばの「肉体」が見えてくる。
榎本の書いていることはストーリーからの逸脱なのだから、そこに書いてあることは、どんなに工夫してみても「要約」できない。何が書いてあったのか、その「意味」を語ることはできない。「無意味」しかない。
それでも、榎本の書いていることばが「わかる」。読めてしまう。これは、どういうことなのか。「ことば」が「肉体」として、私の「肉体」に触れてくるのだ。
ジャスミン茶のプールにイルカが歌いながら泳いでいる、
ジャスミン茶。水。プール。水。イルカ。榎本は「水」ということばを書いていないが、書かれていない「水」がそこには存在する。その書かれていないけれど、意識の粘着力が呼び寄せしてしまうものを「ことばの過去、ことばの時間」と呼べば、そこには「ことばの過去」がある。榎本のことばは「ことばの過去」をしっかり守って動いている。「イルカ」と「歌」、「イルカ」と「泳ぐ」も同じである。榎本のことばが、どんなことばといっしょに生きてきたかが、「肉体」のありようのように、触れてくる。
ひとが路傍で腹を抱えてうずくまっているとき、あ、このひとは腹が痛いのだ、と自分の「肉体」の痛みでもないのにわかってしまう。私の「肉体」が反応してしまう。
それと同じように、榎本のことばにふれると、私のことばの「肉体」が榎本の「ことばの肉体」と共鳴してしまう。共振してしまう。
わかってしまう。
こういう共鳴、共振運動(作用?)のとき、重要な「働き」をするのが「音」である。(これは、私の持論、自論?)。音が不自然だと、というか、聴いたことがない音だと、私の場合、反応できない。「ことばの肉体」を感じることができない。「暢気な塩梅」というような、古くさい音もあるのだが、「ジャスミン茶のプール」というとても美しい音からこの詩が始まっているのは、それだけで、もう引きこまれてしまうのだ。
「分裂」「結合」「映像」「角膜」「鱗粉」「錯覚」「点滅」「記号」「残像」「眼底」ということばの「音」と、そのことばが抱え込んでいる「過去(時間)」の旋律を、私はなじみのあるものとして感じてしまうのだ。
あ、とりとめもないことを書いてしまったなあ。