詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

榎本櫻湖「どくだみ健康チャンネル」

2011-04-04 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
榎本櫻湖「どくだみ健康チャンネル」(「おもちゃ箱の午後」創刊号、2011年03月20日発行)

 榎本櫻湖「どくだみ健康チャンネル」。ことばはどこまでストーリーを逸脱できるか。そのことを楽しんでいる。

ジャスミン茶のプールにイルカが歌いながら泳いでいる、という光景の暢気な塩梅に顕微鏡を近づけて、割れてしまったカヴァー・ガラスの戒名を呟きながら漫ろ歩いた雑木林での爽やかな嘘をそっと記述する初老の男の背中に、みたこともない微生物が分裂したり結合したりするのをどこからか覗いているような心持ちにさせる映像、というより角膜に貼りついたイマージュがひらひらはためいて、少しずつ漂う鱗粉に紛れて梅の香りが鼻さきをくすぐるような錯覚が珈琲を煎る匂いにまじっていて、蛍光灯の点滅にさまざまな記号の残像が眼底をヒラメのように這い、野良猫が裏庭でツグミかなにかを追いかけているのが想像できるくらいには鮮明な頭のなかには、たぶんめずらかな南国産の蛾が数えきれないくらい詰まっているのが実感としてあるような気がして、

 あ、これは、どこまで行っても終わらない。実際、最後まで句点「。」は登場しないのだが、それは榎本が意図して終わらせないのだ。ことばがストーリーに収斂していくことを拒絶して、どこまでもどこまでも逸脱していくことを狙っているのだ。
 そして、このとき、とてもおもしろいことが起きる。
 榎本はことばの逸脱する力、逸脱するよろこびを肉体のなかに取りこもうとしているのだが、その「逸脱」には「ある法則」のようなものがある。「逸脱」は簡単にはおこなわれないのである。「逸脱」とはまったく反対のものを浮かび上がらせるのである。

 「ジャスミン茶のプールにイルカが歌いながら泳いでいる、という光景の」の「という」ということば。
 「逸脱」とは、それ以前のことがらを「肯定」して、そののちに始めて起きる。だれの場合でもそうであるとは言えないけれど、榎本は、前のことばを肯定し、前のことばを実際に存在する「世界」であると仮定し、そののちに逸脱する。「逸脱」は「否定」ではなく、「肯定」なのである。
 逸脱とは、先へ進む(未来へ進む)ということと同時に、過去を確立し、同時に捨てることなのだ。過去を確立しないことには捨てられない。
 逸脱とは、矛盾した粘着力のことでもある。(あ、変な表現だねえ。)
 それは、いま引用した部分ではわかりにくいかもしれないが、次の部分ではっきりする。「逸脱」は「未来」へ飛び出すように見えるが、実際は、ことばのもっている粘着力によって「未来」へ突き進むのではなく、逆に「過去」へ「過去」へと引きずり込まれるのだ。

                           それらの羽搏きの耳障りな音が砂に埋もれた細かな金属をひきつけ、その瞬間遠くの行ったことのない惑星に繁茂する奇怪な羊歯植物から棚引く煙のような胞子の群れを連想させ、そのひとつが別の惑星の水溜まりにはらりと落ちて、未知の水棲植物のうちのどれかを受粉させる生命力の強さに感嘆しながら、ふと水際で虹色の鹿が一頭、あきらかに神秘的な装いで佇んでいて、それを目撃するものにこれが夢であることにはやく気づきなさい、と諭すような、達観しているような朧げな印象を与えるものだから、そうした欺瞞のただなかをたゆたうクラゲのような知的生命体からいくつかのメッセージを受信しようとするとき、それは果たしてどのような言語で、どのような方法で、そしてそれを書き残すための鉛筆や紙は豊富に用意されているのか、

 「それらの」「その」「その」「それを」「そうした」「それは」。こうしたことばはすべて「前述」したことがらを指している。「前述」のことがらを、そうやって「粘着」させながら、「前述」のことばから「逸脱」していくことを榎本は書いている。
 でも、これって逸脱じゃないでしょ?
 「逸脱」を「いま」「ここ」からどこかへ行ってしまうこと、本来のすすむべきところとは違うところへ行ってしまうことと定義するなら、榎本の書いているは「逸脱」ではないことになる。
 では、なにか。
 「過去」への回帰である。「過去」を確立しながら、それを捨て去る。「過去」とは無縁の、そして「いま」とも無縁のことばの運動のなかへ自己を解放しようとするのだが、そうすればそうするほど、「逸脱」ではなく、「過去」が増殖していく。「過去」がからみあって、榎本のことばをことばの重力のなかへ引きこまれる。
 実際、ことばの重力、ことばのブラックホールからのがれることは、ことばにはできないことなのかもしれない。だからこそ、その重力から逸脱したいという欲望も生まれる。

 で、こういうことばの重力からの逸脱の冒険のとき、何が見えてくるか。--と、私は、かなり強引に「論理」を飛躍させる。(「論理」と呼べるものが私の文章にあると仮定してのことだが……。)

 ことばの重力からの逸脱の冒険のとき、何が見えてくるか。そのことばの「肉体」が見えてくる。
 榎本の書いていることはストーリーからの逸脱なのだから、そこに書いてあることは、どんなに工夫してみても「要約」できない。何が書いてあったのか、その「意味」を語ることはできない。「無意味」しかない。
 それでも、榎本の書いていることばが「わかる」。読めてしまう。これは、どういうことなのか。「ことば」が「肉体」として、私の「肉体」に触れてくるのだ。

ジャスミン茶のプールにイルカが歌いながら泳いでいる、

 ジャスミン茶。水。プール。水。イルカ。榎本は「水」ということばを書いていないが、書かれていない「水」がそこには存在する。その書かれていないけれど、意識の粘着力が呼び寄せしてしまうものを「ことばの過去、ことばの時間」と呼べば、そこには「ことばの過去」がある。榎本のことばは「ことばの過去」をしっかり守って動いている。「イルカ」と「歌」、「イルカ」と「泳ぐ」も同じである。榎本のことばが、どんなことばといっしょに生きてきたかが、「肉体」のありようのように、触れてくる。
 ひとが路傍で腹を抱えてうずくまっているとき、あ、このひとは腹が痛いのだ、と自分の「肉体」の痛みでもないのにわかってしまう。私の「肉体」が反応してしまう。
 それと同じように、榎本のことばにふれると、私のことばの「肉体」が榎本の「ことばの肉体」と共鳴してしまう。共振してしまう。
 わかってしまう。

 こういう共鳴、共振運動(作用?)のとき、重要な「働き」をするのが「音」である。(これは、私の持論、自論?)。音が不自然だと、というか、聴いたことがない音だと、私の場合、反応できない。「ことばの肉体」を感じることができない。「暢気な塩梅」というような、古くさい音もあるのだが、「ジャスミン茶のプール」というとても美しい音からこの詩が始まっているのは、それだけで、もう引きこまれてしまうのだ。
 「分裂」「結合」「映像」「角膜」「鱗粉」「錯覚」「点滅」「記号」「残像」「眼底」ということばの「音」と、そのことばが抱え込んでいる「過去(時間)」の旋律を、私はなじみのあるものとして感じてしまうのだ。

 あ、とりとめもないことを書いてしまったなあ。
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誰も書かなかった西脇順三郎(204 )

2011-04-04 23:46:58 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「愛人の夏」。

 西脇のことばには聖と俗が入り混じる。その瞬間、ことばがとても清潔になる--と感じるのは私だけだろうか。聖から聖が洗い流される。俗から俗が洗い流される。聖と俗という固定概念が破壊される--その瞬間、何かが生まれる。その名づけることのできない何かが、新しい響きでことばを満たす。その瞬間を「清潔」と私は感じるのだ。
 たとえば、

あのドクダミの匂いもかぐ心もない
あのいやにはびこつているクズの葉は
万葉人のふんをふく
昔の人の偉大な歴史だ

 「万葉人のふんをふく」。この1行が、いま引用した部分ではとりわけ清潔である。
 「万葉」は「万葉集」を思い起こさせる。「万葉」は文化(聖)である。一方の「ふん」は俗そのものである。文化とは無関係な日常--しかも、どちらかというと「隠しておきたい」ことがらである。「万葉」と「ふん」の出会いだけで、十分におかしいのだが、西脇はそれをさらに拡大する。
 「クズのは」で「ふんをふく」。昔はトイレットペーパーがないから、かわりにクズの葉をつかう。そういうことを書いているのだが、そう書いてしまうと「意味」になる。西脇は、これを「意味」にならないように書く。だから、よけいに聖と俗がきわだち、清潔感も強くなる。
 「意味」にならないように書く、というのは。
 冷静に考えれば、「ふんをふく」ということば変である。糞を拭くのではなく、尻を拭くのである。糞をしたあと、尻を拭くのである。けれども、西脇は、日本語の「文体」の間接を脱臼させたようにして書く。言い換えると、日本語の歴史で積み重ねられて「ことば同士の脈絡」、このことばは、このことばで受けるという習慣を破る。このことばが主語なら、動詞はこれ、という習慣から離れてことばを動かす。「糞をしたあと、尻を拭く」という言い方が一般的だが、その習慣としての「文体」を破壊して「ふんをふく」と書く。
 この壊し方が絶妙である。「ふんをふく」で、十分に「尻をふく」という「意味」がつたわってくる。「意味」をつたえながら、そこにいつもとは違ったことばをもってくる、違った音をもってくる。そうすることで、「耳」を刺激するのである。「耳」が一瞬、あ、いま聞いた音は何かが違うと気づく。そして目覚める。何かが。それがおもしろいのだ。これが「ふん」ではなく、まったく違うものだったら、たとえば「涙をふく」だったら、また違った「意味」が生じてきてしまいそうである。そうならないものを、西脇は、きちんと識別してもっていきているのだ。

 それはそれとして……。蛇足になるが、トイレットペーパーがわりにクズの葉をつかう、植物の葉っぱをつかうというのは、いまでは考えられないことである。西脇のいきていた時代でも、それを実際にしている人は少なかったかもしれないが、そのことばはすぐに通じただろう。
 そうしてみると、「暮らし」というのは、万葉から現代まで、あまり差がないことがわかり、愉快な気分になる。ドクダミも、いまではあまり見かけないだろうが、昔はどこの家の便所の近くにはびこっていたものである。
 西脇は時間・空間を自由にとびまわってことばを動かしているように見えるが、そこに書かれている時間は、私たちがいまから想像するよりははるかに「短い」期間だったのかもしれない。「万葉」といってもすぐとなりだったのかもしれない。西脇にとって「西洋」がすぐとなりだったように、万葉の時代も石器時代も江戸時代も、きっと区別がないくらいに身近だったのだろう。




現代文学大系〈第34〉萩原朔太郎,三好達治,西脇順三郎集 (1965年)
クリエーター情報なし
筑摩書房
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グザビエ・ヴォーヴォワ監督「神々と男たち」(★★★★)

2011-04-04 21:22:01 | 映画
監督 グザビエ・ヴォーヴォワ 出演 ランベール・ウィルソン、マイケル・ロンズデイル、オリヴィエ・ラブルダン、フィリップ・ローデンバック

 映像がとても美しい。寒村の修道院が舞台。修道士がそろって白い服をきて(フード付き)、祈りを捧げる。歌を歌う。賛美歌のことは私は何も知らないが、何回も繰り返されるこのシーンが美しい。白い服は、きっと彼らの「純粋さ」をあらわすのだと思う。私心をすて、神に身をささげ、宗教に生きる姿勢をあらわす「白」だと思う。また、厳格さをも象徴するかもしれない。汚れることを拒む強さ、それを象徴するかもしれない。
 この「白」が少しずつ変わっていく。
 アルジェリアの小さな村なのだが、そこには彼らキリスト教徒とは別にイスラム教徒がいる。かれらは共存しているのだが、イスラム過激派(?)がキリスト教徒を許さない。テロリストが修道院にも襲ってくるからである。
 どう対処すべきなのか。
 結果的に全員が修道院にとどまり、いつもどおり近くの人々の治療をし、神学につとめて過ごすことを選択する。しかし、その「結論」は簡単には出ない。自分の命がかかわってくるからである。
 苦悩し、議論する。「逃げる」ことは正しくない。そうはわかっていても、それは「頭」で考えたことである。「肉体」は震える。まっすぐには直立しているわけにはいかない。「白」は、外からやってくる「黒」をはねのける色だったのだが、次第に自分自身のなかにある「暗い不安=黒」を隠すものへと変わっていく。「白い服」によって、自分のなかの「黒」を封じ込めるのである。信仰の「ゆらぎ」そのもの、「陰」を封じ込めるのである。
 繰り返し繰り返し、聖書のことばを読み、賛美歌を歌い、祈りをささげる。「白い」マントですっぽりと体をつつみ。フードで「頭」まで包み隠し、「白い服」の「白」を自分たちの共通のものとして選びとるのである。しかし、そのとき「白」は、彼らの「主張」ではない。彼らを「縛る」教義である。(と、書いてしまうと、キリスト教徒にしかられるかなあ。)彼らはテロリストも怖いが、自分自身が「キリストの教え」から逸脱していくことも怖いのである。自分が自分でなくなってしまうから。だから、その「白」は自分を守るための色ともいえる。
 ひとつの「白」のなかにも、いくつもの「意味」「表情」があるのである。
 「白」は強くなったり、弱くなったりする。象徴的なシーンがある。白い服で身を包んでの、いつもの祈りの最中に飛行機の音が聞こえる。このとき、修道士たちは身を近づけ、声をあわせて、歌いつづける。はなれて立っていた修道士たちが近付く。「白」が近付く。そうすると、互いの「白」が互いの「白」を照らしだし、少し強くなる。「白」がいろいろな思いが交錯しているのだけれど、その「白」が修道士たちの声の「色」も統一する。やがて飛行機が去っていく。この瞬間、「白」がじわりと発光する。輝きだす。
 あ、これはもちろん「白」そのものの変化ではない。「白」のなかの唯一変化する「場」、顔の変化である。修道士たちの顔が不安から安心にかわる。その色が輝く。その変化が「白」に伝染して、「白」が輝く。この変化は「白」だからこそ、こんなにくっきりと出るのかもしれない。
 こういうことが、日々、繰り返される。服の「白」そのものはかわらないが、そのフードのなかにある顔が変わる。その変化がじわりと服の「白」を汚染していく。その印象が生々しい。--もっとも、これは正確には、修道士の顔の変化、目の変化に引きずられて、私が「白」をそんなふうに見ているだけのことなのかもしれないが、なんだか「白」そのものが変わっているように感じられるのである。それだけ役者の演技力がすごいということなのだと思う。
 「白」は服だけではなく、いろいろな形で出てくる。修道院のなかに差し込む光の白と、その白い光がつくりだす影の透明な感じはとても美しい。また、気丈に「理想」を貫き通す力となった、主人公(ランベール・ウィルソン)が人知れず雨のなかで慟哭するシーンの雨もまた白の変化のひとつである。雨のなかの光の薄い感じ--それもまた白の変化である。
 そして、最後の雪。修道士たちが連れ去られ、処刑されるために雪の山の中を歩くシーンの雪の色--。
 あ、その前に、白から少し逸脱して、クリスマス(はっきりとはわからないのだが、たぶん)に聴く「白鳥の湖」について書いておいた方がいいかもしれない。爆撃をおそれて声を合わせて祈るシーンとは対照的なシーンである。
 夜。晩餐の背後に流れる「白鳥の湖」。「白鳥の湖」というタイトルのなかには「白」があるけれど、これは映像化はされない。音の力で暗示されるのだが、それが「音」になった瞬間、なぜかそれは「黒」に感じられる。その音楽にのって、カメラが修道士たちの顔を一人ずつアップでとらえていく。それぞれが不思議な暗さをかかえている。決意をかかえている。それは外の「黒」、夜の「黒」と呼応しているというより、「白鳥の湖」がもっている悲劇性、神話につうじるような透明な悲しさ、その「黒」と呼応しているように感じられる。修道士たちはみな、「白鳥の湖」のなかの「黒」、「黒い音」と、まるで呼吸し合っているように感じられる。
 「白」と「黒」が混じり合って、かなしい、冷たい灰色になる。
 それがラストの雪の色になる。乾いた雪ではなく、湿った雪、水分を含んだ雪なのかもしれない。そのなかを修道士たちがつれられていく。遠くに行くにしたがって、彼らの影は、その灰色の雪、灰色の闇にとけこんで見えなくなる。
 この映画は「白」の変化(そこには、黒、灰色も含む)をとおして、修道士たちの存在を描き出している。その生き方が正しいとか、間違っているとか、もっと別の生き方があったとか--そういう批判は除外し、ただ「白」の変化として定着させている。テロリストを安直に非難することもない。非常に気品がある。そして、その「白」の変化に「音楽(音)」もとても自然な感じで溶け込ませている。一種の「奇蹟」のような映画である。★が5個ではなく4個なのは、私がキリスト教にうといからである。この映画で歌われている歌と映像の関係がつかみきれないから★4個にしたのだが、ほんとうは5個の映画かもしれない。



 映画のなかで歌われる賛美歌--それをランベール・ウィルソンは自分の声で歌っているのだろうか。だとすると、これはすごいなあ、と思う。意味がわからないから、声の調子だけでいうのだが、賛美歌のことばと音に全身全霊を集中するという感じが強くつたわってくる。
                       (2011年04月04日、KBC シネマ1)
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