詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

宇宿一成『賑やかな眠り』

2011-04-19 23:59:59 | 詩集
宇宿一成『賑やかな眠り』(土曜美術出版販売、2011年04月01日発行)

 宇宿一成『賑やかな眠り』にはさまざまな詩が収められている。「意味」がときどき強くなる。詩集の帯にも引用されている「記憶受胎」。

いまここに生きているということは
日々のたくらみを
言葉によってなぞりなおし
遠い祖先たちの記憶と交配し
受胎する脳髄の川のほとりに
かすかな希望を
ナズナの花のように
咲かせているということだ

 たしかに生きているということは、遠い祖先の記憶と交配し、脳髄が受胎することかもしれない。そして、それは「ことば」の運動である。「脳髄」は「ことば」と言い換えるとき、この詩がかたろうとしているものを明確な「意味」として結晶化させる。
 祖先の行為を「ことば」でなぞりなおすとき(くりかえすとき)、私たちのことばは遠い祖先の記憶と交配する(セックスする)。そして、その結果、私たちの「ことば」は祖先の「血」(思想)を引き継ぐ。受胎する。そして、新しい「ことば」として生み出す。これは、すべて「脳(脳髄)」のなかにおける運動であり、現象である。
 --でも、こういう「意味」は、私にはあまり興味がない。「意味」でありすぎる。「意味」は誰にでも共有される。簡単に要約できてしまう。だから「思想」ではない、と私は思うのである。「思想」は共有されるべきものだが、絶対に共有できないもの(要約できないもの)が「思想」なのである。それは「肉体」と呼ぶべき「もの」なのである。
 「肉体」ではない「思想」は、「意味」にしかすぎない。
 と、批判的なことを書きながら、この詩を引用したのは……。
 「意味」でありながら、「意味」ではない部分がある。そこに、私は詩を感じ、また「思想」を読む。

受胎する脳髄の川のほとりに

 「受胎する脳髄」から「川のほとり」へとことばがつながっていく部分。その接続のためのことば「の」。ここに、宇宿の「肉体」(思想)がある。
 なぜ、「脳髄の川のほとり」?
 わからない。きっと、宇宿にもわからないと思う。それは、突然、やってきたことばにちがいない。理由がない。説明できない。
 あえて、この詩のなかに書かれていることばを強引に動かして、その「説明」をしてみると……。
 あることがらを「ことば」でなぞる(語りなおす)ということは、「こと」に「ことば」を結びつけることである。なぞる、語る、とは「ことば」を接着させる、密着させる、連続させるということである。そういう接着、密着、連続、粘着--なんでもいいのだが、結びつけるときの働きが「の」のなかにある。

脳髄「の」川「の」ほとり

 結びつけるということは、区別がなくなることでもある。どこまでが「脳髄」なのか。どこまでが「川」なのか。どこからが「ほとり」なのか。それは単独では違ったものになってしまう。「の」によって二つが結びつき、どちらがどちらに従属(?)しているかわからなくなったとき、そこに初めて「出現」する。
 「の」によって結びつけられた「もの」(こと)は対等なのである。

 「ことば」によって結びつけられた「祖先の日々のたくらみ」と、それをなぞる「いまのことば」は対等なのである。別個のものを対等の存在として結びつける力としての「の」。それが宇宿の「ことばの肉体」の力である。
 そこに「思想」がある。
 「の」によって、新しい「いのち」が生み出されている。「の」が生み出した「もの」「こと」がここにある。「の」が宇宿の「肉体」なのである。

 私の書いていることは強引すぎて「意味」にならない。こんなふうにして、強引にねじ曲げるのか、こじあけるのか、わけのわからないことばでつかみ取るしかないのが「思想」であり、これは、まあ「共有」できないなあ。私が勝手に、「こうだ」と思い込むしかないものなのである。
 私は、なんとかそれを誰かにわかってもらいたいと思い、こうやって「日記」を書いているが、わからなくても当然とも思ってもいる。書けないことを承知でことばを動かしているのだから。

 「の」が宇宿の「思想」である--と書いても、きっと何のことかわからない。
 わからないと承知で、私は、また別のことを書きたい。「の」に通じるかもしれない。まったく無関係のことかもしれない。
 それは「ひらがな」の力というものについてである。
 「夕暮れのコメディー」。

こころからふかくあいしたので病気をうつされました かなしみという病気です きせいちゅうをすまわせて いつもうえていたねこが死んで あんなにたべてばっかりだったのに ほねとかわで えいようはみんな はらのむしにすいとられていたのだと そんなことはちいさなこどもでもわかることです

 これは寄生虫のために太ることのできなかった猫のことである。「こころからふかくあいしたので病気をうつされました かなしみという病気です」というのはセンチメンタルすぎて気持ちがいいものではないが、そういう猫を見れば、まあ、人間はだれでも悲しくなる。
 このことばは、次のようにつづく。

うまれたときから むしのいきるばしょとしていき 死にゆくいのちもあるのでしょう

 むし(寄生虫)に生きる場所を提供し、猫は死んでいく、ということだろう。

ひとのいきるばしょとしていき 死んでしまうほしだってあるかもしれない

 これは、地球のこと? ひとと地球はそういう関係? ひとが寄生虫で、そのために地球は死んでいく? わからないね。
 そういうわからないことばを挟んで、詩はつづく。

そのこはうすよごれたむくろをだいて にごったかわにはいってゆき むねのあたりまでぬらしながら 死んだねこをながしました からっぽのふくろをながすようでした はらのなかでは むしたちがまだにぎやかにうごめいていました ねこのちょうがいきていてうごいたようなてざわりに そのこはぎょっとしてかおをあげました むしもながれましたが かなしみだけがながれずに そのこはおんおんおおごえをあげてなきつづけました

 死んだ猫を流す。そこに「はらのなかでは むしたちがまだにぎやかにうごめいていました ねこのちょうがいきていてうごいたようなてざわり」というびっくりするようなことばが出てくる。
 これは、しかし、不思議だなあ。
 猫を流しているのは「そのこ」。「私」(宇宿)ではない。どうして、「そのこ」の感じた「手触り」がわかった?
 そこには「祖先の体験」ではなく、宇宿の体験が接続され、区別がつかなくなっている。こういうことが「ことば」にはできるのである。
 できるのだけれど……。
 その、ちょっと強引な運動に、「ひらがな」がとても強く影響しいてると思う。
 「ひらがな」というのは、「意味」がとりにくい。「音」はわかるけれど、その「音」がもっている「意味」というのがわかりにくい。「漢字」で書けばすぐわかるのかもしれないが、「ひらがな」だとわかりにくい。(あ、これは谷川俊太郎が、池井昌樹の詩について書いていたことだね。谷川さん、借用します。)わかりにくい、というのは、何かと何かを識別しにくいということだね。そして、わかりにくいからゆっくりと読む。くりかえして読む。そうすると、そこに何か「漢字」で読んだときにはなかったような変なもの(?)がまぎれこむ。識別しにくい何かが、「ことば」のなかを行き来する。どれがどのことばの「意味」だったか、わからなくなる。
 この詩には「てざわり」ということばが出てくる。猫の腹に触っている。その手。その手が猫の腹か、腸か、あるいは寄生虫のうごめきかわからないものに触れる。そのとき、それが猫の腸か寄生虫かわからないだけではなく、うーん、人間の手を通って、なにか自分の腸のなかの寄生虫のうごめきのように感じられるねえ。区別がつかないね。
 「ひらがな」には、そんなことを引き起こす力がある。
 途中にでてきた「ひとのいきるばしょとしていき 死んでしまうほしだってあるかもしれない」をふと思い返すと、それはいったい誰の考え? という疑問も出てくる。宇宿の考えといってしまえば簡単だが、「ひらがな」で書いてあるので、まるで「そのこ(子)」の思いついたことばのようにも見えてくる。そのことばが「ひらがな」で書かれることで、生と死の、生々しい「肉体感覚」がくっついてしまう。
 漢字で書かれていれば、「ひとのいきるばしょとしていき 死んでしまうほしだってあるかもしれない」は「哲学」として、ことば全体のなかで浮き上がってしまうかもしれない。そのことばは、前後のことばをうまくつなぐことができないかもしれない。そして、その結果、「ねこのちょうがいきていてうごいたようなてざわり」ということばも生まれてこないし、「かなしみだけがながれず」という美しいことばも生まれてこないかもしれない。

 「ひとのいきるばしょとしていき 死んでしまうほしだってあるかもしれない」は、記憶受胎」で触れた「の」であったかもしれない。
 ふと、そう思うのだが、これはやはり「ひらがな」で書かれているから「の」になりうるのだとも思う。
 「ひらがな」は、「意味」の奥へおりてゆき、何か不透明なもの(こと)と知らず知らずのうちに接続してしまうのである。密着してしまうのである。連続してしまうのである。




光のしっぽ (21世紀詩人叢書・第2期)
宇宿 一成
土曜美術社出版販売


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誰も書かなかった西脇順三郎(211 )

2011-04-19 10:30:44 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「ティモーテオスの肖像」の後半は「音楽」が少しかわる。「子供」が消えるせいかもしれない。「音」がしんみりして、おとな(?)の感じが濃厚になる。

夏のふるさとはまた

 という行から後とのことなのだが、「音」の変化の前に置かれたこの1行--その正直さに私はどきっとする。こころが震える。西脇の詩は「わざと」書かれたことばだが、その「わざと」のことばのなかにも、正直というものはどうしても出てしまう。そう気づいて、どきっとするのである。(これ以外の行が、「わざと」書かれたことばなのに、ここでは「わざと」がない。その正直さに驚くのである。)
 私の印象では、この1行のあと、詩は「転調」するのだが、その転調知らせることば--それがシャープやフラットの記号のようにくっきりしている。そこに「生理的」な正直さを感じる。この1行がないと転調できないのだろうなあ、と思う。(行分け詩の場合、連と連との区切り、1行空きを利用して転調することが多いが、西脇は1行空きのかわりに、こういう1行を書くのである。これに先立つ部分でも、「オーポポイ!」という感嘆詞があるが、感嘆詞を転調のきっかけにするのは、他の詩人でも頻繁にみられることである。)

夏のふるさとはまた
暗黒のガラスになる頃
小学校の先生とまた
シソとタデのテンプラを食べて
ルネサンスの絵の話をするだろう
都に住む友達は
どんな色のシャツを着ているだろうか
二人で考えてみるだろう
田圃の方からまた
生ぬるい幽霊のような風が
吹いてくるだろう
また生殖を急ぐ蛙の
音が暗闇から押し寄せてくる
この潮の音は星群を
曇らせるだろう

 「音」はいったん「色」をくぐる。ルネサンスと絵。そして、そこから友達のシャツの色を考えてみる。いったん「音」が消えるから、次にあらわれる「音」が静かなのかもしれない。

また生殖を急ぐ蛙の
音が暗闇から押し寄せてくる

 この「音」もふつうなら「声」かもしれない。「声」だと何かしら「意味」が感じられる。「音」になると、「意味」以前のところから聞こえてくる感じがする。洗練ではなく、野生、野蛮という感じがする。強い感じ--たたいてもこわれない感じ。
 その強さのなかで「音」が静かに響く。
 時間が夜だから、というだけではないと思う。




西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)
クリエーター情報なし
慶應義塾大学出版会
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