詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小林稔「胡椒あふれる水びたしのくに」

2011-04-03 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
小林稔「胡椒あふれる水びたしのくに」(「ヒーメロス」17、2011年03月25日発行)

 小林稔「胡椒あふれる水びたしのくに」は書き出しに引きこまれた。

遠くに端をもつ水は切れることなくしゅるしゅると音を立てている。

 「遠くに端をもつ水」。「水」をこのように「定義」することができるとは知らなかった。「水源」のことだろうか。いや、水源は「源」であり、それを「端」と呼んでしまうと何か違う気がする。(何が違うのか、それはわからないのだが。)
 「端」というかぎりは、それは両端である。「源」が一方の端なら、もう一方はどこ?「源」とは逆のところ、水が失われるところ。
 遠くに水源をもつ水が、とぎれることなくしゅるしゅると音を立てて流れている--というのが、小林の書こうとしたことかもしれないが、またそう読むのが一般的かもしれないのだが--私は「遠くに端をもつ水」ということばから、果てしなく広がっている水面を想像してしまったのである。「果てしない」といっても、「遠く」といっても、それは山奥の「水源」とは違って見える「端」である。
 ただし。
 その「見える端」は見せ掛けである。
 どういうことかというと……。たとえば、果てしない水面の果てしなさを「大洋」のようなものと思ってもらいたい。水の果ては「水平線」として「見る」ことができる。けれど「水平線」は「果て=端」ではない。行けども行けども「端」は遠くへ去りつづける。「端」は見かけにすぎない。そして、その「端」は源のように特定できない。無数である。
 見せ掛けの「果て」へ、それも無数の「果て」へ向けて水があふれていく。流れていく、ではなく、あふれていく。
 どこから?
 深い深いところからである。

 冒頭の「水」は、とらえることのできない「端」と同時に、やはりとらえることのできない「深さ」を暗示している。その「深さ」の具体的な描写が2行目から始まる。

闇を舞う雪が窓から入り込もうとしたのはたしか昨晩のことで母屋から一つ通りを挟んだ平屋の十畳の間にひとり寝かされた七歳の私は障子を透いてとどくやわらかなひかりを見つめ、降り積もる雪を車が踏みつける音を衣の擦れる音のように聴いている。

 「端」のない感じ、果てしなさは、母屋と十畳の間の「あいだ」に広がっている。それは「通り一つ」という見せ掛けの距離を持っている。それが見せ掛けというのは、「私」には、いま、その「距離(ひろがり)」を越えて母屋へ行くことが許されていないからである。「端」はいつでもそこにある。そこにあるけれど、それは見せかけである。それは「やわらかいひかり」である。この「やわらかさ」は、一種の絶対的な「拒絶」である。母屋と十畳の間の「距離」のように、手近に「見える」。「見える」けれど、そこにはたどりつけないものが満ちている。広大な水面の、その水のように。
 「深さ」は「音」として書かれている。それは「見えない」。いや、「降り積もる雪を車が踏みつける」という具合に視覚化できるから、「音」は「見える」とも言えるのだが、そのときの「見える」は実際に見ているわけではない。想像しているのだ。実際の音を聴いて、それに「見える」ものを覆いかぶせているのである。何事かを覆いかぶせることで、実際に見える障子を越えてやってくる「やわらかいひかり」を消している。いや、見えないものと見えるものを同時に見ている。
 このときの「音」は1行目の「しゅるしゅる」につながる。重なる。1行目の描写は、実際の世界ではない。「遠くに端をもつ水」を「私」は見ているわけではない。「しゅるしゅる」という音も、それが「水」の音であるとは言えない。それは「降り積もる雪を車が踏みつける」ときの「音」であり、それから「私」は、いま、ここにない「水」を思い浮かべているのである。その「水」は雪を踏む車の「音」と同時に、そこにある。同時にしか、そこに存在しえない。
 その「水」と「音」、あまいは端と深さが同時にあるように、あらゆるものが同時にある。そして、その同時は、ともに「果て」(限定)というものがない。ことばが追いかけたところまでが端、深さであり、もし限界があるとしたら、それはことば自身の問題である。
 ことばをどんなふうに動かしていけるか--それだけが問題である。

墨を流したようなむすうにくねる線が羽目板から浮きでた鬼の群れになって私におそいかかり、かぞえ切れないほどの蛇に変わった。

 これは、墨流しの模様と木目の重ね合わせであり、そこには「水」が含まれている。(墨流しは水の上に墨を垂らすことで模様を描くことだから。)そして、その墨流しの模様が蛇にかわるとき、「私」は「視覚」を中心にことばを動かしていることになる。

蛇は耳朶を這うようにして肩と布団の間に滑り込んできて私は身体を硬くさせるが踵に滑りいるひんやりしたものが一つならず触れ上がってくる。私の躯じゅうを蓋(おお)う蛇は一匹の巨大な蛸になりかけていて縄に縛られたように身動きできない。

 「耳朶」は「水」とともにあった「音」と結びついている。そして、そのことばは「私」の身体を目覚めさせる。「肉体」をことばが動いていく。「耳朶」から「肩」へ、あるいは「踵」へ。そして、そのとき「すべる」「ひんやり」という触覚が動きはじめる。
 ことばが肉体を動き、肉体のなかで視覚、聴覚が動けば、おのずと触覚も動きはじめる。
 ことばは肉体(小林は「身体」ということばを使っているのだが、私にいままで「日記」のなかでつかってきた「肉体」ということばをつかっておく)--ことばは肉体のなかで、動きことで、広がりと深さをもつ。それはそして、やはり「端」(限定)というものを持たない。どこを「端」と「仮定」するか(結論づけるか、といっても同じことであるが)、それはことばを動かしている小林自身の決定を待つしかないことなのである。
 小林は、この「決定」をとてもおもしろい形で書いている。

襖の陰で見つづけている私は、私を救出できないでいる。

 身動きできなくなった「私」--それは「私」であるのだけれど、「私」ではない。「私」は、それを襖の陰で見ている。
 この1行が突然出てくまで、私は「私(七歳の小林)」が十畳の間の布団の上で寝ている(寝かされている)とばかり思っていたが、そうではないことになる。
 いや、そうではなくて。
 ほんとうは、この最後の1行が「嘘」なのである。「私」は布団の上で寝かされている。横になりながらあれこれことばを動かしているうちに金縛り(?)のように身動きがとれなくなっている。だからこそ、もうひとりの「私」を捏造し、それに助けをもとめているのである。「現実の私」を嘘にしてしまう、そして「嘘の私」をこそ、「ほんとうの私」にしてしまう。
 「嘘」と「ほんとう」が「水」のように溶け合ってしまう。「私」という「音」のなかで「私」の区別がつかなくなる。その溶け合った状態、区別のない状態--それは「端」(果て)のない、ことばの運動そのもののあり方なのだ。

 ことばはどこまでも逸脱していく。「ストーリー(物語)」にはなりえない。小林の作品は「一」から「四」までの章(?)で構成されている。私が取り上げたのは「一」の部分だが、「四」まで進んでも「結論」(結末)があるわけではない。「十四歳の私」で仮に終わっているのにすぎない。ことばはストーリーに従事するのではなく、ストーリーを書くふりしながら、どこまでも逸脱していく。それは「四」に書かれていることばを借用しながら要約してしまうと、--ことばは他者に触れることで、他者によって解体され、そのたびに死にながら、また再生し、増殖するということなのだ。そして、その「場」はいつでも「肉体」の内部、視覚、聴覚、触覚など五感の融合した領域である。果てしない場である。

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