詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺玄英「紙の星が頭上に輝いて」

2011-04-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺玄英「紙の星が頭上に輝いて」(「耳空」5、2011年03月25日発行)

 「文体」の問題はとても難しい。難しいけれど、簡単でもある。人がわかるのは(読者がわかるのは)、と一般化してしまうと間違いが大きくなるが、私個人に限定して言えば、とても簡単なことでもある。そこに書かれている「内容(意味)」はちんぷんかんぷんでも「文体」はわかる--というか、「わかる」部分を私は「文体」と考えるのである。--というのは抽象的過ぎて、何のことかわからないと思うので……。
 たとえば渡辺玄英「紙の星が頭上に輝いて」。

紙の星が頭上に輝いて
エンゼルさまの御光は希望を与えて(くれます
ピアニカの音色
こんにちは この世の苦しみと喜びはわたしくの手を引いて(くれます
ニセの浮力が作用して目がくらみます
くれますは悩みも発見もない道を歩いていく(のでした
まぶしいほどの歓喜の声に包まれて
春の日差しに溶ける雪な(のでした
すべてがたちどころに分かってしまうと
行き場所はどこにもない(のでした

 「(くれます」「(のでした」という変な表記がある。学校教科書の作文では、かっこはどんなものであれ、始まりと終わりがあるのだが、渡辺の表記には「終わり」がない。渡辺はこの表記にも何かしらの「内容(意味)」を込めているのだろうけれど、こういうわからないことは、私は考えない。わかることだけを考える。
 何がわかるか--「(くれます」「(のでした」を繰り返して、渡辺はリズムをつくっているということがわかる。「リズム」(音)を力にしてことばを動かしていることがわかる。声に出すかどうかは別にして、渡辺は、リズムを(ノリを--と言った方が現代的?)大切にしている。「文体」の基本にしている。
 そして、この「(くれます」「(のでした」は、他の部分に比べると「内容(意味)」がない。単なる「述語」である。「主語」を限定しない「述語」である。「主語」を限定しないから、何を書いてもいいのだ。何が起きてもいいのだ。どんなことでも引き受け動いていくのが「主語」を限定しない「述語」の強みである。

くれますは悩みも発見もない道を歩いていく(のでした

 という行が象徴的だが、「主語」を限定しない「述語」は、悩みも発見もなく、ただ先へ先へと進む。ノリノリにノッて、先へ進む。その止まることを拒んだことばのスピード、疾走感を大切にしたことばの運動--それを押し進めていく。これが渡辺の「文体」である。
 そして、それが「文体」であるなら、それは「思想」でもある。
 どこへ突き進んだってかまわない。ことばがどこへ行こうとかまわない。動いて動いて動いて行って、いままでの「文体」ではありえないことばにまでたどりつければ、それでいいのだ。
 詩は、つづく。

のでしたはどーして季節外れの蝉のように泣いているのか
木漏れ日のなかで。蝉だな、蝉。
これで行き止まり、だから
エンゼルさまが宇宙のどこかで燃えている恒星だとしますと
ちいさな衛星は塵芥のようにムスーにあって誰もかえりみない
ちきうはここでホラ行き止まり
木漏れ日のぬくもりのなかで
これ以上の進化はありえないから
(蝉は何を泣いているの(飴色の翅をふるわせて
これは希望でしょ悲しいでしょ

 「ムスー」とか「ちきう」とか、変な表記があって(変ではあるけれど、声--音にすれば、「意味」がわかるような音があって)、「ホラ行き止まり」とつながると、その「ホラ」は私には「ほら話」の「ほら」に聞こえてしまう。
 ことばなんて、詩なんて「ほら話」なのである。
 ことばが動いて、その瞬間が楽しければそれでいいのである。その動いて行った先がどうなろうと知ったことではない。どこへ行くかは「文体」だけが知っている。それについていくだけなのである。
 で、

木漏れ日のぬくもりのなかで

 という屁のような1行越えて、「(蝉は何を泣いているの(飴色の翅をふるわせて」という、気持ちの悪くなるようなセンチメンタルを踏み潰して、

これは希望でしょ悲しいでしょ

 ほら(ほら話じゃないよ)、わからないものにつきあたったでしょ?
 「希望」が「悲しい」と同居するなんて、学校の教科書には出てこないねえ。希望は喜びであるのが「教科書」。でも、渡辺のことばは、無責任なノリの果てに、その矛盾にぶつかるのだが。
 その瞬間。
 あ、渡辺の書きたいのは、これなんだ、とわかる。それが--つまりわかることが、渡辺の「罠」だとしても、あ、わかった、という気持ちにさせられる。
 希望は喜びではない、希望は悲しいものである--そう思える瞬間がたしかにある。
 話が(論理が)跳びすぎるかもしれないが、今回の東北大震災。その被災者が語る「希望(あるいは、よろこび)」はとても悲しい。たとえば被災者の方々が、おにぎりや温かいみそ汁にであって「ありがとう」と語るとき、食べられること、食べることで生きる希望ができたことへ「ありがとう」と感謝のことばを語るとき、私は悲しくなる。えっ、たったそれだけのことで「ありがとう」と言わないでよ、もっともっと要求してくれよ、と祈ってしまう。私は実際におにぎりやみそ汁をとどけるわけではないのだが、私(たち)にできることって、それだけでいいの? 違うんじゃない? もっともっと、怒りを込めて助けを求めるのが人間なんじゃないだろうか--そう思い悲しくなる。
 私が書いていることは、かなり論理がごちゃまぜになっているのだが、そういう「ごちゃまぜ」のことば、「未整理のことば」でしか語れないものがいつでも、どこにでもある。矛盾したことばが、かならず、人間が生きている「場」では噴出してくる。
 渡辺の「ノリ」のいいことば、「無意味」な「音」を繰り返すことばは、疾走の果てに、そういうものをつかむ。つかむまで、そしてつかんでからも、さらに走る。そこに、私は渡辺という人間を、つまり「思想」と「肉体」を見ている。



けるけるとケータイが鳴く
渡辺 玄英
思潮社



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