詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

細見和之「廃物処理」

2011-04-29 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
細見和之「廃物処理」(「庭園 アンソロジー2011」、2011年04月22日発行)

 細見和之「廃物処理」はリサイクルに出されたパソコンの山をみてトレプリンカを思い出す詩である。トレプリンカというのはユダヤ人が虐殺された収容所の設置されていた村の名前である。

大阪の人間が日置などという地名を知らないように
ワルシャワのポーランド人もトレプリンカを知らなかった
(略)
不思議なことに大阪と日置、ワルシャワとトレプリンカはほぼ等距離なのだ
かつてユダヤ人をしす詰めにした列車は
ワルシャワからマウキニアへ行き
そこからいまは廃線になっている支線でトレプリンカへむかった
同じころ
阪神間に出た日置の人々は
大阪から福知山線で篠山口までもどり
そこから篠山線に乗り換えて日置にたどりついた
現在その篠山線はやはり廃線になっている!

 私はワルシャワもトレプリンカも日置も福知山線も篠山線も知らない。知らないけれど、この部分がとてもおもしろいと思った。何ひとつ「具体的」なイメージを持つことができないのだけれど、とてもおもしろいと思った。
 ことばの運動が細見の考えていることを「正確に」伝えていると感じたからだ。細見は、ここでは現実の土地(場)を運動と距離に置き換えている。数学的といえばいいのか、物理的といえばいいのか、どちらがただしいのかわからないが、まあ、抽象化している。ただし、数学をつかわずに「土地」の名前、鉄道をつかって抽象化し、そこに相似形(あるいは合同)を見ている。
 その思考がくっきりとわかる。
 で、何を感じているか--ということは、この連だけではわからない。感じていることがわからないけれど、思考がわかるので、共感してしまうのである。「共感」ということばが「感情」だけにあてはまるものだとすれば、強引に「共思(共考)」と呼んでもいいが、細見のことばと私のことばがいっしょに動いているようでうれしくなるのである。もちろん細見のことばに具体を含んだものであるのに対し、わたしのことばは抽象にすぎないから、私がことばが重なるのは細見の「抽象としてのことば」だけなのだが、その抽象が重なれば、具象のほうも信じていいと思うのだ。
 「共感」「共思(共考)」ではなく、「共信」かな?
 まあ、なんでもいい。ともかく、細見の書いていることは「正しい」と思う。「正しい」ものを発見すると、とてもうれしい。それを「正しい」と呼ぶことが「誤読」であったとしても、というより、私は、そう「誤読」したいのだ。

 こういうとき、「ことば」は何に属しているのだろう。このことばは「肉体」? あるいは「頭」?

トレプリンカ/日置
パソコン野ざらしの虐殺の地
近くの日置神社では
数年前私の同級生があえなく首を吊ったこともある
あいつの霊が呼んでいるのだろうか
トレプリンカ/日置
その空き地で
焼かれることも埋められることもない
おびただしいパソコンが
青く輝く脳髄になってさびしい文字を明滅させている。

 トレプリンカと日置をパラレルでとらえることば--そのことばは「脳髄」で動いている。「文字」となって動いている。細見のことばは「頭」ではなく「脳髄」を通って動いている。脳髄をとおって、書かれ、並べられ、その並んだ姿から抽象を引き出している。そして、そこで確立された抽象をよりどころ、根拠として「さびしい」という感情へとたどりついている。
 ことばは「脳髄」を通ることで「肉体」を獲得している。この「肉体」は、私には「共信」できる。この「ことばの肉体」を私は「共信」できる。





アイデンティティ/他者性 (思考のフロンティア)
細見 和之
岩波書店
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