永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(6)(思潮社、2011年04月25日発行)
永島卓の「わたし」のなかに存在する「わたしたち」。もちろん、だれの「わたし」のなかにも「わたしたち」が存在する。「わたしたち」が存在しないかぎり「わたし」は存在させられないものかもしれない。そして、「わたしたち」が存在しないかぎり「わたし」が存在しえない、というとき、「わたしたち」と「わたし」は同類である。共通のものをもっている。永島の「わたし」も、「わたしたち」と共通のものをもっているのだろうけれど、永島の「わたし」は「わたし」とは異質なものをもっている「わたしたち」をも受け入れる。「同じ」でありながら「違う」のだ。それは「他者」だ。「他者」とは、「同じ」人間でありながら、何かしら「違ったもの」をもっているひとのことである。永島は「他者」を許容する。「他者」が「わたし」を通って「息」となって噴出し、それが「声」になるのを受け入れている。「ことば」になるのを受け入れている。というより、さらに進んで、そうやって「息」のなかにあらわれてくる「他者」を新しい自分の姿、自分の「肉体」のなかに眠っていたものが目覚めて暴れはじめる(?)と感じながら、その凶暴を楽しんでいる感じがするのである。「息」のなかに「他人」が噴出するとき、それをささえる永島の「肉体」は、永島という限界を超える。超越する。「超人」になる。その歓喜が、自然に「声」にこもり、「声」を励ます。
--私の書いていることは、あまりにも抽象的で、変なことだとはわかっているのだが、そういう印象なのだ。
長い詩について書くと、私のことばはどこまでも脱線しつづけそうなので、短い詩について感じたことを書いてみよう。「きょうはきのうのあしてたです」。この詩には「二〇〇八年一月碧南市成人式パンフレットに」という注釈がついている。永島が新成人に対して書いた詩なのだろう。この詩のタイトルは、とてもおもしろい。変な表現だが、論理的である。「きょう」はたしかに「きのう」を基準にして言えば「あした」になる。ここでは何を「基準」にするか、その「基準」がゆれている。
それは、「わたし」を基準にことばが動いていたのが、いつのまにか「わたしの中の他人」を基準にしてことばが動くのに似ている。「わたし」を突き破って「他人」がでてきて、その「他人」が誕生することで「わたし」がかわってしまうのに似ている。そして、「わたし」が「わたし」ではなくなり、「他人」になってしまうのに、そのことばは、「わたし」の「一息」のなかにあらわれるのにそっくりである。--と、書けば、少しは私の書こうとしていることが明確になるかもしれない。
永島のことばのなかでは「わたし」と「わたし以外のもの=他人」が同居し、「基準」を譲り合いながら(?)動く。そのことばの動きが「呼吸(一息)」のなかで完結というと変だが、ともかく「一息」のなかに、その同居が「混在」する。(混在、ということばをつかったのは、そういう詩があるからである。--この詩についても書きたいことがあるのだけれど、長くなるので省略。)
で、その「きょうはののうのあしたです」の書き出し。
なんだかよくわからないが、「あなた」と「わたし」、「朝の海」と「星の空」、「売る」と「買う」ということばの往復、交渉が若くて、ロマンチックな感じでいいなあ。「成人式」の詩っぽいなあ、と思う。
で、じゃあ、何が書いてある? と考えはじめると、この2行がちょっと変だと気がつく。「朝の海」「星の空」を売り買いすることはできない--という意味ではない。その売り買いができるかどうかは、まあ、詩だから、どうでもいいのだ。できると思えばできる。
おかしいのは2行目である。1行目と比較するとわかる。
これが「朝の海」ではなく「林檎」だったら、何の問題もない。わたし「に」売ってくださいという関係が成り立つ。
けれど、2行目。
「星の空」が「林檎」だったら、どうなるか。あなた「に」買ってくださいは変である。あなた「は」買ってください。あなたは、わたし「から」買ってください。これが「日本語」の「対句」であるはずだ。「売る」と「買う」は、そんなふうにことばの一部を帰ることで対句になくるはずである。けれど、永島は「あなたに買ってください」と書く。
そして、その日本語が変である、なんだかねじくれているのだけれど、何かわかったような気持ちになるだけではなく、そのねじくれ方のなかに「おもしろいもの」、いままで気がつかッなかった何かがあるように感じるのである。
これを、もし、正しい(?)日本語にするとしたら、何を補足すればいいだろうか。
そうすると、この2行はほんとう(?)は、
ということになるのだろう。
「左岸」で、私は、永島のねじくれた文体の、そのねじくれの部分に「わたし」が省略されていると書いた。この作品では、文体のねじくれの部分に「あなた」が省略されていることになる。
このときの「あなた」は「わたし」にとって「他者」なのだが、同時に「わたしたち」に含まれる人間である。成人式で、永島は若い人たちを祝っている。「わたしたち」のなかまとして祝っている。そう考えると「あなた」が「わたしたち」であることがわかる。
「あなた」は「わたしたち」である。けれど、永島は「あなた」を「わたしたち」そのものに閉じ込めようとはしていない。どこかで違ったいのちであると知っている。
そして、この「わたしたち」でありながら、「あなた」という「他人」が、永島のこの2行のなかでは、不思議な形で出会い、「息(声)」として、それを「同じもの」の出会いとして「肉体」化しているのだ。
この2行の「文法」はおかしい。「学校教科書」なら、間違っている、といわれるだけである。けれど、その「間違い」は、「わたし」と「あなた」の入れ換え、「朝の海」と「星の空」の入れ換え、「に売ってください」と「に買ってください」の入れ替えのなかで、とても美しい「音」になる。
「音」そのものの「対句(?)」が、文法の間違いを消し去り、同時に「文法」を超えることばの運動を教えてくる。
間違える--というのは、とても楽しい。そして、この間違いのなかで、「わたし」と「あなた」は出会い、入れ替わり、新しい何事かを始めるのだ。
いいなあ。こんなことばに出会って、新成人になれるなんて。うらやましくて、しようがない。
こんなふうに「わたし」と「あなた」を出会わせるひとがいる街はいいなあ。碧南というのは行ったことがないけれど、行ってみたいなあ。永島に会ってみたいなあ、と思うのである。
*
補足。
と、「あなた」ということばを補って説明した部分で、書き漏らしたことがある。ひとは誰でも自分にとってあまりにも密着しすぎていることばを「省略」してしまう。こういう「無意識」にまでなってしまって、ついつい省略されることばのなかにこそ、私はそのひとの「思想」があると思っている。
「左岸」では「わたし」であった。「わたし」が「思想」であるというのは、まあ、わかりやすいことかもしれない。
永島の「思想」の特徴は、それが「わたし」に限定されないことである。
この詩の、「あなた」がそれを証明している。
永島にとって「わたし」が「肉体」(思想)であると同時に、「あなた」(わたし以外のひと)も「肉体」になってしまっている「思想」なのである。
その不思議な結合が「長い息」、「息のなかでねじくれることば」となって動いている。
永島卓の「わたし」のなかに存在する「わたしたち」。もちろん、だれの「わたし」のなかにも「わたしたち」が存在する。「わたしたち」が存在しないかぎり「わたし」は存在させられないものかもしれない。そして、「わたしたち」が存在しないかぎり「わたし」が存在しえない、というとき、「わたしたち」と「わたし」は同類である。共通のものをもっている。永島の「わたし」も、「わたしたち」と共通のものをもっているのだろうけれど、永島の「わたし」は「わたし」とは異質なものをもっている「わたしたち」をも受け入れる。「同じ」でありながら「違う」のだ。それは「他者」だ。「他者」とは、「同じ」人間でありながら、何かしら「違ったもの」をもっているひとのことである。永島は「他者」を許容する。「他者」が「わたし」を通って「息」となって噴出し、それが「声」になるのを受け入れている。「ことば」になるのを受け入れている。というより、さらに進んで、そうやって「息」のなかにあらわれてくる「他者」を新しい自分の姿、自分の「肉体」のなかに眠っていたものが目覚めて暴れはじめる(?)と感じながら、その凶暴を楽しんでいる感じがするのである。「息」のなかに「他人」が噴出するとき、それをささえる永島の「肉体」は、永島という限界を超える。超越する。「超人」になる。その歓喜が、自然に「声」にこもり、「声」を励ます。
--私の書いていることは、あまりにも抽象的で、変なことだとはわかっているのだが、そういう印象なのだ。
長い詩について書くと、私のことばはどこまでも脱線しつづけそうなので、短い詩について感じたことを書いてみよう。「きょうはきのうのあしてたです」。この詩には「二〇〇八年一月碧南市成人式パンフレットに」という注釈がついている。永島が新成人に対して書いた詩なのだろう。この詩のタイトルは、とてもおもしろい。変な表現だが、論理的である。「きょう」はたしかに「きのう」を基準にして言えば「あした」になる。ここでは何を「基準」にするか、その「基準」がゆれている。
それは、「わたし」を基準にことばが動いていたのが、いつのまにか「わたしの中の他人」を基準にしてことばが動くのに似ている。「わたし」を突き破って「他人」がでてきて、その「他人」が誕生することで「わたし」がかわってしまうのに似ている。そして、「わたし」が「わたし」ではなくなり、「他人」になってしまうのに、そのことばは、「わたし」の「一息」のなかにあらわれるのにそっくりである。--と、書けば、少しは私の書こうとしていることが明確になるかもしれない。
永島のことばのなかでは「わたし」と「わたし以外のもの=他人」が同居し、「基準」を譲り合いながら(?)動く。そのことばの動きが「呼吸(一息)」のなかで完結というと変だが、ともかく「一息」のなかに、その同居が「混在」する。(混在、ということばをつかったのは、そういう詩があるからである。--この詩についても書きたいことがあるのだけれど、長くなるので省略。)
で、その「きょうはののうのあしたです」の書き出し。
あなたの朝の海をわたしに売ってください
わたしの星の空をあなたに買ってください
なんだかよくわからないが、「あなた」と「わたし」、「朝の海」と「星の空」、「売る」と「買う」ということばの往復、交渉が若くて、ロマンチックな感じでいいなあ。「成人式」の詩っぽいなあ、と思う。
で、じゃあ、何が書いてある? と考えはじめると、この2行がちょっと変だと気がつく。「朝の海」「星の空」を売り買いすることはできない--という意味ではない。その売り買いができるかどうかは、まあ、詩だから、どうでもいいのだ。できると思えばできる。
おかしいのは2行目である。1行目と比較するとわかる。
あなたの朝の海をわたしに売ってください。
これが「朝の海」ではなく「林檎」だったら、何の問題もない。わたし「に」売ってくださいという関係が成り立つ。
けれど、2行目。
わたしの星の空をあなたに買ってください
「星の空」が「林檎」だったら、どうなるか。あなた「に」買ってくださいは変である。あなた「は」買ってください。あなたは、わたし「から」買ってください。これが「日本語」の「対句」であるはずだ。「売る」と「買う」は、そんなふうにことばの一部を帰ることで対句になくるはずである。けれど、永島は「あなたに買ってください」と書く。
そして、その日本語が変である、なんだかねじくれているのだけれど、何かわかったような気持ちになるだけではなく、そのねじくれ方のなかに「おもしろいもの」、いままで気がつかッなかった何かがあるように感じるのである。
あなたに買ってください
これを、もし、正しい(?)日本語にするとしたら、何を補足すればいいだろうか。
わたしの星の空を「あなたは」あなた「のため」に買ってください
そうすると、この2行はほんとう(?)は、
あなたの朝の海を「あなたは」わたし「のため」に売ってください
わたしの星の空を「あなたは」あなた「のため」に買ってください
ということになるのだろう。
「左岸」で、私は、永島のねじくれた文体の、そのねじくれの部分に「わたし」が省略されていると書いた。この作品では、文体のねじくれの部分に「あなた」が省略されていることになる。
このときの「あなた」は「わたし」にとって「他者」なのだが、同時に「わたしたち」に含まれる人間である。成人式で、永島は若い人たちを祝っている。「わたしたち」のなかまとして祝っている。そう考えると「あなた」が「わたしたち」であることがわかる。
「あなた」は「わたしたち」である。けれど、永島は「あなた」を「わたしたち」そのものに閉じ込めようとはしていない。どこかで違ったいのちであると知っている。
そして、この「わたしたち」でありながら、「あなた」という「他人」が、永島のこの2行のなかでは、不思議な形で出会い、「息(声)」として、それを「同じもの」の出会いとして「肉体」化しているのだ。
あなたの朝の海をわたしに売ってください
わたしの星の空をあなたに買ってください
この2行の「文法」はおかしい。「学校教科書」なら、間違っている、といわれるだけである。けれど、その「間違い」は、「わたし」と「あなた」の入れ換え、「朝の海」と「星の空」の入れ換え、「に売ってください」と「に買ってください」の入れ替えのなかで、とても美しい「音」になる。
「音」そのものの「対句(?)」が、文法の間違いを消し去り、同時に「文法」を超えることばの運動を教えてくる。
間違える--というのは、とても楽しい。そして、この間違いのなかで、「わたし」と「あなた」は出会い、入れ替わり、新しい何事かを始めるのだ。
いいなあ。こんなことばに出会って、新成人になれるなんて。うらやましくて、しようがない。
こんなふうに「わたし」と「あなた」を出会わせるひとがいる街はいいなあ。碧南というのは行ったことがないけれど、行ってみたいなあ。永島に会ってみたいなあ、と思うのである。
あなたの朝の海をわたしに売ってください
わたしの星の空をあなたに買ってください
新しい風紋の道に迷ってしまい
これから始まる出会いや別れの切なさを
誰に告げればよいのだろう
いつも知らないふりをしながら逢っていて
いつも指を結び合いながら
見つめあうふたりの勇気と信頼を
愛しい土地に賭けながら
さわやかに光る旗を夢みていたのです
樹葉から落ちる透明な雫を掌に包み
寂しさで震える川の物語を
遠い昔のように知っておりました
わたしの水の筋肉をあなたに買ってください
あなたの空の野菜をわたしに売ってください
*
補足。
あなたの朝の海を「あなたは」わたし「のため」に売ってください
わたしの星の空を「あなたは」あなた「のため」に買ってください
と、「あなた」ということばを補って説明した部分で、書き漏らしたことがある。ひとは誰でも自分にとってあまりにも密着しすぎていることばを「省略」してしまう。こういう「無意識」にまでなってしまって、ついつい省略されることばのなかにこそ、私はそのひとの「思想」があると思っている。
「左岸」では「わたし」であった。「わたし」が「思想」であるというのは、まあ、わかりやすいことかもしれない。
永島の「思想」の特徴は、それが「わたし」に限定されないことである。
この詩の、「あなた」がそれを証明している。
永島にとって「わたし」が「肉体」(思想)であると同時に、「あなた」(わたし以外のひと)も「肉体」になってしまっている「思想」なのである。
その不思議な結合が「長い息」、「息のなかでねじくれることば」となって動いている。
碧南偏執的複合的私言―永島卓詩集 (1966年) | |
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