詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河野聡子「確実に詩に関するロング・ワード」(2)

2011-04-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
河野聡子「確実に詩に関するロング・ワード」(2)(「サクラコいずビューティフルと愉快な仲間たち」2、2011年03月20日発行)

 「文体」は破壊できるか。
 河野聡子「確実に詩に関するロング・ワード」を読んでいると、そういう設問をしてみたくなる。けれど、小林坩堝「薔薇は咲いたら枯れるだけ」、金子鉄夫「吐きそうさ、ニシオギクボ」と読んで、もう一度河野のことばを読むと、どうも怪しくなる。
 河野がどれだけ「文体」を壊してみても、それは河野のそのことばのなかだけのことであり、私の「文体」は壊れない。むしろ、私の「肉体」のなかで、「文体」が「もちこたえてしまう」。奇妙な「文体」に同調するのではなく、それは私の「文体」を映し出し、点検するための「鏡」のように作用してしまう。

 ひとのふり見て、わがふり直せ、ということ?

 うーん。
 私が「文体」の破壊、破壊されて輝く「文体」ということで思い出すのは西脇順三郎である。西脇はたしかに「日本語」の「文体」を壊している。でも、その「壊す」は「乱調」である。つまり、そこにはいくら壊れても(壊しても)、「調べ」が残っている。「文字」の「文体」は壊しても、「音の文体」(音体?)はきちんと残っている。というか、西脇のことばからは、「音体」が次々に生まれてくる。その「音体」が美しいので、「文体」が破壊されていても気にならない。
 金子鉄夫のことばの運動にも「音体」というものがある。
 河野の作品に戻ってみる。5日に引用した部分のつづき。

日本語の口語自由詩について研究した人は、周知のとおり規格と季節単語になる文語の韻を踏むこの音律も少しももっていないもののようなセグメントひびのような外観さえ保たないで、散文詩と呼ばれます。

 ここでは「口語自由詩」と「俳句」(季語、五七五のリズム、文語による作品)を比較しているのである。しかし、比較しているということ以外は何もわからない。「散文詩」は季語をもたない(季語が主要なテーマにならない)、五七五ではない、文語ではないというだけでは、それは散文詩の定義にはならないだろう。「俳句」以外の文学を定義しているだけである。
 --このあたりの、「文体」の動き。それが河野の「肉体」かもしれない。
 何かを定義するとき、その何かとは違うものを持ってきて、それではない、という「文体」。たしかに、「それではない」。でも、「それではない」ものなど、「それ」以外のすべてであるから、「それ」ではないと定義するだけでは、そこにあるもの、定義しようとしたものを定義したことにはならない。
 詩は「普通の文ではない」。これで満足できるとしたら、とても不思議だ。散文詩は「俳句ではない」。これも、定義にはならないだろう。

音律も少しももっていないもののようなセグメントひびのような外観さえ保たないで、散文詩と呼ばれます。

 ここには、もってい「いない」、保た「ない」とふたつの「否定」が出てくるが、これも「それではない」ものを差し出して何かを定義する方法である。同じことを河野は繰り返している。
 そうすると……。
 というのは、かなり大胆な「飛躍」かもしれないが、河野の「文体」は、やはり壊れていないのである。いつでも、どこでも、何かを定義するとき、「○○ではない」のような「ない」(否定)を提示することで、ある方向性を示す。ベクトルを形作ってみせる。その「文体」が河野のことばの運動のなかではつづいているのである。
 「詩に関するロング・ワード」というけれど、それが「ロング」になってしまうのは、対象を直接定義せず、対象以外のものを取り上げて、それは「対象そのものではない」を繰り返すからである。これは、果てしない遅延なのである。
 遅延すること--これが、河野の詩である。(おっ、なんだかフランス現代思想みたいな表現になってきたなあ。--と、知りもしないのに、私は書くのである。)
 「散文詩」もきっと「遅延」なのだ。遅れることなのだ。「遅れる」は、また「逸脱」とも言うことができるかもしれないなあ。(フランス現代思想が特異な人、あってます? 私の書いていること。)
 遅延しつづける文体、逸脱しつづける文体--けれども、河野の文体は、そうとも呼べない気がする。狙いは「遅延」(逸脱)なのかもしれないが、そういうときこそ「肉体」を潜り抜けるということが必要なのだが、河野のことばは「肉体」ではなく、「頭」を通過しているだけのような感じである。ことばとことばの間に、「肉体」を感じさせる共通項目がない。共通感覚がない。
 それは小林坩堝の「きらめく」「瞳」と「喪失」の感じに似ている。
 これって、「文体」ではなく、もしかすると「ことば(単語)」がこわれているのじゃないのかなあ。どのとこばでもいいのだが、河野の書いていることば(単語)は、誰とも共有されないものなのじゃないのかな? 「ことば(単語)」を「共通のもの」と理解してスタートすると、どこへも行けないんじゃないのかな?
 私は「ことばが壊れている」という前提ではなく、「文体が壊れている」という前提で読みはじめているから、これ以上は、先へ進めないねえ。
 「文体が壊れている」と思って読みはじめたが、「ことばが壊れている」ということに気がついた、とし書けないなあ。

 ことばの破壊--は、これもとても難しい問題だが、その破壊のときも、やはり「音」は壊れない、というのが私の「肉体」の感覚である。谷川俊太郎の「かっぱらっぱかっぱらった」がいい例だが、いつだってことばの「音」は壊れない。この「壊れない音」にまで到達し、いま河野が書いている「文体」が成り立つなら、これはおもしろいことになるなあ、という予感はある。
 でも、これ以上、河野の文体につきあうには、目の悪い私には苦痛である。読み違えたのかなあと、何度も何度も繰り返さないと、正しく読んだ(?)か、間違えたかわからないというのは、これは、不親切というものだろう。
 あ、「倫理」の時間になってしまった。


時計一族
河野 聡子
思潮社


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ナボコフ『賜物』(40)

2011-04-08 11:37:47 | ナボコフ・賜物
 ワシリーエフの執務室の描写。執務室から見た街の描写。

窓辺には(窓の向こうに立っている同じような高層のオフィスビルは補修中だったが、作業は空中のあまりに高いところで行われていたので、ちぎれて裂け目のできた灰色の雲もついでに修繕できそうに思えた)オレンジが一個半載った果物鉢と、食欲をそそるブルガリア・ヨーグルトの小さな壺が置かれ、本棚のいちばん下の鍵のかかった引き出しには奇談の葉巻と赤と青に彩られた大きな心臓の模型がしまわれていた。
                                 (97ページ)

 何が書かれているかわからない。つまり、ここに書かれていることが、この小説のなかでどんな「意味」をもっているのかわからない。これらかのストーリーの伏線になるのかもしれないが、ことばがあまりに多すぎて、伏線だとしてもきっと思い出せない。
 きっと、伏線なんかではないのだ。ただ、そのことばが書きたいだけなのだ。
 この、作家特有の欲望は、特に丸カッコ内に挿入(追加?)された部分に感じる。「ちぎれて裂け目のできた灰色の雲もついでに修繕できそうに思えた」という文は非常に印象的で、それだけを読むためにもう一度このページを私は読み返してしまうのだが、ナボコフはこのことばが書きたかったのだと思う。
 挿入されたことば、追加されたことば、逸脱していくことば--それこそをナボコフは書きたいと思っている。ナボコフは「作家」に分類されるけれど、こういう欲望の発散のさせ方を見ると、「詩人」と読んだ方がいい。
 詩人だけれど詩ではなく、小説を選ぶ。それは小説の方がどんなことばでも受け入れる猥雑さをもっているからだろう。


ナボコフの1ダース (サンリオ文庫)
ウラジミール ナボコフ
サンリオ
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