詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西岡寿美子「2010リポート(三)」

2011-04-21 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
西岡寿美子「2010リポート(三)」(「二人」290 、2011年04月05日発行)

 西岡寿美子「2010リポート(三)」に、ちょっと不思議なことばが出てくる。

わたしら子供は
学校の行き戻りにノビル、ワラビを摘み
榎実(えのみ)を齧りケンポナシを拾い
アケビの笑み割れで秋の深まりを知った

道中では狐つきの姉様に呪いをかけられたり
集落の爺様(じさま)にいかがわしい性教育を授けられたり
肺患の娘に通ういい男ぶりの人とも知り合い
戦場帰りのセキやんは
脳天ファイラーだかメイファラーだかとばぶれ
わたしらはろくでなしの耳年増に育ち上がった

 「脳天ファイラーだかメイファラーだかとばぶれ」の最後の方。あれっ、これ、何? ちょっと困る。「ばぶれ」? どきっとする。どきどきする。
 アケビの「笑み割れ」とか、耳年増に「育ち上がった」とか、少しかわった表現もある。きっと西岡の「育ち上がった」土地独特の言い方なのだと思う。意味は、もちろん、すぐにわかる。アケビは熟れてくると、ぱっかりと皮が割れる。それを「笑ったように」西岡の育った土地では言うのだろう。育ち上がったは、成長した、である。
 「ばぶれ」は、そういう具合には、「わかる」ことができない。
 けれど、わからないがゆえに「笑み割れ」「育ち上がった」よりも強く「わかる」。「肉体」の奥へ手をぐいと突っ込まれたように「わかる」。
 私が西岡の方へ(西岡のことばの方へ)近付いて行って「理解」するのではなく、西岡のことばが、私の「肉体」のなかの何かをひっぱりだそうとしている。私の「肉体」のなかの何かが、西岡のことばによってひっぱりだされるのを、何か待ち望んでいる感じなのだ。
 セキやんは、きっと戦場で何か衝撃的なことを体験し、正常ではなくなったのだろう。そして「おれは、どうせ脳天ファイラーだ」(脳天メイファラーだ)というような、西岡にははっきりとはわからないことを、暴力的な声で叫びながら暴れている。その、標準語(?)では、うまく伝えられない暴力・乱暴が「ばぶれ」という「音」のなかにあって、読んだ瞬間、私の「肉体」は不思議な共感を覚え、ぞくっとするのである。
 私は実際に、戦場帰りの誰それの、正常ではなくなった意識・肉体に出会ったことはないのだが、どこかでそういうことを聞き、無意識的にそういうものと対面したいと望んでいるのかもしれない。自分の「肉体」(意識)を超える暴力的なもの、「肉体」を突き破っていく何かを見てみたいという欲望があるのかもしれない。その欲望と、「ばぶれ」という「音」、それが「意味するもの」が、共感したがっている--そういうべきなのかもしれない。
 「ばぶれ」が何かわからないまま、私は、そんなことを感じたのである。

 詩を最後まで読んでいくと「ばぶれる=暴れる・自棄を言う」という注釈がついている。私の「わかる」と感じたこととぴったり重なるというわけではないが、なんとなく重なる部分がある。
 「音」には、何か、そういう力がある。正確ではないが、それらしい「意味」を想像させる力がある。
 ことばは、そういう「音」の力をうちに抱えたまま動いている--そういうことを、私はいつも感じている。

 そして。
 こういう「音」の力が「音の力」そのものとして働くためには、ちょっと矛盾したことを書いてしまうけれど、そこに国語の「肉体」がないといけない。西岡のことばは、方言を含みながら(ばぶれる、は方言だろう)、他方で国語の「文法」を「肉体」として持っている。ただし私が言う「文法」というのは、「文法」の教科書に書いてあることとはかなり違う。私が言う「文法」とは、「ことばの蓄積」(ことばがどんなふうに他のことばと脈絡をもつかという蓄積)のことである。粒来哲蔵の詩に触れて「国語の肉体」と呼んだものに通い合うもののことである。
 具体的に言うと。
 「ばぶれ(る)」という表現の前に、「狐つきの姉様に呪いをかけられたり」「爺様にいかがわしい性教育を授けられたり」「肺患の娘に通ういい男ぶりの人」「戦場帰り」「脳天」ということばがある。そのことばは、どれも何かしら「正常」とは違った印象を呼び覚ます。そして(たぶん精神が、理性が)「正常」ではないのだが、それを忘れさせるくらい「肉体」の「本能」(欲望)の方は正常なのである。超越的に輝いているのである。その、精神と肉体(本能、欲望)の対比(?)のさせ方、向かい合わせ方--この「構文」に「国語の肉体」がある。西岡は、そういう「肉体」を利用しながらことばを動かしている。
 そのことばの「運動」、「ことばの肉体の運動」から、粒来のことばを借りていえば、「ひとりでに」、「ばぶれ(る)」ということばが動きだす。「ばぶれ(る)」の「意味」は「ひとりでに」決まってしまうのである。
 また、「脳天ファイラーだかメイファラーだかとばぶれ」の「だか……だかと+動詞」という構文(これこそ「学校教科書」の構文だけれど)も重要である。「だか……だかと」が一種の常套句であるから、つぎの「ばぶれ(る)」が「動詞」であることが「ひとりでに」決まるのである。
 西岡は「日本語の肉体」をしっかりと身につけている詩人である。「肉体」がしっかりしているからことばが「ひとりでに」動いていけるのだ。

北地-わが養いの乳
西岡 寿美子
西岡寿美子


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ナボコフ『賜物』(44)

2011-04-21 10:30:43 | ナボコフ・賜物

 森の中に深く入っていった。小道に敷かれた黒い板は、ぬるぬるして滑りやすく、赤みを帯びた花弁の連なりやへばりついた木の葉に覆われていた。いったい誰がこのベニタケを落としていったんだろう、笠が破れ、扇のような白い裏側を見せている。その疑問に答えるように、呼びかわす声が聞こえてきた。女の子たちがキノコやコケモモを採りに来ていたのだ。それにしてもあのコケモモ、木になっているときよりも、バスケットに入れられたときのほうがよっぽど黒く見える!
                                (125 ページ)

 ナボコフの表現には「色」がたくさん出てくる。うるさいくらいである。黒、赤、白とつづいて出てくるこの文章では、しかし、その直接でてきた色よりも、最後の「よっぽど黒く見える!」が印象的である。同じコケモモでも色が変わる。その変化に、目が引きつけられていく。
 だが、この文章でそれが印象的なのは、そこに色の運動(変化)があるからだけではない。そこに繊細な感覚があるからだけではない。
 途中に「呼びかわす声が聞こえてきた。女の子たちがキノコやコケモモを採りに来ていたのだ。」という「色」以外のものが挿入されているからである。黒、赤、白という「色」が少女たちの「声」によっていったん洗い流される。そのあと、新しい目で「黒」だけを見つめるから、黒の変化がくっきり見えるのだ。
 女の子の「声」が挿入されなかったら、黒の変化は、赤と白に邪魔されて、よく分からないものになったに違いない。

ナボコフ伝 ロシア時代(下)
B・ボイド
みすず書房
コメント (1)
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