詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(5)

2011-04-26 23:59:59 | 詩集
永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(5)(思潮社、2011年04月25日発行)

 永島卓のことばの特徴は、独特の「呼吸」(息継ぎ)にある。永島は句読点のある詩と句読点のない詩を書いているが、句読点はあってもなくても、とても変である。読点「、」は「呼吸」(息継ぎ)の位置を示すはずであるが、それは「息継ぎ」だけではなく、「飛躍」(逸脱)をもあらわすことがある。
 永島のことばは、「ひと呼吸」のなかにふたつのものを持ち込むことろにあるときのうまでの「日記」に書いたが、「呼吸」のたびに逸脱していくということもある。「呼吸」のたびに逸脱してゆき、「文章」のなかに複数のものが「融合」して存在するという形をとるものもある。
 「ニック・ユーサーに出会った場所」の書き出し。

 なぜって言われても、此処に立っているのは、ぼおお
ーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、風まかせの
梯子が、どちらに倒れてゆくのか見定めてゆく場所。

 読点「、」(呼吸)のたびに、ことばが「逸脱」していく。「なぜって言われても、」は以後のことばが動いていくための「理由」だから、次に動くことばとのあいだに「飛躍」があってもいいのだが、それ以後がとても変である。「此処に立っているのは、」は「主語」(主題)をあらわしているはずだが、次に「述語」がこない。「此処に立っているのは、○○である」の「○○である」がない。「ぼおおーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、風まかせの」の次に来る「梯子」が○○にあたるかもしれないが、「である」がない。「文法」が「学校教科書」の説明しているようには文章を構成していないのである。別なことばで言えば、「文法」がでたらめである。
 そして、この「でたらめな文法」を作り上げているものというか、「文法を破壊しているもの」というのが、「逸脱」である。「此処に立っているは、」とそこまで言ってひと呼吸したとき、新しく吸い込んだ息が、永島の「肉体」のなかに何か新しいものを目覚めさせ、その成長をあおるのである。そうやって噴出してきたのが「ぼおおーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、」である。もしかすると、永島は「此処に立っているのは風である」と言おうとしたのかもしれない。でも、その「風」が「ぼおおーんぼおおーん」と鳴っていることに気が付いた瞬間、「である」という「述語」を忘れてしまったのかもしれない。同時に、その風の「ぼおおーんぼおおーん」という不思議な鳴り方に刺激されて、「空」が「太く伸びて」ゆくのを感じたのかもしれない。空が太く伸びてゆくというのは変だけれど、風の動きが空の動きということかもしれない。私は、お、風が太く動いていって「空」になってしまうのか、すごいぞ、と感じてしまう。「日本語」として変なのだが(文法的には変なのだが)、その変を超えて、変ではないものを感じてしまう。変であっても、変でなくてもいいのかもしれないが、何かを感じてしまうので、永島のことばをそのまま読んでしまう。そこに「息の長さ」、「長い息のなか」でことばがねじくれながらどこかへ行こうとする「力」そのものを感じ、それに身をまかせてしまうのである。
 このとき、私は「此処に立っているのは、」という「テーマ(主語)」を忘れてしまう。テーマを破ってあらわれた「風」が強烈過ぎて、風を追ってしまうのだが……。あれれっ。読点「、」を挟んで、「風まかせの梯子が、」と「此処に立っているのは、」につながるような「梯子」の登場で、あ、「ぼおおーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、」というのは「風」を修飾する「節」だったのか、と気が付く。(でも、それは「正しい」ことかどうかわからないから、「錯覚する」とでもいっておいた方がいいかもしれない)。そして、その「節」を長い長い逸脱だなあ。長い長い息の永島だからできる逸脱だなあ、と思う。私はこんな長いことばを逸脱のままもちこたえることができない。どうしたって、自分がことばをもちこたえられるように整理してしまう。整えてしまう。「文法にあわせた文脈」にしてしまう。
 でも、この「長いひと呼吸」、長い逸脱は永島の「肉体」にも影響するんだろうなあ。「主語」が「風」を通り抜けて「梯子」になったあと、「梯子」の「述語」がまた変になる。「梯子」の述語は「倒れてゆく」(これは、日本語として正しいね)なのか、あるいは「見定めてゆく」(梯子が見定めるというのは、日本語として正しくないね)なのか。どうにも、判断ができかねる。「梯子が見定めてゆく」というのは日本語として正しくはない(?)のだけれど、梯子がどっちへ倒れてゆこうかなと考えている、決めようとしているというふうにして読むと、そうか、梯子はそんなことを思うのか、とも納得してしまう。永島の長い呼吸に影響されて、私のことば自体が「文法」を逸脱して動いてゆくのである。

 で。

 長々と書いたのだが、永島のこの書き出しを読むと--あ、ほんとうは、ここから書きはじめるべきだったかもしれないなあ。
 この書き出しを読むと、「文法」的にはおかしいのだが、「此処」に「梯子」が立っていて、その梯子のために風が「ぼおおーんぼおおーん」と鳴っていて(風がぶつかって音を立てていて)、その音の太さ(太い音、太い声、という言い方があるね)のために、まるで風が空になっていくようにも感じられる。同時に、あまりに太い風なので、梯子が倒れそう。どっちに倒れていくのかなあ、とぼんやり(?)見ていた--此処は、それを見定める「場所」なのだと言いたいんだろうなあ、と感じる。
 理路整然と(つまり正確な「文法」で)書かれたとしたら、それはそれで「わかりやすい」かもしれないけれど……。
 でも、この「わかりにくい」文体、ことばの動きを追うと、「意味」ではなく、そこにある「ぼおおーんぼおおーん」という鳴る風が気持ちよくて、これは「整理」してほしくないなあ、とも思うのだ。「整理」されない乱れ、呼吸そのもののなかにある乱暴な(文法を破壊しながらそれでも動いてしまう)ことばの力--それが、永島のことばの気持ちよさなんだなあと感じるのだ。永島のことばが、長い長い息となって、私の「肉体」のなかを吹き渡るのを感じるのだ。まるで、私自身が永島の「肉体」になったような感じがするのだ。

 そのとき。

 私は、はっと気が付く。そして、とっても恥ずかしくなる。
 「此処に立っているのは、」の「主語」は「風」ではない。「梯子」でもない。「わたし」なのだ。「わたし」の「肉体」なのだ。
 「わたし」は此処に立っています。なぜと言われれば、ぼおおーんぼおおーと風が鳴っているからです。そして、ぼおおーんぼおおーんと鳴る風は、太く伸びて空になる、いや空はぼおおーんぼおおーんと鳴る風のために太く伸びてゆくからです。そんなふうに感じられるからです。梯子は風にまかせてゆれています。梯子はどっちへ倒れてゆくかなあ、と「わたし」はそれを見定めるために、此処に立っているのです。
 「わたし」(永島)という「肉体」を、そこに書かれていることばに「挿入」すれば、あらゆることばの「乱れ」は乱れではなくなる。永島の「肉体」がいつでも省略されている。
 永島の今回の詩集を読みはじめたときの、「左岸」の冒頭の1行。

七月のあなたを待っていました昔からこのサガンのなかで

 この「倒置法」の文章のようにもみえる1行の、その「呼吸」、省略された読点「、」はほんとうは「わたし」なのである。七月のあなたをまっていました。「わたしは」昔からこのサガンのなかで。さらにいえば、

「わたしは」七月のあなたを待っていました。「わたしは」昔からサガンのなかで。

 というのが、この1行なのである。繰り返される「わたし」。それは繰り返されることで無意識にかわり、そこから消えていくのだ。ことばを動かすとき、私たちはだれでも「肉体」を意識などしない。意識しないけれど、そこには「肉体」がある。その「肉体」をことばのなかに戻してやると(意識して、ことばを読むと)、わかることがある。
 ことばを読む--このとき、私たちは、書いた人の「肉体」を忘れてしまいがちである。そして、「肉体」を忘れてしまうから、わからなくなるのだ。「声」を聞かないいから、わからなくなるのだ。
 「意味」はたしかにことばのなかにあるのだが、ひとと対話しているとき私たちは「ことば」の「意味」だけに注意しているわけではない。「声」を聞いている。「声」の調子を聞いている。そして、そこに「ことばの意味」を超えるもの、その「声」を出す人の「肉体」のなかに動いているものを感じている。「意味」がわからなくても怒っているということがわかったり、「意味」がわからなくても悲しんでいるとわかったりする。笑っているけれど、悲しんでいる、涙をこらえているということがわかったりする。

 だんだん話がずれていってしまいそうだ。書いていることが、永島の詩から逸脱してしまいそうだ。けれど、きっとこの逸脱が永島の詩にもどることなのだ。

 永島の詩のことばは、「呼吸」に魅力がある。それは「省略」されたとき、ふたつのものを強い力で結びつける。そういうことをまず私は書いた。この「呼吸」は「肉体」そのものであるということに、私は気が付いた。「わたし」(永島)という「肉体」が「省略」されるとき、それはふたつのものを結びつける。他者を結びつける。
 ここから強引に飛躍するのだが……。
 永島の「省略」した「わたし」の「肉体」のなかには、「わたし」だけではなく「他者」がいる。ほんとうはていねいに書かないといけないのかもしれないけれど、乱暴に書いてしまうと「左岸」では、「サガンのある街」の「ひとびと」がときどき省略されている。

(わたしたちの)昔の哀しい物語を詰めたんだ(わたしたちの)傷ついた布袋が
路地に山積され(わたしたちは)あなたを此処から落としすることはできません

 「わたし」ではなく「わたしたち」が、そこには書かれていたのだ。「あなた」と「区別」がなくなるのは「わたし」であると同時に「わたしたち」だったのだ。
 「夏の冬」で「絶望」していたのは「わたし」だけではない。「わたしたち」だったのだ。永島が「生きている」と感じているときに、同時に「ここ」に生きている人々を含んでいるのだ。「ここ」は時にはサガンのある街という局所(?)であり、あるときは日本(広島、長崎)である。「いま」は「いま」であると同時に「かつて」でもある。
 永島の「わたしという肉体」には、「わたし」を超えて連帯する「ひと」がいる。永島は「連帯」というようなことばを使うかどうか知らないが、「わたし」を超えてつづいている「いのち」の意識が動いている。
 「わたし」ではなく「わたしたち」。だから、「息」のなかに「わたし」を超える何か変なもの(?)が紛れ込んで、ねじくれていくのである。永島の「肉体」はそういうものを引き受けながら、息を吐き出し、「わたしたち」の「音」を「声」に、つまり「ことば」にしている。
 永島の「息」は、そういう「巨大な息」である。

 「ニック……」については、句読点のことでまだ書きたいことがあったのだけれど、いま書いたことのなかに、消えてしまった。だから、省略。
 あすは、もう一回、別の詩について。




永島卓詩集 (1973年)
永島 卓
国文社


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マイケル・ウィンターボトム監督「キラー・インサイド・ミー」(★★★)

2011-04-26 11:45:55 | 映画
監督 マイケル・ウィンターボトム 出演 ケイシー・アフレック、ケイト・ハドソン、ジェシカ・アルバ

 田舎町の保安官助手。この男がだんだん殺人に目覚めていく。ひとを殺すことがやめられなくなる。とてもおとなしい感じがするし、肉体的にも頑丈な感じがしないのだが、破壊のよろこびを知っている。
 恋人(2人)を殴り殺すシーンがすごい。顔(頭の骨)がくずれるまでに殴りつづける。内臓が破裂するまで殴りつづける。残酷なのだが、あまり残酷さがつたわってこない。2人は、どうも、この男の「本質」を知っている。知っているといっても、「頭」で理解しているわけではない。「肉体」で共感している。破壊すること-破壊されることのつながりのなかで、主人公の男と出会っていることを納得している感じがする。だから、殴り殺されることを受け入れる。「キラー・インサイド・ミー」の「ミー」は基本的には主人公の保安官助手をさすのだが、被害者のありようもまた、別の意味で「キラー」なのだ。誘っているのだ。こういう見方は、女性蔑視につながるかもしれないので、「誘っている」ということばはよくないのかもしれないが、何か、自分自身の力で生きていくという感じ、何がなんでも(つまり、主人公のように他人を殺してまでも)生きていくという感じがつたわってこない。特に娼婦の女は通いつめてくる父子から金をまきあげようとしているのに、その感情が「ことば」だけで「肉体」からあふれてこない。それが主人公を動かす。「その手にのった。おれがやってやる」という感じ。
 これはふたりの女だけではない。主人公を追い詰めていく捜査官や、被害者たちもそうなのである。どこかで男が「殺人者」になるのを許している。組合の幹部は、とっくにすべてを見抜いているのに(特に娼婦殺しの犯人が保安官助手であることを、「論理的」に証明し、男をおいつめているのに)、男が殺人者になることを許している。「よた話は頭の悪い奴のところでしろ」と、何度も主人公の男に言っている。「嘘をつくな、ほんとうのことは見抜いている」と何度も警告しているが、それは「もっとうまくやれよ」と言っている、「もっと気をつけて完全アリバイにしろ」とそそのかしているようも感じられる。どこかで、保安官助手が経営者を殺してくれれば組合員の生活は楽になるとまではいわないが、恨みつらみが発散できると感じているのかもしれない。経営者父子(娼婦の愛人父子)が殺されることを望んでいるような感じなのだ。
 それは街全体が望んでいることなのかもしれない。「街」そのもののなかに「キラー」が存在していて、その「思い」が主人公の肉体のなかで発酵し、噴出するのかもしれない。あくまでも静かで、落ち着いた(沈滞した?)街の風景がそんな感じを思い起こさせる。「街」の外からやってきた捜査官は、いわば、この「空気」に阻まれて主人公を追い詰めることがなかなかできないのかもしれない。
 この不思議な「事件」の背後には、また、「殺人者」を許してしまったこと、見逃してしまったことを、「自分の責任」と感じるひとの存在もある。上司の保安官がそうである。主人公の行為を見抜けなかった。そのことに責任を感じて自殺するのだが、この責任をとって自殺するという行為が、よくよく考えるとおかしなものであることがわかる。上司が自殺しても部下が逮捕されるわけではない。殺人が起きなくなるわけではない。保安官の自殺あとに、主人公は女教師を殺している。
 主人公のなかの「キラー」のを許す、助長する--というのは、主人公にとっては昔からそうだったのだ。昔から「許された男」だったのだ。幼い少女をレイプしたときは、「養子」の兄が身代わりになった。主人公は罰せられなかった。自分の悪は罰せられることはない--男は、どこかでそう信じ込んでしまっている。その不思議な狂気、それを受け入れてしまう街の狂気--それが静かに静かに動いている。ケイシー・アフレックの肉体からは女を殴り殺すような暴力を感じることができないのだが、それがこの静かな静かな「街全体の狂気」を象徴しているようでもある。
 ちょっと(いや、かなり不気味)な映画である。この狂気に、真っ正直に反応するのがアルコール中毒(?)のホームレスだけ、という構図が映画を弱くしているのかもしれない。そのホームレスの肉体だけが、肉体の痛みと感覚が一致している。感情が一致しているように感じられる。このホームレスひとりの肉体と「ストーリー」が向き合うのは、映画としてかなり厳しい。
 「どこが」と正確に指摘できないのだが、どこかでつくり間違えてしまったという印象が残り、もどかしい感じのする映画である。
                      (2011年04月22日、シネリーブル2)

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「現代詩講座」2

2011-04-26 10:09:12 | 現代詩講座
 「現代詩講座」の参加者が詩を読み、それぞれに感想を語り合った。20行以内の詩を持ち寄り、その場で読んで、その場で感想を語り合うという、即興詩ならぬ「即興感想」のような感じで、これはなかなかむずかしいやりとりだった。

 この日の作品のなかから2篇。

  お作法について      吉本洋子

茶道教室に通い始めたのですが
先生のおっしゃる言葉が良く分かりません
恥骨を立てて下さい
なんだか恥ずかしい気分で尋ねました
私の恥骨は眠っているのでしょうか
正しくイメージすれば脳が覚えてくれると
先生はおっしゃいます

あなたの場合脳もまた働いていません
毎日上を向いて暮らしていると首の後ろが圧迫され
脳に十分な酸素が供給されません
顎を引いて目線はやや下方に
足裏を正しく地面につけて歩かなければなりません
上ばかり向いていては見えるものも見えません
地面に開いた穴だって見逃します

先生私の足が踏んでいるのは猫の尾でしょうか
茂り始めたシロツメクサでしょうか
先生のおっしゃる正しい歩き方って

先生お釜が沸騰してお湯が噴き零れています
あらあらあなた畳の縁は踏んではいけません

 2連目の「顎を引いて……」以後の部分は、その通りだ、いや説教くさい。あるいは「上を向いて歩こう」という「教え」が多いなかで「下を向いて」というのはおもしろい、という意見があった。守られて当然のことが「お作法」になっている点に「時代」を感じる、などなど、「内容」(意味)に反応した読み方が、いろいろ語られた。
 一方で、最後のどんでん返し(落ち?)がおもしろい。ことばのずれ方がおもしろい、という意見があった。1連目の「恥骨を立てて下さい/なんだか恥ずかしい気分で尋ねました/私の恥骨は眠っているのでしょうか」という意見もあった。ひとり一言ずつという限定で感想を語り合ったので、なかなか「読み方」を深めていくということまではできなかったのだが、私もこの3行が非常におもしろいと思った。
 そのとき私がおおざっぱに語ったこと、思ったことを、少し補足しておく。

 「恥骨を立てて下さい」という行の中にある「恥」。それが「恥ずかしい」を呼び覚ます。ことばは、「音」で呼び覚まされて動くものがある一方で、「文字」で呼び覚まされて動くものもある。「恥骨」には、それが「恥骨」と名づけられただけの理由があるのだろうけれど、ことばをあとから知った人間は、そういうことは関係なく「音」や「文字」に反応し、そこから「暴走する」ことがある。想像力がかってにどこかへ疾走し始めることがある。
 「恥骨」から「恥」という一文字への暴走。それが、私にはとてもおもしろかった。先生は、「恥骨」を「恥ずかしい」とは思わない。だから「恥骨」という。けれど、そのことばを聞いた「私(吉本)」は「音」ではなく「恥(骨)」という文字に反応して「恥ずかしい」という気持ちへ暴走する。
 この「文字」とは「漢字」、つまり「表意」文字である。一字一字が意味を持つ。あるいは絵画のような形象を持つ。別なことばでいうと、「イメージ」を持つ。「漢字」にはそれぞれ「イメージ」がある。
 そんなことを私は考えるけれど、その「イメージ」が次の行に「正しくイメージすれば脳が覚えてくれる」という形で出てくる。「正しくイメージすれば脳が覚えてくれる」というのは一種の「哲学」であるけれど、「イメージ」が「恥(骨)」→「恥」という漢字そのものとなってつながって動くので、この1行がとてもわかりやすい。「恥(骨)」→「恥」という移行は、「こころ」ではなく「脳」の動きでもある。「漢字」という「文字」そのものに寄り掛かるようにして動いている。「こころ」は「漢字」などには頼らずに動くだろう。「脳」は、「文字」のような「学問」に関係して動くのである。
 この「正しくイメージすれば脳が覚えてくれる」は、「イメージ論」として、おもしろいというか、説得力があると思う。特に「恥骨」→「恥」という「こころ」の動き、その移行のあり方を鮮明に描き出していると思う。「イメージ」のように「見える」ものにしていると思う。「こころ」の動き、というのは、本来目に見えないのだけれど、「漢字」のおかげで「動き」が見える。そういう効果をあげている。
 2連目は、私は感心しなかったが、3連目はおもしろい。私が踏んでいるもの--それが私にわからないわけはない。普通は。ここでは、「私(吉本)」は「わざと」わからないふりをしている。嘘をついている。(私の「現代詩講座」は「詩は気障な嘘つき」というのがテーマである。)で、この「嘘」のなかには、「実体」はない。「実体」はなくて、「イメージ」がある。先生に、「イメージ」で反論しているのである。
 「恥骨を立てて下さい」は「私(吉本)」にとって「イメージ」である。なんだか、よくわからない。「立てて下さい」は「イメージ」としてはわかるけれど、実際の「肉体」の動きとしてはわからない。わからないから「恥ずかしい気分で尋ね」もしたのである。で、そのわけのわからない「イメージ」のなかでとまどっている「私(吉本)」が踏んでいるもの--それは先生から見ればどんな「イメージ」なんですか? 猫の尾っぽ? シロツメクサ? ねえ、教えて下さい。
 「わざと」のなかには、ちょっと意地悪があるね。先生への仕返しがあるね。こういうやりとりって「日常」でもあるね。そんなことが紛れ込んでくる。「嘘」に「ほんとう」が紛れ込んでくる。--こういうのが、おもしろい。私は好きだなあ。
 意地悪されると、ちょっと時間が止まる。意地悪に引っ張られて何かを見落としてしまう。そして、4連目がやってくる。

先生お釜が沸騰してお湯が噴き零れています
あらあらあなた畳の縁は踏んではいけません

 「先生……」と言ったのは「私(吉本)」。先生、ぼんやりしていてはいけませんよ。これは仕返しだね。
 それに対して、先生は「あらあらあなた畳の縁は踏んではいけません」と、我にかえって「作法」で反撃する。
 いいなあ、このやりとり。

 でも、いちばんいいのは、やはり1連目の「恥骨を立てて下さい」からの3行だね。この3行があるから、ことばがここまで動いてきた。ことばは、ことば自身の力で動いてしまう。それを詩人がわきから支えるようにしてついていく。そのとき、詩が生まれるのかもしれない。



  花びら     上原和恵

毎年何事もなかったように
生み出されている花
去年の満開の花はまぶしげだった
今年の三月の出来事を
桜は知っているだろうか

幹は苔むし亀裂が走り
皮はめくれ
無残にも中身をさらけ出し
現実をむき出しにしている

うわべだけの華やかな
薄紅色の花は
いっそうしらじらしい
群れをなし散っていく花びらは
沈んだ心を一層沈ます
冷たい風が身体を通り抜け
地面は真白く心も凍てつく

風に弄ばれ
コンクリートの歩道に舞い降りた
ひとひらの花びらを
心に刻みつけた

 この詩について最初の発言者が「東日本大震災」について書いたものだと指摘したとき、私は正直びっくりしてしまった。ほとんど全員が大震災を思い浮かべたと知って、さらに驚いた。このことについてはあとで書くことにして……。
 大震災と理解して読んだ仲間は、2連目を桜の悲惨な状況と描いているととらえた。津波のために幹から折れてしまった、老いた桜である。しかし、その傷ついた桜が花を咲かせ散っていく--そこにいのちの力を読みとっている。これは多くの仲間の共通の解釈のように感じられた。そして、そういういのちの力に共感するからこそ「うわべだけのはなやかな」からの3行に対して「桜がかわいそう」という声も聞かれた。日本画の世界を思い浮かべる仲間がいて、またこの詩を書いた上原をタフな詩人だと批評する声も出た。桜の、この生命力に怖さを感じるという声もあった。最後の1行の「心に刻みつけた」の「心」は「私の心」のことか、とひとりが念押しをした。上原が被災地に咲く桜、そして散っていく桜をみて、それを「わたしの(上原の)」こころに刻みつけた--そのことに対する共感の確認であった。
 私はみんなの感想を聞きながら、あ、そういうことを描いているのか--と教えられながら、どうしても疑問に思い、聞いてみた。
 「どうして、震災のことを描いていると思う?」
 「今年の三月の、で震災を思わないひとはいない」
 たしかにそうなのだが……。

 私は、この詩を大震災以後のことを書いていると思わなかった理由を書いておく。私は「去年」と「今年の三月」の組み合わせから、この詩は「三月」にもなっていないときの詩と思った。「今年の三月」に起ることを知っているか、と疑問に思っている詩だと思い、読み始めたのである。起きたことではなく、「予兆」を描いた詩として読んだのである。(予兆だとしても、「今年の三月」なら大震災、ということになる--と指摘を受けた。)
 なるほどなあ。
 それでも、私の意識は大震災とは結びつかなかった。
 なぜだろう。
 私は、いま思い返すと、大震災を「今年の三月」のこととは思っていないのだ。みんなと語り合っていたときは気がつかなかったが、大震災は「今年の三月」のできごとではない。「今年の三月」というのは、「去年」から見ると未来であり、いま(4月)から見ると過去である。--ところが、私には大震災が「過去」とは感じられない。そのためかもしれない。大震災のことを書くとしても、私は「今年の三月」という言い方をしないと気がついたのだ。「今年の」という限定が、私の「読み方」とうまい具合に出会えなかったのである。
 こういう「時間」がときどき、ある。
 「今年の」(あるいは、何年前の)から、無関係に存在する「時間」がある。たとえば、8月6日、8月9日、8月15日。そして、9月11日。さらに3月11日。(1月17日という人もいると思うけれど。)それは何年前だっけ? よくわからない。けれど、その日付だけははっきりわかる。
 大震災の詩であると思わなかった理由はもうひとつある。私には大震災の詩が書けないからである。ことばが動かない。私のことばは、大震災の発生から、ずーっと遅れている。追いつけない。だから、大震災のことが書かれているとは思いつくこともできなかったのだ。
 
 あ、ここに大震災に向けて、自分自身のことばでかかわっていこうとする人がいる--そう気づいて、この「講座」はおもしろいものになると思った。ことばの力を借りて(利用して)自分から出ていく、自分からでてどこかへ行こうとする。そこにも、かならず詩がある、詩が動く、と思う。





 よみうりFBS文化センター「現代詩講座」は次の要領で開催してます。受講生を募集中です。
テーマは、

詩は気取った嘘つきです。いつもとは違うことばを使い、だれも知らない「新しい私」になって、友達をだましてみましょう。

現代詩の実作と鑑賞をとおして講座を進めて行きます。
このブログで紹介した作品も取り上げる予定です。

受講日 第2、4月曜日(月2回)
    13時-14時30分(1 時間30分)
受講料 3か月全納・消費税込み
    1万1340円(1か月あたり3780円)
    維持費630円(1か月あたり 210円)
開 場 読売福岡ビル9階会議室
    (福岡市中央区赤坂1、地下鉄赤坂駅2番出口から徒歩3分)

申し込み・問い合わせ
    よみうりFBS文化センター
    (福 岡)TEL092-715-4338
         FAX092-715-6079
    (北九州)TEL093-511-6555
         FAX093-541-6556
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