永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(5)(思潮社、2011年04月25日発行)
永島卓のことばの特徴は、独特の「呼吸」(息継ぎ)にある。永島は句読点のある詩と句読点のない詩を書いているが、句読点はあってもなくても、とても変である。読点「、」は「呼吸」(息継ぎ)の位置を示すはずであるが、それは「息継ぎ」だけではなく、「飛躍」(逸脱)をもあらわすことがある。
永島のことばは、「ひと呼吸」のなかにふたつのものを持ち込むことろにあるときのうまでの「日記」に書いたが、「呼吸」のたびに逸脱していくということもある。「呼吸」のたびに逸脱してゆき、「文章」のなかに複数のものが「融合」して存在するという形をとるものもある。
「ニック・ユーサーに出会った場所」の書き出し。
読点「、」(呼吸)のたびに、ことばが「逸脱」していく。「なぜって言われても、」は以後のことばが動いていくための「理由」だから、次に動くことばとのあいだに「飛躍」があってもいいのだが、それ以後がとても変である。「此処に立っているのは、」は「主語」(主題)をあらわしているはずだが、次に「述語」がこない。「此処に立っているのは、○○である」の「○○である」がない。「ぼおおーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、風まかせの」の次に来る「梯子」が○○にあたるかもしれないが、「である」がない。「文法」が「学校教科書」の説明しているようには文章を構成していないのである。別なことばで言えば、「文法」がでたらめである。
そして、この「でたらめな文法」を作り上げているものというか、「文法を破壊しているもの」というのが、「逸脱」である。「此処に立っているは、」とそこまで言ってひと呼吸したとき、新しく吸い込んだ息が、永島の「肉体」のなかに何か新しいものを目覚めさせ、その成長をあおるのである。そうやって噴出してきたのが「ぼおおーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、」である。もしかすると、永島は「此処に立っているのは風である」と言おうとしたのかもしれない。でも、その「風」が「ぼおおーんぼおおーん」と鳴っていることに気が付いた瞬間、「である」という「述語」を忘れてしまったのかもしれない。同時に、その風の「ぼおおーんぼおおーん」という不思議な鳴り方に刺激されて、「空」が「太く伸びて」ゆくのを感じたのかもしれない。空が太く伸びてゆくというのは変だけれど、風の動きが空の動きということかもしれない。私は、お、風が太く動いていって「空」になってしまうのか、すごいぞ、と感じてしまう。「日本語」として変なのだが(文法的には変なのだが)、その変を超えて、変ではないものを感じてしまう。変であっても、変でなくてもいいのかもしれないが、何かを感じてしまうので、永島のことばをそのまま読んでしまう。そこに「息の長さ」、「長い息のなか」でことばがねじくれながらどこかへ行こうとする「力」そのものを感じ、それに身をまかせてしまうのである。
このとき、私は「此処に立っているのは、」という「テーマ(主語)」を忘れてしまう。テーマを破ってあらわれた「風」が強烈過ぎて、風を追ってしまうのだが……。あれれっ。読点「、」を挟んで、「風まかせの梯子が、」と「此処に立っているのは、」につながるような「梯子」の登場で、あ、「ぼおおーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、」というのは「風」を修飾する「節」だったのか、と気が付く。(でも、それは「正しい」ことかどうかわからないから、「錯覚する」とでもいっておいた方がいいかもしれない)。そして、その「節」を長い長い逸脱だなあ。長い長い息の永島だからできる逸脱だなあ、と思う。私はこんな長いことばを逸脱のままもちこたえることができない。どうしたって、自分がことばをもちこたえられるように整理してしまう。整えてしまう。「文法にあわせた文脈」にしてしまう。
でも、この「長いひと呼吸」、長い逸脱は永島の「肉体」にも影響するんだろうなあ。「主語」が「風」を通り抜けて「梯子」になったあと、「梯子」の「述語」がまた変になる。「梯子」の述語は「倒れてゆく」(これは、日本語として正しいね)なのか、あるいは「見定めてゆく」(梯子が見定めるというのは、日本語として正しくないね)なのか。どうにも、判断ができかねる。「梯子が見定めてゆく」というのは日本語として正しくはない(?)のだけれど、梯子がどっちへ倒れてゆこうかなと考えている、決めようとしているというふうにして読むと、そうか、梯子はそんなことを思うのか、とも納得してしまう。永島の長い呼吸に影響されて、私のことば自体が「文法」を逸脱して動いてゆくのである。
で。
長々と書いたのだが、永島のこの書き出しを読むと--あ、ほんとうは、ここから書きはじめるべきだったかもしれないなあ。
この書き出しを読むと、「文法」的にはおかしいのだが、「此処」に「梯子」が立っていて、その梯子のために風が「ぼおおーんぼおおーん」と鳴っていて(風がぶつかって音を立てていて)、その音の太さ(太い音、太い声、という言い方があるね)のために、まるで風が空になっていくようにも感じられる。同時に、あまりに太い風なので、梯子が倒れそう。どっちに倒れていくのかなあ、とぼんやり(?)見ていた--此処は、それを見定める「場所」なのだと言いたいんだろうなあ、と感じる。
理路整然と(つまり正確な「文法」で)書かれたとしたら、それはそれで「わかりやすい」かもしれないけれど……。
でも、この「わかりにくい」文体、ことばの動きを追うと、「意味」ではなく、そこにある「ぼおおーんぼおおーん」という鳴る風が気持ちよくて、これは「整理」してほしくないなあ、とも思うのだ。「整理」されない乱れ、呼吸そのもののなかにある乱暴な(文法を破壊しながらそれでも動いてしまう)ことばの力--それが、永島のことばの気持ちよさなんだなあと感じるのだ。永島のことばが、長い長い息となって、私の「肉体」のなかを吹き渡るのを感じるのだ。まるで、私自身が永島の「肉体」になったような感じがするのだ。
そのとき。
私は、はっと気が付く。そして、とっても恥ずかしくなる。
「此処に立っているのは、」の「主語」は「風」ではない。「梯子」でもない。「わたし」なのだ。「わたし」の「肉体」なのだ。
「わたし」は此処に立っています。なぜと言われれば、ぼおおーんぼおおーと風が鳴っているからです。そして、ぼおおーんぼおおーんと鳴る風は、太く伸びて空になる、いや空はぼおおーんぼおおーんと鳴る風のために太く伸びてゆくからです。そんなふうに感じられるからです。梯子は風にまかせてゆれています。梯子はどっちへ倒れてゆくかなあ、と「わたし」はそれを見定めるために、此処に立っているのです。
「わたし」(永島)という「肉体」を、そこに書かれていることばに「挿入」すれば、あらゆることばの「乱れ」は乱れではなくなる。永島の「肉体」がいつでも省略されている。
永島の今回の詩集を読みはじめたときの、「左岸」の冒頭の1行。
この「倒置法」の文章のようにもみえる1行の、その「呼吸」、省略された読点「、」はほんとうは「わたし」なのである。七月のあなたをまっていました。「わたしは」昔からこのサガンのなかで。さらにいえば、
というのが、この1行なのである。繰り返される「わたし」。それは繰り返されることで無意識にかわり、そこから消えていくのだ。ことばを動かすとき、私たちはだれでも「肉体」を意識などしない。意識しないけれど、そこには「肉体」がある。その「肉体」をことばのなかに戻してやると(意識して、ことばを読むと)、わかることがある。
ことばを読む--このとき、私たちは、書いた人の「肉体」を忘れてしまいがちである。そして、「肉体」を忘れてしまうから、わからなくなるのだ。「声」を聞かないいから、わからなくなるのだ。
「意味」はたしかにことばのなかにあるのだが、ひとと対話しているとき私たちは「ことば」の「意味」だけに注意しているわけではない。「声」を聞いている。「声」の調子を聞いている。そして、そこに「ことばの意味」を超えるもの、その「声」を出す人の「肉体」のなかに動いているものを感じている。「意味」がわからなくても怒っているということがわかったり、「意味」がわからなくても悲しんでいるとわかったりする。笑っているけれど、悲しんでいる、涙をこらえているということがわかったりする。
だんだん話がずれていってしまいそうだ。書いていることが、永島の詩から逸脱してしまいそうだ。けれど、きっとこの逸脱が永島の詩にもどることなのだ。
永島の詩のことばは、「呼吸」に魅力がある。それは「省略」されたとき、ふたつのものを強い力で結びつける。そういうことをまず私は書いた。この「呼吸」は「肉体」そのものであるということに、私は気が付いた。「わたし」(永島)という「肉体」が「省略」されるとき、それはふたつのものを結びつける。他者を結びつける。
ここから強引に飛躍するのだが……。
永島の「省略」した「わたし」の「肉体」のなかには、「わたし」だけではなく「他者」がいる。ほんとうはていねいに書かないといけないのかもしれないけれど、乱暴に書いてしまうと「左岸」では、「サガンのある街」の「ひとびと」がときどき省略されている。
「わたし」ではなく「わたしたち」が、そこには書かれていたのだ。「あなた」と「区別」がなくなるのは「わたし」であると同時に「わたしたち」だったのだ。
「夏の冬」で「絶望」していたのは「わたし」だけではない。「わたしたち」だったのだ。永島が「生きている」と感じているときに、同時に「ここ」に生きている人々を含んでいるのだ。「ここ」は時にはサガンのある街という局所(?)であり、あるときは日本(広島、長崎)である。「いま」は「いま」であると同時に「かつて」でもある。
永島の「わたしという肉体」には、「わたし」を超えて連帯する「ひと」がいる。永島は「連帯」というようなことばを使うかどうか知らないが、「わたし」を超えてつづいている「いのち」の意識が動いている。
「わたし」ではなく「わたしたち」。だから、「息」のなかに「わたし」を超える何か変なもの(?)が紛れ込んで、ねじくれていくのである。永島の「肉体」はそういうものを引き受けながら、息を吐き出し、「わたしたち」の「音」を「声」に、つまり「ことば」にしている。
永島の「息」は、そういう「巨大な息」である。
「ニック……」については、句読点のことでまだ書きたいことがあったのだけれど、いま書いたことのなかに、消えてしまった。だから、省略。
あすは、もう一回、別の詩について。
永島卓のことばの特徴は、独特の「呼吸」(息継ぎ)にある。永島は句読点のある詩と句読点のない詩を書いているが、句読点はあってもなくても、とても変である。読点「、」は「呼吸」(息継ぎ)の位置を示すはずであるが、それは「息継ぎ」だけではなく、「飛躍」(逸脱)をもあらわすことがある。
永島のことばは、「ひと呼吸」のなかにふたつのものを持ち込むことろにあるときのうまでの「日記」に書いたが、「呼吸」のたびに逸脱していくということもある。「呼吸」のたびに逸脱してゆき、「文章」のなかに複数のものが「融合」して存在するという形をとるものもある。
「ニック・ユーサーに出会った場所」の書き出し。
なぜって言われても、此処に立っているのは、ぼおお
ーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、風まかせの
梯子が、どちらに倒れてゆくのか見定めてゆく場所。
読点「、」(呼吸)のたびに、ことばが「逸脱」していく。「なぜって言われても、」は以後のことばが動いていくための「理由」だから、次に動くことばとのあいだに「飛躍」があってもいいのだが、それ以後がとても変である。「此処に立っているのは、」は「主語」(主題)をあらわしているはずだが、次に「述語」がこない。「此処に立っているのは、○○である」の「○○である」がない。「ぼおおーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、風まかせの」の次に来る「梯子」が○○にあたるかもしれないが、「である」がない。「文法」が「学校教科書」の説明しているようには文章を構成していないのである。別なことばで言えば、「文法」がでたらめである。
そして、この「でたらめな文法」を作り上げているものというか、「文法を破壊しているもの」というのが、「逸脱」である。「此処に立っているは、」とそこまで言ってひと呼吸したとき、新しく吸い込んだ息が、永島の「肉体」のなかに何か新しいものを目覚めさせ、その成長をあおるのである。そうやって噴出してきたのが「ぼおおーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、」である。もしかすると、永島は「此処に立っているのは風である」と言おうとしたのかもしれない。でも、その「風」が「ぼおおーんぼおおーん」と鳴っていることに気が付いた瞬間、「である」という「述語」を忘れてしまったのかもしれない。同時に、その風の「ぼおおーんぼおおーん」という不思議な鳴り方に刺激されて、「空」が「太く伸びて」ゆくのを感じたのかもしれない。空が太く伸びてゆくというのは変だけれど、風の動きが空の動きということかもしれない。私は、お、風が太く動いていって「空」になってしまうのか、すごいぞ、と感じてしまう。「日本語」として変なのだが(文法的には変なのだが)、その変を超えて、変ではないものを感じてしまう。変であっても、変でなくてもいいのかもしれないが、何かを感じてしまうので、永島のことばをそのまま読んでしまう。そこに「息の長さ」、「長い息のなか」でことばがねじくれながらどこかへ行こうとする「力」そのものを感じ、それに身をまかせてしまうのである。
このとき、私は「此処に立っているのは、」という「テーマ(主語)」を忘れてしまう。テーマを破ってあらわれた「風」が強烈過ぎて、風を追ってしまうのだが……。あれれっ。読点「、」を挟んで、「風まかせの梯子が、」と「此処に立っているのは、」につながるような「梯子」の登場で、あ、「ぼおおーんぼおおーんと風は鳴り空は太く伸びて、」というのは「風」を修飾する「節」だったのか、と気が付く。(でも、それは「正しい」ことかどうかわからないから、「錯覚する」とでもいっておいた方がいいかもしれない)。そして、その「節」を長い長い逸脱だなあ。長い長い息の永島だからできる逸脱だなあ、と思う。私はこんな長いことばを逸脱のままもちこたえることができない。どうしたって、自分がことばをもちこたえられるように整理してしまう。整えてしまう。「文法にあわせた文脈」にしてしまう。
でも、この「長いひと呼吸」、長い逸脱は永島の「肉体」にも影響するんだろうなあ。「主語」が「風」を通り抜けて「梯子」になったあと、「梯子」の「述語」がまた変になる。「梯子」の述語は「倒れてゆく」(これは、日本語として正しいね)なのか、あるいは「見定めてゆく」(梯子が見定めるというのは、日本語として正しくないね)なのか。どうにも、判断ができかねる。「梯子が見定めてゆく」というのは日本語として正しくはない(?)のだけれど、梯子がどっちへ倒れてゆこうかなと考えている、決めようとしているというふうにして読むと、そうか、梯子はそんなことを思うのか、とも納得してしまう。永島の長い呼吸に影響されて、私のことば自体が「文法」を逸脱して動いてゆくのである。
で。
長々と書いたのだが、永島のこの書き出しを読むと--あ、ほんとうは、ここから書きはじめるべきだったかもしれないなあ。
この書き出しを読むと、「文法」的にはおかしいのだが、「此処」に「梯子」が立っていて、その梯子のために風が「ぼおおーんぼおおーん」と鳴っていて(風がぶつかって音を立てていて)、その音の太さ(太い音、太い声、という言い方があるね)のために、まるで風が空になっていくようにも感じられる。同時に、あまりに太い風なので、梯子が倒れそう。どっちに倒れていくのかなあ、とぼんやり(?)見ていた--此処は、それを見定める「場所」なのだと言いたいんだろうなあ、と感じる。
理路整然と(つまり正確な「文法」で)書かれたとしたら、それはそれで「わかりやすい」かもしれないけれど……。
でも、この「わかりにくい」文体、ことばの動きを追うと、「意味」ではなく、そこにある「ぼおおーんぼおおーん」という鳴る風が気持ちよくて、これは「整理」してほしくないなあ、とも思うのだ。「整理」されない乱れ、呼吸そのもののなかにある乱暴な(文法を破壊しながらそれでも動いてしまう)ことばの力--それが、永島のことばの気持ちよさなんだなあと感じるのだ。永島のことばが、長い長い息となって、私の「肉体」のなかを吹き渡るのを感じるのだ。まるで、私自身が永島の「肉体」になったような感じがするのだ。
そのとき。
私は、はっと気が付く。そして、とっても恥ずかしくなる。
「此処に立っているのは、」の「主語」は「風」ではない。「梯子」でもない。「わたし」なのだ。「わたし」の「肉体」なのだ。
「わたし」は此処に立っています。なぜと言われれば、ぼおおーんぼおおーと風が鳴っているからです。そして、ぼおおーんぼおおーんと鳴る風は、太く伸びて空になる、いや空はぼおおーんぼおおーんと鳴る風のために太く伸びてゆくからです。そんなふうに感じられるからです。梯子は風にまかせてゆれています。梯子はどっちへ倒れてゆくかなあ、と「わたし」はそれを見定めるために、此処に立っているのです。
「わたし」(永島)という「肉体」を、そこに書かれていることばに「挿入」すれば、あらゆることばの「乱れ」は乱れではなくなる。永島の「肉体」がいつでも省略されている。
永島の今回の詩集を読みはじめたときの、「左岸」の冒頭の1行。
七月のあなたを待っていました昔からこのサガンのなかで
この「倒置法」の文章のようにもみえる1行の、その「呼吸」、省略された読点「、」はほんとうは「わたし」なのである。七月のあなたをまっていました。「わたしは」昔からこのサガンのなかで。さらにいえば、
「わたしは」七月のあなたを待っていました。「わたしは」昔からサガンのなかで。
というのが、この1行なのである。繰り返される「わたし」。それは繰り返されることで無意識にかわり、そこから消えていくのだ。ことばを動かすとき、私たちはだれでも「肉体」を意識などしない。意識しないけれど、そこには「肉体」がある。その「肉体」をことばのなかに戻してやると(意識して、ことばを読むと)、わかることがある。
ことばを読む--このとき、私たちは、書いた人の「肉体」を忘れてしまいがちである。そして、「肉体」を忘れてしまうから、わからなくなるのだ。「声」を聞かないいから、わからなくなるのだ。
「意味」はたしかにことばのなかにあるのだが、ひとと対話しているとき私たちは「ことば」の「意味」だけに注意しているわけではない。「声」を聞いている。「声」の調子を聞いている。そして、そこに「ことばの意味」を超えるもの、その「声」を出す人の「肉体」のなかに動いているものを感じている。「意味」がわからなくても怒っているということがわかったり、「意味」がわからなくても悲しんでいるとわかったりする。笑っているけれど、悲しんでいる、涙をこらえているということがわかったりする。
だんだん話がずれていってしまいそうだ。書いていることが、永島の詩から逸脱してしまいそうだ。けれど、きっとこの逸脱が永島の詩にもどることなのだ。
永島の詩のことばは、「呼吸」に魅力がある。それは「省略」されたとき、ふたつのものを強い力で結びつける。そういうことをまず私は書いた。この「呼吸」は「肉体」そのものであるということに、私は気が付いた。「わたし」(永島)という「肉体」が「省略」されるとき、それはふたつのものを結びつける。他者を結びつける。
ここから強引に飛躍するのだが……。
永島の「省略」した「わたし」の「肉体」のなかには、「わたし」だけではなく「他者」がいる。ほんとうはていねいに書かないといけないのかもしれないけれど、乱暴に書いてしまうと「左岸」では、「サガンのある街」の「ひとびと」がときどき省略されている。
(わたしたちの)昔の哀しい物語を詰めたんだ(わたしたちの)傷ついた布袋が
路地に山積され(わたしたちは)あなたを此処から落としすることはできません
「わたし」ではなく「わたしたち」が、そこには書かれていたのだ。「あなた」と「区別」がなくなるのは「わたし」であると同時に「わたしたち」だったのだ。
「夏の冬」で「絶望」していたのは「わたし」だけではない。「わたしたち」だったのだ。永島が「生きている」と感じているときに、同時に「ここ」に生きている人々を含んでいるのだ。「ここ」は時にはサガンのある街という局所(?)であり、あるときは日本(広島、長崎)である。「いま」は「いま」であると同時に「かつて」でもある。
永島の「わたしという肉体」には、「わたし」を超えて連帯する「ひと」がいる。永島は「連帯」というようなことばを使うかどうか知らないが、「わたし」を超えてつづいている「いのち」の意識が動いている。
「わたし」ではなく「わたしたち」。だから、「息」のなかに「わたし」を超える何か変なもの(?)が紛れ込んで、ねじくれていくのである。永島の「肉体」はそういうものを引き受けながら、息を吐き出し、「わたしたち」の「音」を「声」に、つまり「ことば」にしている。
永島の「息」は、そういう「巨大な息」である。
「ニック……」については、句読点のことでまだ書きたいことがあったのだけれど、いま書いたことのなかに、消えてしまった。だから、省略。
あすは、もう一回、別の詩について。
永島卓詩集 (1973年) | |
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