詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

倉田良成『小倉風体抄』

2011-04-02 23:59:59 | 詩集
倉田良成『小倉風体抄』(ミッドナイト・プレス、2011年01月27日発行)

 倉田良成『小倉風体抄』は「小倉百人一首」を冒頭に掲げ、それに「現代詩」を向き合わせている。「現代詩訳・小倉百人一首」ではなく、百人一首を読むことで動いた倉田のことばを向き合わせた--ということだと思う。
 私は、その全部を読んだわけではないのだが、おもしろくなかった。読みとばしたページにおもしろい詩があるかもしれないが、全部読み通す気力がわかなかった。
 何がおもしろくないか、といえば、ことばがストーリーに従事しているからである。
 ストーリーといっても「現代詩訳」ではないから、そのストーリーは百人一首のストーリーではない。むしろ、倉田は元歌のストーリーからは離れてみせる。つまり、まったくストーリーをぶつけ、百人一首から離れる。百人一首から離れるために、百人一首が書いていないストーリーをぶつける。
 そこに、なんともいえない「退屈」が入り込んでくる。
 ストーリーから離れるのに、別のストーリーに頼る--というのでは、詩は生まれない。いや、どんな文学も生まれないのではないか。

 文学とは、特に文学を題材とした文学とは「誤読」でなくてはならない。ある作品を読み、それに触発されて(あるいは、単に素材の手がかりとしてであってもいいのだが)、ことばを動かす--そのときのことばの運動は「原典」の内部へ内部へと突き進み、その結果として「原典」を突き破って、いま、ここにはないところまで突き進まなければならない。あることば--それを強引にねじ曲げ、原典のことばではたどりつけないところへ行かなければならない。そして、そこには「祈り」が入っていないといけない。
 倉田の作品には、そういう「誤読」がない。ただ、百人一首と重ならないだけなのだ。これでは、なぜ百人一首を題材に選んだのか、さっぱりわからない。

 --いま書いたことを、別のことばで言いなおすと……。
 たとえば「ドン・キホーテ」。その作品は「騎士物語」の「誤読」によって成り立っている。「騎士物語」を「実践」してしまう奇妙な男によって成り立っている。狂気のドン・キホーテは「理想の騎士」になろうとしている。ドン・キホーテにとって「理想の騎士」は「祈り」なのである。彼の、かなわぬ夢なのである。
 「騎士物語」を読んで、そこから離れて「海賊物語」を書いたのでは「誤読」にならない。農村の「恋愛物語」を書いたのでは「誤読」による言語の活性化にはならない。
 「騎士」とは無関係にことばを動かしても、それは「誤読」ではないから、「騎士物語」の書き換えにはならない。どころか、「騎士物語」と向き合っていることにもならない。

 倉田のこの詩集は「百人一首」と向き合わせる形で作品が書かれているが、何も向き合っていない。ことばが向き合っていない。倉田のことばが百人一首のことばを批評していない。「誤読」してない。
 たとえば「めぐり逢ひて」。紫式部の「めぐり逢ひて見しやそれとも分ぬまに雲がくれにし夜半の月影」を題材にしている。その内容は、恋愛とは無関係のことである。
 昔の友だちと久々に会った。(めぐり会った、という題材が使われている。)その友だちは、実は病院に入院するために「わたし」の街にやってきて、そこで「わたし」と会っただけなのだ。その最後の部分。

入院なら毎日おみまいにゆくよと言ったら、来ないでほしいからこうして会いに来た。お願い、そこに来るなんてことかんがえないで。もうあたし、誰にも会うことのないところへ行くの。とささやいたあの夜の声を、わたしはけっして忘れない。

 「雲隠れ」は「死」に置き換えられている。「雲隠れ」の「隠れる」は「死」をさすことばとしても使われることがあるから、ここにはどんな「批評」もない。どんな批評もせずに、「隠れる」を借りてきて、「死」と言い換えているにすぎない。
 これだけのことを書くなら、紫式部の歌を作品の冒頭に掲げることなど、必要ないだろう。だれも、この倉田の作品を読んで、これは紫式部の歌と関係があるとは思わないだろう。だれも何も思わなかったら、それは紫式部の歌を利用して新しい作品を書いたということにはならないのだ。
 文学を材料にして文学を生み出すには、原典と強い関係がなくてはならない。
 強いつながりがあって、そのつながりが強いからこそ、そのことばを振り切るようにして新しいことばが、新しい運動をしなければならない。

 文学のことばはストーリーではないのだ。同じストーリーであっても、原典から逸脱していくことばの運動があれば、それは新しいのだ。そして、原典から逸脱することばの運動ではなく、ただストリーだけが逸脱していくのは--なんといえばいちばん正確なのかわからないが、古くさい。始めて読むストーリーであっても、古くさい。
 ひとは知らないストーリーなど読みたくない。知っているストーリーだけを読みたい。知っているストーリー、知り尽くしているストーリーを、違うことばで読みたいのだ。人間なんて、ひとと出会い、好きになったり嫌いになったりしながら、別れていく。それ以外のことは、まあ、できないなあ。だれものかしている当たり前の恋だとか、愛だとかを、だれも知らないことばで読み直したいだけなのだ。読み直すことで、自分のほんとうの「物語」を「誤読」してしまいたいのだ。私の恋は(愛は、友情は)、ほんとうはこうなるはずだったんだと勘違いしたいから、ことばを読むのだ。

 「誤読」のないことろに「文学」はない。「詩」はない。



詩集 小倉風体抄
倉田 良成
ミッドナイトプレス

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ラディスラオ・ヴァホダ監督「汚れなき悪戯」(★★★)

2011-04-02 18:38:57 | 午前十時の映画祭
監督 ラディスラオ・ヴァホダ 出演 パブリート・カルボ

 見ごたえがあるのは、空。モノクロなのだが、硬くて強烈である。透明になりすぎて、天の底(?)まで見えそうな感じがする。雲の形も、私が日本でなじんでいるのは「うろこ雲」っぽいものだけで、あとは見たことがない。貧しい村の荒れた大地と向き合っているのは、こういう「天」なのだなあ、と思う。
 こういう空を毎日見ていたら、この映画のようなことも考えるかもしれない。
さえぎるものが何もない。思っていることが、そのままどこまでも筒抜けである。思ったことは、そのまま「現実」になるのだ。思ったことを、そのまま「現実」にしてしまうのがスペイン人の想像力の過激さかもしれない。
この過激さ、純粋さは、現代では、アルモドバルが引き継いでいる、と言ってしまうと、言いすぎになるかなあ。
私は、強烈な空の透明さを見た瞬間、あ、これはアルモドバルの透明な強さだ、と感じたのだ。
アルモドバルの主人公たちは、思ったことが「筒抜け」である。同じように、修道士たちの言動も、「思ったこと」が筒抜けである。マルセリーノには家庭が必要である。母親が必要である。でも、かわいいから自分たちで育てたい。そう思っている、その思いはスクリーンからはみ出して、観客に伝わる。
 まあ、マルセリーノを演じた子供がかわいいということもあるのだろうけれど。
 なんだかむちゃくちゃな映画である――というと「奇跡」を信じているキリスト教徒に叱られそうだが、しかしねえ、これはやっぱり、この映画の風土が生み出した特別なものだね。あの、「絶対透明」に到達した空が生み出したものだね。「天国」は花で満ちているかどうかわからないが、透明さでみちているんだろうなあ。マルセリーノの瞳のように。

              (「午前10時の映画祭」青シリーズ9本目、天神東宝3、03月19日)

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