小林坩堝「薔薇は咲いたら枯れるだけ」、金子鉄夫「吐きそうさ、ニシオギクボ」(「おもちゃ箱の午後」創刊号、2011年03月20日発行)
「ことば(単語)」と「文体」の関係、あるいは「文脈」の関係と言ってもいいのかもしれないが、それはあることばがどのことばと結びつくか--つまり、単語(ことば)と単語(ことば)の連続性と関係と言いなおすことができるかもしれない。文章とは「ことば(単語)」の結合体なのだから。
そして、その結合、あるいは連続性によって生じる「文体」には、どんなことばを呼吸しているかということが影響してくる。どんな文章を読んで、「文体」感覚を身につけたかということが関係してくる。
そして、この「文体感覚」というのは、一種の「肉体」である。「ことば(単語)」の「好み」(なぜ、そのことばを選んでしまうかという問題)と同じように、繰り返し、肉体をくぐることで--読むこと、話すことをとおして、自然に鍛えられるものである。
だから、あるとき、自分の知らないことばの連続に出会ったら、びっくりしてしまう。驚いてしまう。つまずいてしまう。
きのう読んだ河野聡子「確実に詩に関するロング・ワード」ほどではないが、小林坩堝「薔薇は咲いたら枯れるだけ」にもつまずく部分があった。
「星屑」という「比喩」にも驚いたが、「きらめくもの」と「喪失した」が結びついていることにつまずいてしまうのだ。「きらめく」(きらめき)は輝かしい。「喪失」(喪失する)は、私にとっては輝かしいものではない。私の意識のなかでは「喪失」は輝きの反対--暗いものである。だから「暗いきらめきを視た」ということばが先にあるなら、その「暗いきらめき」ということばの「結合」自体に矛盾があることになり、その「矛盾」を説明する形で「喪失」があらわれることには違和感がないのだが、「きらめく」と「喪失」が、なんのクッション(緩衝材)もおかずにつながってしまうと、あれ、これは何?と思ってしまうのだ。
何を書こうとしているのだろう。
いままで誰も「きらめく」と「喪失」を結びつけたひとはいないと思う。「きらめく喪失」はあるかもしれないが、そういうときは、その矛盾を補足することばが先にあるか、あとに出てくる。小林の書いているような「文体」で、「きらめく」と「喪失(した)」を書いたひとはいないと思う。(私は思い浮かべることができない。)
何を書こうとしているのだろう。
「喪失」と結びつき安いことばがひとつ出てくる。「薄闇」。そのぼんやりした感じ、明瞭ではない感覚--それは「喪失」感とかさなる。
そして、この「薄闇」と対照的なものが、ここに登場してきて「場」を作り上げる。「あかるい(雑踏)」。
「薄闇」のなかで「きらめく」「瞳」。それは、他者である。それに対して、「おれ」は「あかるい雑踏」にいる。「人びとの流れに身を任せ(動いている)」と「佇む(動かない)」は、矛盾しているので、「おれ」がどのような「動き」をしているのかわからないが、他者と私の「場」のありようが違うことだけはわかる。「薄闇」と「あかるい」。そのとき、他者が「きらめく」「瞳」をしているなら、「おれ」は?
「くらい瞳」をしていることになるのか。
瞳を書かず、小林は、ここで「薔薇」という「比喩」に飛躍する。
これは、「あかるく」はないなあ。どんなに鮮やかな色をしていたとしても、「枯れて」「散ってゆく」ものは、「喪失」に通じるものをもっている。
この「薔薇」の登場のために、(薔薇を登場させるために)、それまでの「文体」があるのかもしれない。
それにしては、ややこしいなあ、と私は思う。
「暗いくらめきを見た」。それは「あかるい雑踏のなかで呼んでいる」。それに誘われるようにして、「おれ」の胸のなかに、「喪失」を呼び覚ました。「喪失」は胸のなかで枯れた薔薇となって散っていく。その薔薇は、大切なだれかであり、また自分自身だ--というのなら、これは私には「なじみのある」抒情詩になるが、どこかが違う。
そして、この「どこかが違う」という感覚が、いつまでも、私の「肉体」のどこかにひっかかりつづける。
小林は、どんな「文体」をつくろうとしているのか。その「文体」で何を存在させようとしているのか--ちょっとわからない。どうして、こういう「文体」が生まれてくるのか、私にはわからない。
何か変--という気持ちを「保留」しておく。
*
金子鉄夫「吐きそうさ、ニシオギクボ」は、私には読みやすい「文体」である。
金子の詩も「失恋」の詩なのかもしれない。(小林の詩が失恋の詩だとしたら……。)
で、何が読みやすいかといえば、「リズム」である。「金属バットを振り回して増殖している」の「増殖している」が、もし「増えている」(増加している)だとしたら、私はちょっとついていけない。「意味」はある程度重なるのだが、リズムがどうにも気持ち悪いものになる。「増殖している」は「金属バット」という「音」ととてもにく響きあう。この感じは--どんな音と音のつながり(音の文体?)を好むかという生理的な問題(どんな音に親しんできたかという肉体の記憶の問題)なのだと思うが、この「波長」があうと、私はとても気持ちが楽になる。
「今晩も吐きそうさ、ニシオギクボ」の突然の固有名詞のぶつかり方もいいなあ。「西荻窪」なのだろうけれど、漢字ではだめなのだ。「ニシオギクボ」という「音」になってしまった感覚がいい。(私はカタカナ難読症なので「ニシオギクボ」が実際に音になるまでには普通のひとの何倍も時間がかかるのだけれど、あ、ここには「地名」ではなく、音がぶつかってきている、無意味がぶつかってきているという感じが、哀しみにはぴったりする。--これは私の単なる感じだけれど。)
「混濁した眼球で」ということばの連結、そのリズムも気持ちがいい。「混濁した瞳で」でと気持ちが悪くなる。「肉体」にべったりはりつくような感じがする。それこそ、「吐きそう」になる。そして苦しいことに「混濁した瞳で」だと、吐きたくて吐けないという苦痛が残る。「混濁した眼球で」だと、吐きそう、吐いてしまった、すっきりした、という具合に肉体が変化していけそうな気がするのだ。たとえ吐かなくても。
この1行の「感電」が美しい。「か」たれる「か」んでん、と頭韻を踏むのがおもしろい。そしてこの行は、その前の「スイッチなんてない暗夜」の「響き」とも美しく呼応しているなあと思う。な「ん」てないあ「ん」や、か「ん」で「ん」な「ん」てあるか、「なんてない」「なんてある/か」。
読んでいると、「意味」が消えていく。「音」が「肉体」に残る。「意味」が消えていくと書くと、金子を困らせることになるかもしれないけれど、「失恋」の「意味」なんて、みんなわかっている。いまさら聞きたくないからね。どんな特別な「意味」でも、ひとは失恋するものさ、で、おしまい。
そんな「意味」より、どんなことばで、どんな「音」で、それを語るか--「文体」が問題なんだよなあ。「意味」ではなく「文体」に共鳴できるかどうか。
全部が全部、共鳴できるというわけではないのだが、この詩の前半は美しいなあと思う。
「ことば(単語)」と「文体」の関係、あるいは「文脈」の関係と言ってもいいのかもしれないが、それはあることばがどのことばと結びつくか--つまり、単語(ことば)と単語(ことば)の連続性と関係と言いなおすことができるかもしれない。文章とは「ことば(単語)」の結合体なのだから。
そして、その結合、あるいは連続性によって生じる「文体」には、どんなことばを呼吸しているかということが影響してくる。どんな文章を読んで、「文体」感覚を身につけたかということが関係してくる。
そして、この「文体感覚」というのは、一種の「肉体」である。「ことば(単語)」の「好み」(なぜ、そのことばを選んでしまうかという問題)と同じように、繰り返し、肉体をくぐることで--読むこと、話すことをとおして、自然に鍛えられるものである。
だから、あるとき、自分の知らないことばの連続に出会ったら、びっくりしてしまう。驚いてしまう。つまずいてしまう。
きのう読んだ河野聡子「確実に詩に関するロング・ワード」ほどではないが、小林坩堝「薔薇は咲いたら枯れるだけ」にもつまずく部分があった。
地下鉄は、年の深奥を貫いて往く。
おれはドアのガラス越しに、
なにか、きらめくものを視た。
星屑のようなそれは、
闇のなかにいくつも視えた。
瞳だ、
下車すべき駅を喪失した、
乗車すべき駅を喪失した、たくさんの瞳、
が
濡れてこちらを視ているのだ。
「星屑」という「比喩」にも驚いたが、「きらめくもの」と「喪失した」が結びついていることにつまずいてしまうのだ。「きらめく」(きらめき)は輝かしい。「喪失」(喪失する)は、私にとっては輝かしいものではない。私の意識のなかでは「喪失」は輝きの反対--暗いものである。だから「暗いきらめきを視た」ということばが先にあるなら、その「暗いきらめき」ということばの「結合」自体に矛盾があることになり、その「矛盾」を説明する形で「喪失」があらわれることには違和感がないのだが、「きらめく」と「喪失」が、なんのクッション(緩衝材)もおかずにつながってしまうと、あれ、これは何?と思ってしまうのだ。
何を書こうとしているのだろう。
いままで誰も「きらめく」と「喪失」を結びつけたひとはいないと思う。「きらめく喪失」はあるかもしれないが、そういうときは、その矛盾を補足することばが先にあるか、あとに出てくる。小林の書いているような「文体」で、「きらめく」と「喪失(した)」を書いたひとはいないと思う。(私は思い浮かべることができない。)
何を書こうとしているのだろう。
はしる列車の振動のうえ、
瞳は薄闇のなかで、呼んでいる、
ちかちかと瞬いて、
呼んでいる、呼んでいる、……
カーブを曲がると、プラットホーム、
人びとの流れに身を任せ、あかるい雑踏に佇むおれの、
胸に一輪、薔薇が枯れて散ってゆく。
「喪失」と結びつき安いことばがひとつ出てくる。「薄闇」。そのぼんやりした感じ、明瞭ではない感覚--それは「喪失」感とかさなる。
そして、この「薄闇」と対照的なものが、ここに登場してきて「場」を作り上げる。「あかるい(雑踏)」。
「薄闇」のなかで「きらめく」「瞳」。それは、他者である。それに対して、「おれ」は「あかるい雑踏」にいる。「人びとの流れに身を任せ(動いている)」と「佇む(動かない)」は、矛盾しているので、「おれ」がどのような「動き」をしているのかわからないが、他者と私の「場」のありようが違うことだけはわかる。「薄闇」と「あかるい」。そのとき、他者が「きらめく」「瞳」をしているなら、「おれ」は?
「くらい瞳」をしていることになるのか。
瞳を書かず、小林は、ここで「薔薇」という「比喩」に飛躍する。
胸に一輪、薔薇が枯れて散ってゆく。
これは、「あかるく」はないなあ。どんなに鮮やかな色をしていたとしても、「枯れて」「散ってゆく」ものは、「喪失」に通じるものをもっている。
この「薔薇」の登場のために、(薔薇を登場させるために)、それまでの「文体」があるのかもしれない。
それにしては、ややこしいなあ、と私は思う。
「暗いくらめきを見た」。それは「あかるい雑踏のなかで呼んでいる」。それに誘われるようにして、「おれ」の胸のなかに、「喪失」を呼び覚ました。「喪失」は胸のなかで枯れた薔薇となって散っていく。その薔薇は、大切なだれかであり、また自分自身だ--というのなら、これは私には「なじみのある」抒情詩になるが、どこかが違う。
そして、この「どこかが違う」という感覚が、いつまでも、私の「肉体」のどこかにひっかかりつづける。
小林は、どんな「文体」をつくろうとしているのか。その「文体」で何を存在させようとしているのか--ちょっとわからない。どうして、こういう「文体」が生まれてくるのか、私にはわからない。
何か変--という気持ちを「保留」しておく。
*
金子鉄夫「吐きそうさ、ニシオギクボ」は、私には読みやすい「文体」である。
いちまい皮を捲くれば
(企み)をもったマリーたちが
金属バットを振り回して増殖している
僕のからだ
今晩も吐きそうさ、ニシオギクボ
(企み)をもった、そのマリーたちが
毛穴から
混濁した眼球で外をのぞくたび
吐きそうさ
どこへ歩いてもいきどまり
スイッチなんてない暗夜
今さら僕に語れる感電なんてあるか?
金子の詩も「失恋」の詩なのかもしれない。(小林の詩が失恋の詩だとしたら……。)
で、何が読みやすいかといえば、「リズム」である。「金属バットを振り回して増殖している」の「増殖している」が、もし「増えている」(増加している)だとしたら、私はちょっとついていけない。「意味」はある程度重なるのだが、リズムがどうにも気持ち悪いものになる。「増殖している」は「金属バット」という「音」ととてもにく響きあう。この感じは--どんな音と音のつながり(音の文体?)を好むかという生理的な問題(どんな音に親しんできたかという肉体の記憶の問題)なのだと思うが、この「波長」があうと、私はとても気持ちが楽になる。
「今晩も吐きそうさ、ニシオギクボ」の突然の固有名詞のぶつかり方もいいなあ。「西荻窪」なのだろうけれど、漢字ではだめなのだ。「ニシオギクボ」という「音」になってしまった感覚がいい。(私はカタカナ難読症なので「ニシオギクボ」が実際に音になるまでには普通のひとの何倍も時間がかかるのだけれど、あ、ここには「地名」ではなく、音がぶつかってきている、無意味がぶつかってきているという感じが、哀しみにはぴったりする。--これは私の単なる感じだけれど。)
「混濁した眼球で」ということばの連結、そのリズムも気持ちがいい。「混濁した瞳で」でと気持ちが悪くなる。「肉体」にべったりはりつくような感じがする。それこそ、「吐きそう」になる。そして苦しいことに「混濁した瞳で」だと、吐きたくて吐けないという苦痛が残る。「混濁した眼球で」だと、吐きそう、吐いてしまった、すっきりした、という具合に肉体が変化していけそうな気がするのだ。たとえ吐かなくても。
今さら僕に語れる感電なんてあるか?
この1行の「感電」が美しい。「か」たれる「か」んでん、と頭韻を踏むのがおもしろい。そしてこの行は、その前の「スイッチなんてない暗夜」の「響き」とも美しく呼応しているなあと思う。な「ん」てないあ「ん」や、か「ん」で「ん」な「ん」てあるか、「なんてない」「なんてある/か」。
読んでいると、「意味」が消えていく。「音」が「肉体」に残る。「意味」が消えていくと書くと、金子を困らせることになるかもしれないけれど、「失恋」の「意味」なんて、みんなわかっている。いまさら聞きたくないからね。どんな特別な「意味」でも、ひとは失恋するものさ、で、おしまい。
そんな「意味」より、どんなことばで、どんな「音」で、それを語るか--「文体」が問題なんだよなあ。「意味」ではなく「文体」に共鳴できるかどうか。
全部が全部、共鳴できるというわけではないのだが、この詩の前半は美しいなあと思う。