詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小林坩堝「薔薇は咲いたら枯れるだけ」、金子鉄夫「吐きそうさ、ニシオギクボ」

2011-04-07 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
小林坩堝「薔薇は咲いたら枯れるだけ」、金子鉄夫「吐きそうさ、ニシオギクボ」(「おもちゃ箱の午後」創刊号、2011年03月20日発行)

 「ことば(単語)」と「文体」の関係、あるいは「文脈」の関係と言ってもいいのかもしれないが、それはあることばがどのことばと結びつくか--つまり、単語(ことば)と単語(ことば)の連続性と関係と言いなおすことができるかもしれない。文章とは「ことば(単語)」の結合体なのだから。
 そして、その結合、あるいは連続性によって生じる「文体」には、どんなことばを呼吸しているかということが影響してくる。どんな文章を読んで、「文体」感覚を身につけたかということが関係してくる。
 そして、この「文体感覚」というのは、一種の「肉体」である。「ことば(単語)」の「好み」(なぜ、そのことばを選んでしまうかという問題)と同じように、繰り返し、肉体をくぐることで--読むこと、話すことをとおして、自然に鍛えられるものである。
 だから、あるとき、自分の知らないことばの連続に出会ったら、びっくりしてしまう。驚いてしまう。つまずいてしまう。
 きのう読んだ河野聡子「確実に詩に関するロング・ワード」ほどではないが、小林坩堝「薔薇は咲いたら枯れるだけ」にもつまずく部分があった。

地下鉄は、年の深奥を貫いて往く。
おれはドアのガラス越しに、
なにか、きらめくものを視た。
星屑のようなそれは、
闇のなかにいくつも視えた。
瞳だ、
下車すべき駅を喪失した、
乗車すべき駅を喪失した、たくさんの瞳、

濡れてこちらを視ているのだ。

 「星屑」という「比喩」にも驚いたが、「きらめくもの」と「喪失した」が結びついていることにつまずいてしまうのだ。「きらめく」(きらめき)は輝かしい。「喪失」(喪失する)は、私にとっては輝かしいものではない。私の意識のなかでは「喪失」は輝きの反対--暗いものである。だから「暗いきらめきを視た」ということばが先にあるなら、その「暗いきらめき」ということばの「結合」自体に矛盾があることになり、その「矛盾」を説明する形で「喪失」があらわれることには違和感がないのだが、「きらめく」と「喪失」が、なんのクッション(緩衝材)もおかずにつながってしまうと、あれ、これは何?と思ってしまうのだ。
 何を書こうとしているのだろう。
 いままで誰も「きらめく」と「喪失」を結びつけたひとはいないと思う。「きらめく喪失」はあるかもしれないが、そういうときは、その矛盾を補足することばが先にあるか、あとに出てくる。小林の書いているような「文体」で、「きらめく」と「喪失(した)」を書いたひとはいないと思う。(私は思い浮かべることができない。)
 何を書こうとしているのだろう。

はしる列車の振動のうえ、
瞳は薄闇のなかで、呼んでいる、
ちかちかと瞬いて、
呼んでいる、呼んでいる、……
カーブを曲がると、プラットホーム、
人びとの流れに身を任せ、あかるい雑踏に佇むおれの、
胸に一輪、薔薇が枯れて散ってゆく。

 「喪失」と結びつき安いことばがひとつ出てくる。「薄闇」。そのぼんやりした感じ、明瞭ではない感覚--それは「喪失」感とかさなる。
 そして、この「薄闇」と対照的なものが、ここに登場してきて「場」を作り上げる。「あかるい(雑踏)」。
 「薄闇」のなかで「きらめく」「瞳」。それは、他者である。それに対して、「おれ」は「あかるい雑踏」にいる。「人びとの流れに身を任せ(動いている)」と「佇む(動かない)」は、矛盾しているので、「おれ」がどのような「動き」をしているのかわからないが、他者と私の「場」のありようが違うことだけはわかる。「薄闇」と「あかるい」。そのとき、他者が「きらめく」「瞳」をしているなら、「おれ」は?
 「くらい瞳」をしていることになるのか。
 瞳を書かず、小林は、ここで「薔薇」という「比喩」に飛躍する。

胸に一輪、薔薇が枯れて散ってゆく。

 これは、「あかるく」はないなあ。どんなに鮮やかな色をしていたとしても、「枯れて」「散ってゆく」ものは、「喪失」に通じるものをもっている。

 この「薔薇」の登場のために、(薔薇を登場させるために)、それまでの「文体」があるのかもしれない。
 それにしては、ややこしいなあ、と私は思う。
 「暗いくらめきを見た」。それは「あかるい雑踏のなかで呼んでいる」。それに誘われるようにして、「おれ」の胸のなかに、「喪失」を呼び覚ました。「喪失」は胸のなかで枯れた薔薇となって散っていく。その薔薇は、大切なだれかであり、また自分自身だ--というのなら、これは私には「なじみのある」抒情詩になるが、どこかが違う。
 そして、この「どこかが違う」という感覚が、いつまでも、私の「肉体」のどこかにひっかかりつづける。

 小林は、どんな「文体」をつくろうとしているのか。その「文体」で何を存在させようとしているのか--ちょっとわからない。どうして、こういう「文体」が生まれてくるのか、私にはわからない。
 何か変--という気持ちを「保留」しておく。



 金子鉄夫「吐きそうさ、ニシオギクボ」は、私には読みやすい「文体」である。

いちまい皮を捲くれば
(企み)をもったマリーたちが
金属バットを振り回して増殖している
僕のからだ
今晩も吐きそうさ、ニシオギクボ
(企み)をもった、そのマリーたちが
毛穴から
混濁した眼球で外をのぞくたび
吐きそうさ
どこへ歩いてもいきどまり
スイッチなんてない暗夜
今さら僕に語れる感電なんてあるか?

 金子の詩も「失恋」の詩なのかもしれない。(小林の詩が失恋の詩だとしたら……。)
 で、何が読みやすいかといえば、「リズム」である。「金属バットを振り回して増殖している」の「増殖している」が、もし「増えている」(増加している)だとしたら、私はちょっとついていけない。「意味」はある程度重なるのだが、リズムがどうにも気持ち悪いものになる。「増殖している」は「金属バット」という「音」ととてもにく響きあう。この感じは--どんな音と音のつながり(音の文体?)を好むかという生理的な問題(どんな音に親しんできたかという肉体の記憶の問題)なのだと思うが、この「波長」があうと、私はとても気持ちが楽になる。
 「今晩も吐きそうさ、ニシオギクボ」の突然の固有名詞のぶつかり方もいいなあ。「西荻窪」なのだろうけれど、漢字ではだめなのだ。「ニシオギクボ」という「音」になってしまった感覚がいい。(私はカタカナ難読症なので「ニシオギクボ」が実際に音になるまでには普通のひとの何倍も時間がかかるのだけれど、あ、ここには「地名」ではなく、音がぶつかってきている、無意味がぶつかってきているという感じが、哀しみにはぴったりする。--これは私の単なる感じだけれど。)
 「混濁した眼球で」ということばの連結、そのリズムも気持ちがいい。「混濁した瞳で」でと気持ちが悪くなる。「肉体」にべったりはりつくような感じがする。それこそ、「吐きそう」になる。そして苦しいことに「混濁した瞳で」だと、吐きたくて吐けないという苦痛が残る。「混濁した眼球で」だと、吐きそう、吐いてしまった、すっきりした、という具合に肉体が変化していけそうな気がするのだ。たとえ吐かなくても。

今さら僕に語れる感電なんてあるか?

 この1行の「感電」が美しい。「か」たれる「か」んでん、と頭韻を踏むのがおもしろい。そしてこの行は、その前の「スイッチなんてない暗夜」の「響き」とも美しく呼応しているなあと思う。な「ん」てないあ「ん」や、か「ん」で「ん」な「ん」てあるか、「なんてない」「なんてある/か」。
 読んでいると、「意味」が消えていく。「音」が「肉体」に残る。「意味」が消えていくと書くと、金子を困らせることになるかもしれないけれど、「失恋」の「意味」なんて、みんなわかっている。いまさら聞きたくないからね。どんな特別な「意味」でも、ひとは失恋するものさ、で、おしまい。
 そんな「意味」より、どんなことばで、どんな「音」で、それを語るか--「文体」が問題なんだよなあ。「意味」ではなく「文体」に共鳴できるかどうか。
 全部が全部、共鳴できるというわけではないのだが、この詩の前半は美しいなあと思う。


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誰も書かなかった西脇順三郎(205 )

2011-04-07 23:44:04 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。

 西脇の詩にはときどき変なところがある。とってもおかしいところがある。たとえば「梵」のなかほど。

でも地球の最大な人間の記憶は
「ボンショウ」の音だ
ただひとり歩いている音など
もつともつまらない地球の記憶だ
あの考える男などは
考える銅にすぎない
考えてもだめなんだ

 ここには「人間」を「音」ととらえる西脇がいる。「人間」を「音」ととらえるとき、その「音」は西脇にとっては「つくりだしたもの」(わざと)でないといけない。「ボンショウ(梵鐘)」は人間がつくった「音」である。ある「音」を聞きたくて、人間はそれをつくる。どんな「音」でもいいわけではない。人間は「音」を好みによってよりわける。そういうところに「思想」がある。(人間がつくりださないもの、「わざと」ではない「音」に「歩いている音」がある。西脇は、梵鐘の「音」をそれと対比している。)
 --というのは、しかし、きょう書きたいことではない。
 「あの考える男などは/考える銅にすぎない/考えてもだめなんだ」の真面目なのか冗談なのかわからない部分も、きょう書きたいことではない。

 次の部分。

会社が作つたコカコーラを捨てて
この最大な地球の瞬間
に耳をかたむけることだ
脳南下症は
永遠へ旅立つ美しい旅人だ

 「脳南下症」って、何? 「脳軟化症」でしょ?
  「考える男(考える人)」は「考える銅」だということばよりも、このことばの方がはるかに強烈だ。--強烈、というのは、その「南下」がそのまま人間の動き、「南下する」、南へ下る、ということろから「旅」へとつながっていくからである。
 人間はどこかへ行きたがる。東西南北どこでもいいのだが、そこには「南(下)」もある。そういう旅へのあこがれを、「永遠へ旅立つ」と呼ぶ。「永遠へ旅立つ美しい旅人だ」の「美しい」は「学校教科書」的には「旅人」を形容するのだけれど、どこかへあこがれ、動いてしまうこと--旅立つこと自体が美しいとも読むことができる。その旅が美しくなければ、旅人も美しくあるはずがない。
 ある属性(?)は、共有されることで強靱になる。

 こういう「だじゃれ」のようなことばの動きからも、西脇の「音」こそがことばなのだという「思想」がうかがえると思う。
 その前の行に「この最大な地球の瞬間/に耳をかたむけることだ」とあるのも象徴的だ。「目を向ける」ではなく「耳をかたむける」。すべては「音」として肉体に入ってくる。
 そうであるなら、すべては「音」を通って「肉体」から出ていく。視覚は(絵は)、ある道具がないと表現できないが、「音」は「肉体」があれば、それだけでいい。(と、書くと、ことばを発することができないひと、「音」を聞くことができないひとには申し訳ないような気もするが、この点は、私は自分の考えをつきつめることができない。あくまで、自分の「肉体」のありようとの関係でことばを動かしている。)「音」(聴覚)の方が「絵・文字」(視覚)よりも人間に深くかかわっていると思うのである。
 西脇のことばも「音」の方に深くかかわっている、と感じるのである。



西脇順三郎のモダニズム―「ギリシア的抒情詩」全篇を読む
沢 正宏
双文社出版
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ソフィア・コッポラ監督「SOMEWHERE 」(★★★★★-★)

2011-04-07 22:39:54 | 映画
監督 ソフィア・コッポラ 出演 スティーブン・ドーフ、エル・ファニング

 冒頭、野原(?)を車がぐるぐる回るシーンがある。カメラは固定されていて、車の円を描くシーンは半分以上映らない。車がスクリーンにないとき、ただの野原があり、その円の中心には何やら柱らしいものが立っているが、その「意味」もわからない。ただ車の走る音(エンジンの音)だけは聞こえている。
 これはあまりにも映画の「意味」を象徴しすぎていておもしろくない。「構図」が絵になりすぎているのも、こういう場合問題である。「構図」が「物語」を語ってしまうからである。
 「構図」だけにかぎらず、そこで描かれる「風俗(?)」も、主人公の暮らしを象徴しすぎていておもしろくない。主人公が手にケガをして、ベッドにいる。双子(?)のダンサーがやってきて踊ってみせるシーン(2回ある)も、主人公の男の空しさを象徴しすぎていて、退屈である。
 映画は「意味」を語りすぎると、おやしろくない。「空虚」というのはいつでも「意味」になりすぎる。「文学」になりすぎる。
 ただし、1か所、あ、そうか、こういうことをソフィア・コッポラは描きたいのかと思わせるシーンが、前半の「空虚」のなかにある。大音響の音楽をかけて、女が二人、煽情的なダンスをしている。それを見ながら男が眠ってしまう。そのあと、女二人は舞台装置であるステンレス(?)のポールを分解し、かばんにしまう。その、ストーリーとは何の関係もないシーンをコッポラは丁寧に撮っている。そこが、とてもいい。
 男にとっては虚栄の、空虚な暮らし。けれど、その空虚な暮らしの別なところには、それぞれに「暮らし」がある。「暮らし」があれば、そこでは「肉体」はひとつひとつときちんと向き合い、それを消化しなくてはならない。女たちは煽情的に踊ってみせ、金を稼ぐのだが、その踊りのためにはポールが必要で、それはデリバリーサービスをするためには持ち運べるものでなくてはならない。そして、それは「暮らし」の糧であるから、当然丁寧に取り扱わなければならない。そのときの手つき。その肉体の動き。そこにこそ、この映画の、ほんとうのテーマが隠れている。
 映画は、その男の空虚な暮らしに娘が侵入してくることから、少し変わってくる。「空虚」だけだったものが、そうではなくなってくる。ただし、取り立てて特別なことをするわけでもない。男がイタリアへ行かなければならなくなったときは、そのままついてくる。豪華なホテル(部屋の中にプールがある!)で、娘が泳ぐのを見ていたり、「特別なことがない」とはいいながら、それはあくまで男の暮らしにとって特別ではないということなのだが……。
 けれど、変わる部分もある。
 たとえば男が女とセックスをする。翌朝、娘との食卓に、その女がいる。娘は何も言わないけれど、じっと父親を見つめる。そういう視線--その視線のなかにある「暮らし」(思想)というものを、男はそれまで感じたことはなかった。どんな女とセックスしようが、それをとがめる人など誰もいない。それが男の「空虚」な「暮らし」であった。その「空虚」なことがらに対して、娘が視線だけで割り込んでくる。娘の「暮らし」(思想)を肉体で表現する。--これは、ダンサーが持ち運びのポールを分解し、片づけるのに似ている。そこには「ことば」はないけれど、「暮らし」がある。「ことば」にすることを省略しても成り立つ「肉体」がある。
 娘がつくる朝食のシーンもいい。豪華なホテルに住んでいるのだが、自分で料理する。そのつくられた料理の映像が、この映画のいちばんのいい部分である。手間隙かけてつくりあげた食べ物、消えてなくなるもの--その美しさ。「料理」は消えてなくなるが、大事な人に食べてもらいたいと思ってつくったこころ、それからおいしいものを食べたという記憶、それをつくってくれたのが娘だというよろこび--それは「暮らし」からは消えない。「肉体」からは消えない。この料理のために、この映画はあるといっていいくらいである。マリー・アントワネットでコッポラが描いた「買い物商品(靴やドレス)」の映像をはるかに超える美しさがある。
 こういう「暮らし」というのは、娘といっしょにいるときは気がつかない。娘の「肉体」が「暮らし」を見えにくくするからである。「肉体」と「暮らし」は一体化していて、きりはなすことができないし、「暮らし」というのは「肉体」のようにははっきりと視覚化されにくいからである。どうしても視線は娘そのものを見てしまう。
 女との自堕落な関係を非難するような視線--その視線をもっている娘、おいしい料理をつくってくれた娘。「非難」や「料理を作るこころ」は、「肉体」の内部にしまいこまれていて、ことばとして語られることもない。見えるのは、いつでも娘そのものなのだ。
 男は、その娘がキャンプに行ってしまってから、つまり、男のそばを離れ、遠くへ行ってしまってから「暮らし」に気がつく。「暮らし」を隠している娘の「肉体」がないから、急に「暮らし」が見えてくるのである。
 この「肉体」と「暮らし」の関係の描き方は、すばらしい。おしつけがましさがない。とても自然である。
 男の監督の場合、こんな具合には描けないだろうなあ。私が書いている文章のように、どうしても「理屈」になる。「肉体」ではなく、ことば、あるいは「意味」になってしまう。

 だから。

 最初のシーンに戻って、ちょっと苦情を言いたくなるのである。
 映画で描かれていることが「構図」になってしまうと、映画が「貧しく」なる。ストーリーや意味の構図を役者が「肉体」で破っていくときに映画は傑作になる。「構図」に閉じ込められてしまうと、人間を見ているのか、監督の描いた「構図」を見ているかわからなくなる--ではなく、監督の思い描いた「構図」だけを見せられているような気がして、寂しい気持ちになるのである。
 この映画でいえば、冒頭のシーンがそうだし、男が「空虚」にきづいたあと、別れた妻と電話で話すシーンがそうである。男は泣きだすのだが、そのとき男はスクリーンでいうと右側を向いている。背中はベッドにもたれている。その男が泣くとき、男は前かがみになる。そうすると、左側がぽっかり空いて見える。背中に「空虚」を背負った感じがそのまま映像になる。こういうシーンを「意味」がくっきり出たいいシーンと思う人もいると思うが、私はがっかりするのである。屋外プールで浮輪(浮き板)にのっていて、その男が中心から少しずつずれていって、真ん中に「空虚」が浮かび上がるシーンも同じ意味でつまらない。
 ただし、そういうシーンを超えるシーンもいくつかある。男と娘が屋外のプールサイドで甲羅干しをしているシーン。なにもしないのだが、不思議な幸福感がある。そのふたりの前を別の親子が横切っていく。そのときのノイズ。そして、残された水の足跡。そこにある「暮らし」がとても美しい。見上げた空にまで、その「暮らし」は広がっていく。それは娘がそばにいることで引き寄せてしまう「暮らし」の充実である。娘が「暮らし」をもッテイルから、その「暮らし」に重なる形で他人の家族の「暮らし」が侵入してきても、それは二人を邪魔することにはならない。ぎゃくに祝福することになる。このシーンは「料理」に匹敵する美しさに満ちている。
 また男が車を走らせる最後のシーン。それまでも何回か車が走るシーンが出てくるが、この最後のシーンは非常に変である。スクリーンに占める車の位置が、なんとも不気味なのである。ちょうどスクリーンの対角線の中心にあるように見えるのだが、その車が常に宙に浮かんだ視線、それもとても変な高さなのである。天--神?でもなく、人間が立っているときの視線の位置でもなく……。どうやって撮った? この不安定な、と私には感じられるのだけれど、その映像が男がどんどん「空虚」そのものへ入っていく感じがして、ぞくっ、と肉体に響いてくる。



 いろいろ不満があるが、それは私の欲張り、ということなのかもしれない。★5個から1個引いたという変な「評価」をしているのは、その辺のことが、私自身のなかでうまく整理できていないため。
        (2011年04月07日、ソラリアシネマ2--ここのスクリーンは暗い)

 

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