リュック・ベッソン監督 マラヴィータ(★★)
監督 リュック・ベッソン 出演 ロバート・デ・ニーロ、ミシェル・ファイファー、トミー・リー・ジョーンズ
ロバート・デ・ニーロは二つの顔をもっている。暴力的な顔(マフィアの顔)と人懐っこい顔。マフィアが人懐っこくても、もちろんかまわないし、人懐っこさを武器に人のなかに押し入っていくというのは、暴力においては効果的である。
この映画は、マフィアのボスがFBIの保護のもとに庶民の暮らし(一般人)の暮らしをしながら逃亡するというストーリー。組織を裏切ったために追われている。で、流れ流れて、フランスの誰も知らない田舎町までやってきた。そこでのドタバタ。ブラック・コメディー。
監督がリュック・ベッソンなので、どうしても味付けがフレンチ。何もすることがないロバート・デ・ニーロが「自叙伝」を書く。この「ことばを書く」というのが、どうにもフレンチなのである。「文学」してしまう。まあ、そのロバート・デ・ニーロの「文体」がハードボイルドなのはアメリカ感じさせていいのだけれど、映画のなかで、そのことばの批評までやってしまうのは、いやだなあ。トミー・リー・ジョーンズまでまきこんで文体批評までやっている。
で、これがロバート・デ・ニーロだけで終わるならいいんだけれど。
このことばへのこだわり、執着が、子供のアメリカン・ジョークにまでいってしまうとなあ。ロバート・デ・ニーロの子供が学校で英語でジョークを書け、という宿題を出された。そのジョークにマフィアの会話をそのままつかった。それが学校新聞に掲載され、その新聞紙が包装紙につかわれ、アメリカにまで渡って、たまたま刑務所にいるボス(ロバート・デ・ニーロに裏切られた男)の目に触れて、ロバート・デ・ニーロ一家の隠れ家がわかる……。
よくできたプロットなのだけれど、なんだか嫌み。どうもすっきりしない。途中にミシェル・ファイファーがフランスのバターとイタリアのオリーブ油の違いを語るシーンがあるが、まるでフランスのバターのように映画の体内に残って気持ちが悪い。
水道から茶色い水が出る、ということに怒る暴力の爆発(配管工と、化学工場の社長の2回--2回と繰り返しているところが味噌)なんかロバート・デ・ニーロの人懐っこい顔があってとても生きているのになあ。ロバート・デ・ニーロを「肉体」として活用しているのになあ。
マフィア映画を語るというとんでもないパロディーもロバート・デ・ニーロの顔を生かしきっている。
クライマックス(?)の銃撃戦も、アメリカ映画とは違って、なんだか人情味(?)があって--映像のひとつひとつの切れが脂肪つきの体のようにもったりしていて(まあ、これはやくざ映画ではなく、コメディーなのだからかもしれないけれど)、あ、フレンチ味だと思いながら楽しめるのだけれど。
だからこそ、ロバート・デ・ニーロの作家(ことばへのこだわり)→息子のアメリカンジョーク→学校新聞→刑務所でその新聞を読む→居所がわかるという絵空事の核心が「ことば」であるというのがなあ。フレンチ味はフレンチ味だけれど、胃にもたれる。ご都合主義はいいんだけれど、そこにフレンチ味が入っていることが、どうも落ち着かない。
まあ、この映画が好き--という人は、私が嫌いと書いた部分が好きなんだろうけれど。
(2013年11月17日、天神東宝6)
監督 リュック・ベッソン 出演 ロバート・デ・ニーロ、ミシェル・ファイファー、トミー・リー・ジョーンズ
ロバート・デ・ニーロは二つの顔をもっている。暴力的な顔(マフィアの顔)と人懐っこい顔。マフィアが人懐っこくても、もちろんかまわないし、人懐っこさを武器に人のなかに押し入っていくというのは、暴力においては効果的である。
この映画は、マフィアのボスがFBIの保護のもとに庶民の暮らし(一般人)の暮らしをしながら逃亡するというストーリー。組織を裏切ったために追われている。で、流れ流れて、フランスの誰も知らない田舎町までやってきた。そこでのドタバタ。ブラック・コメディー。
監督がリュック・ベッソンなので、どうしても味付けがフレンチ。何もすることがないロバート・デ・ニーロが「自叙伝」を書く。この「ことばを書く」というのが、どうにもフレンチなのである。「文学」してしまう。まあ、そのロバート・デ・ニーロの「文体」がハードボイルドなのはアメリカ感じさせていいのだけれど、映画のなかで、そのことばの批評までやってしまうのは、いやだなあ。トミー・リー・ジョーンズまでまきこんで文体批評までやっている。
で、これがロバート・デ・ニーロだけで終わるならいいんだけれど。
このことばへのこだわり、執着が、子供のアメリカン・ジョークにまでいってしまうとなあ。ロバート・デ・ニーロの子供が学校で英語でジョークを書け、という宿題を出された。そのジョークにマフィアの会話をそのままつかった。それが学校新聞に掲載され、その新聞紙が包装紙につかわれ、アメリカにまで渡って、たまたま刑務所にいるボス(ロバート・デ・ニーロに裏切られた男)の目に触れて、ロバート・デ・ニーロ一家の隠れ家がわかる……。
よくできたプロットなのだけれど、なんだか嫌み。どうもすっきりしない。途中にミシェル・ファイファーがフランスのバターとイタリアのオリーブ油の違いを語るシーンがあるが、まるでフランスのバターのように映画の体内に残って気持ちが悪い。
水道から茶色い水が出る、ということに怒る暴力の爆発(配管工と、化学工場の社長の2回--2回と繰り返しているところが味噌)なんかロバート・デ・ニーロの人懐っこい顔があってとても生きているのになあ。ロバート・デ・ニーロを「肉体」として活用しているのになあ。
マフィア映画を語るというとんでもないパロディーもロバート・デ・ニーロの顔を生かしきっている。
クライマックス(?)の銃撃戦も、アメリカ映画とは違って、なんだか人情味(?)があって--映像のひとつひとつの切れが脂肪つきの体のようにもったりしていて(まあ、これはやくざ映画ではなく、コメディーなのだからかもしれないけれど)、あ、フレンチ味だと思いながら楽しめるのだけれど。
だからこそ、ロバート・デ・ニーロの作家(ことばへのこだわり)→息子のアメリカンジョーク→学校新聞→刑務所でその新聞を読む→居所がわかるという絵空事の核心が「ことば」であるというのがなあ。フレンチ味はフレンチ味だけれど、胃にもたれる。ご都合主義はいいんだけれど、そこにフレンチ味が入っていることが、どうも落ち着かない。
まあ、この映画が好き--という人は、私が嫌いと書いた部分が好きなんだろうけれど。
(2013年11月17日、天神東宝6)
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