詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リュック・ベッソン監督 マラヴィータ(★★)

2013-11-18 10:41:57 | 映画
リュック・ベッソン監督 マラヴィータ(★★)

監督 リュック・ベッソン 出演 ロバート・デ・ニーロ、ミシェル・ファイファー、トミー・リー・ジョーンズ

 ロバート・デ・ニーロは二つの顔をもっている。暴力的な顔(マフィアの顔)と人懐っこい顔。マフィアが人懐っこくても、もちろんかまわないし、人懐っこさを武器に人のなかに押し入っていくというのは、暴力においては効果的である。
 この映画は、マフィアのボスがFBIの保護のもとに庶民の暮らし(一般人)の暮らしをしながら逃亡するというストーリー。組織を裏切ったために追われている。で、流れ流れて、フランスの誰も知らない田舎町までやってきた。そこでのドタバタ。ブラック・コメディー。
 監督がリュック・ベッソンなので、どうしても味付けがフレンチ。何もすることがないロバート・デ・ニーロが「自叙伝」を書く。この「ことばを書く」というのが、どうにもフレンチなのである。「文学」してしまう。まあ、そのロバート・デ・ニーロの「文体」がハードボイルドなのはアメリカ感じさせていいのだけれど、映画のなかで、そのことばの批評までやってしまうのは、いやだなあ。トミー・リー・ジョーンズまでまきこんで文体批評までやっている。
 で、これがロバート・デ・ニーロだけで終わるならいいんだけれど。
 このことばへのこだわり、執着が、子供のアメリカン・ジョークにまでいってしまうとなあ。ロバート・デ・ニーロの子供が学校で英語でジョークを書け、という宿題を出された。そのジョークにマフィアの会話をそのままつかった。それが学校新聞に掲載され、その新聞紙が包装紙につかわれ、アメリカにまで渡って、たまたま刑務所にいるボス(ロバート・デ・ニーロに裏切られた男)の目に触れて、ロバート・デ・ニーロ一家の隠れ家がわかる……。
 よくできたプロットなのだけれど、なんだか嫌み。どうもすっきりしない。途中にミシェル・ファイファーがフランスのバターとイタリアのオリーブ油の違いを語るシーンがあるが、まるでフランスのバターのように映画の体内に残って気持ちが悪い。
 水道から茶色い水が出る、ということに怒る暴力の爆発(配管工と、化学工場の社長の2回--2回と繰り返しているところが味噌)なんかロバート・デ・ニーロの人懐っこい顔があってとても生きているのになあ。ロバート・デ・ニーロを「肉体」として活用しているのになあ。
 マフィア映画を語るというとんでもないパロディーもロバート・デ・ニーロの顔を生かしきっている。
 クライマックス(?)の銃撃戦も、アメリカ映画とは違って、なんだか人情味(?)があって--映像のひとつひとつの切れが脂肪つきの体のようにもったりしていて(まあ、これはやくざ映画ではなく、コメディーなのだからかもしれないけれど)、あ、フレンチ味だと思いながら楽しめるのだけれど。
 だからこそ、ロバート・デ・ニーロの作家(ことばへのこだわり)→息子のアメリカンジョーク→学校新聞→刑務所でその新聞を読む→居所がわかるという絵空事の核心が「ことば」であるというのがなあ。フレンチ味はフレンチ味だけれど、胃にもたれる。ご都合主義はいいんだけれど、そこにフレンチ味が入っていることが、どうも落ち着かない。
 まあ、この映画が好き--という人は、私が嫌いと書いた部分が好きなんだろうけれど。
                        (2013年11月17日、天神東宝6)

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池田瑛子『岸辺に』

2013-11-18 09:52:25 | 詩集
池田瑛子『岸辺に』(思潮社、2013年10月31日発行)

 池田瑛子『岸辺に』は「ことば」を「声」そのものとして書いた作品が印象に残る。「記憶の雫」は狩野探幽の屏風絵を寄贈した人のことから書きはじめて、

驚いたことに 寄贈したのは
実家の町の老舗呉服店<丸久>さんのご主人
先代は亡くなった父の親友だったから
生前父は見たことがあるかもしれない
いつだったか 縁側に腰かけて
--丸久さんの庭は落ち着いたえぇ庭やがのう--
見てきた庭を重ねるように
しみじみ 呟いていた姿が
ふいに蘇る 声そのままに

 「ことば」を思い出しているのだが、それは「意味」というよりも「声」なのだ。肉体の感情なのだ。それにのみこまれるようにして、父が見たことがあるかもしれない屏風を見る。

見たことのないその庭の
高く大きく深く繁ったであろう樹樹が
風を通らせ
雪見灯籠や息づく苔に
揺れる光と翳を
降りそそいでいるのがみえる

 屏風は消えて、庭が見える。屏風の絵が、父の見た庭になる。これは「目」で見るというよりも「耳」で、「耳」に残る父の「感嘆の声」が肉体を刺戟する力で見る風景である。しみじみとした父の「声」が池田の肉体のなかで「蘇る」とき、池田は父になってしまうのである。父は絵を見たかどうかはわからないが、庭は見た。だから、その庭が絵に侵入し、絵を作り替えてしまう。
 「声」から他人になる。
 「声」から、「いま/ここ」ではない何かを蘇らせる、というのは「らふらす」も同じである。池田は「意味」ではなく「音/声」を覚えている。
 富山弁では消防車を「らふらんす」という。(私は聞いたことがないが、それは私の住んでいるところでは消防車がなかったからである。)池田はずーっとそれを覚えていた。いまはそれを覚えている人は少ない。夫も知らないという。ところが、

何気なく読んでいた新聞
とやま弁大会の記事にあった
大正時代に富山市に初めて導入された消防車は
外国のラフランス社製だった
ラフランスは富山弁で消防車を指すと
やっぱり<らふらんす>と呼んでいたのだ
心のなかで
  ら
  ふら
  ん す
迷子だったやさしいこ言葉が
昔の町へ帰っていった
赤い消防車になって

 「音/声」が「視覚」ととけあって「世界」が落ち着く。池田は「声/音」の人である。
 「風鈴」も印象的である。

若いお嫁さんだった頃
父と妹が我が家へ時節の挨拶にきた
帰り道
「あれは泣いた顔だったね」
ばーっと涙をこぼす父に
どう対処すればいいのか困ったわよ
四十年経ってはじめて聞いた
父が亡くなってからでも
二十七年経っているのに
「詩は書いているのか」
唐突に尋ねたのは優しい言葉のつもりだったのか
ほどかれてゆく記憶に
風鈴が鳴っていた

 池田の正直(肉体/記憶)が「声/音」といっしょにあるからこそ(声/音に反応するのもだからこそ)、最後の一行「風鈴が鳴っていた」が自然に落ち着く。



岸辺に
池田 瑛子
思潮社
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