詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎『石目』(2)

2013-11-02 10:51:20 | 詩集
時里二郎『石目』(2)(書肆山田、2013年10月30日発行)

 きのう「日記」をアップし終わった瞬間、あ、書き間違えたと思った。
 時里は「死」を「もの」と混同している、と書いてしまったけれど、そうではなく「空っぽ」と混同している。キーワードは「空っぽ」の方である。「死」ということばが強いので(私には強く感じられるので)、間違えてしまった。
 「空っぽ」である、「無」である。その「無」は「無関係」の「無」につながる。何かを切断する「無」。切断されたとき、見えてくるのは、しかし「無意識」という「無」であって、「無意識」の「無」はほんとうは「ある」。
 「ない」ものが「ある」。
 いや、「ない」が「ある」。
 この矛盾が時里を動かす。「ある」ものを書いても、必ずそれを「ない」にまでつきつめて、その「ない」からもういちど世界を構築し直す--というのが時里の詩である。
 そういう具合に、私はいつも感じている。
 と書こうとしていたのだ、と、ふいに思い出したのであった。

 で、きょうは、その思ったことのつづきというか、きのうの「修正」をしてみたいと思っていたのだが。
 「修正」というのは、やっぱりまずいだろうなあ。だいたい、「修正」をしようとするのは、何らかの結論(?)めいたものを書こうとする方向へ意識が動くからなのだが、結論は、まずいなあ--と最近の私は思う。「ほんとう」はたどりついたところにあるのではなく、何かを追いかけるという運動のなかにだけある。たどりついてしまうと、その瞬間から、それは「うそ」になってしまう。そう思うようになった。
 だから、違うことを書く。
 きのうを引きずりながら、きのうとは違ったことを書きたい。
 「弓執る者」でも、キーワードは「空っぽ」である。

 どの森にも空洞がある。空洞には闇が巣くい、巨木に穿たれた洞にも、
石の洞窟にも、時には、鹿の骸の眼窩のような小さな穴にも闇は宿った。
どんな小さな闇も、森そのものを飲み込む獰猛な息づかいをひそめてい
た。

 「空っぽ」は「空洞」と言い換えられている。そして空洞は空っぽではなく(?)、闇に満たされている。そして闇は「獰猛な息づかい」をひそめている。「空っぽ」は実は空っぽではなく、内部に「気づかい」を抱え込んでいる。
 この「息づかい」と呼応して「歌」が誕生する。それは「思想」といってもいい。「生き方」と言い換えてもいい。

〔空虚〕とは、〔森の民〕の歌であった。歌は特異な破裂音からなる男
たちの激しい叫声によって歌われるが、その声は、鍛えられた胸声とつ
ややかな裏声を往復することをもって、度を超えた高音の階梯を狂
おしく上り詰め、なだれる虹のように下り落ちる。森全体を筐体として
隅々にまで響き渡る歌は、一方で森を支配する闇への威嚇であると同時
に、彼らの狩りに欠かせぬ道具だった。この苛烈な叫声に驚かぬ獲物は
いない。巧みに狩場を囲い込みながら、木の又に待機している射手が、
森の茂みから飛び出した猪や鹿を、強弓で射抜くのである。

 獣たちに対して歌で向き合う。「息づかい」で対決する。「空っぽ」も「闇」もそのとき、そこには存在しない。--という具合に「空っぽ」を埋めていく時里のことばは、「度を超している」。
 したがって、詩である。だからこそ、詩である。詩とは、過剰なものなのだ。過剰を呼び込むために、すべてを飲み込む「空っぽ(闇)」が必要ということだろう。
 「度を超えた高音の階梯を狂おしく上り詰め」るのはともかくとして、「なだれる虹のように下り落ちる」の「なだれる虹」は、過剰すぎて、「これ、詩的でしょ」と酔った声が聞こえるくらいだ。
 でも、それでいい。そうしないと、ことばは動かないからね。

 ということは置いておいて、その度を超した「空っぽ」を埋めることばの運動--それが「弓執る者」というひ弱な少年にたどりついて、その少年を描写した部分が、とても興味深い。その少年は、

           ひよわで矮小な少年であった。平生は長弓を傍
らに置いて、木漏れ日の降りそそぐ日だまりに坐して、自らの足の裏を
覗き込んでいた。既に土を踏む用を忘れた二つの足の裏は、もっぱらそ
の森の俯瞰図たらんと、入り組んだ皺を刻んでいたが、少年は深い井戸
の、見えぬ水面をさぐりあてるような眼差しで、森の地誌と化した自ら
の足の裏を覗き込む。

 この「足の裏」の描写がいいなあ。肉体が刻み込んだ皺--それが森を歩いた記憶、肉体の覚えている森の俯瞰図と重なる。
 ここには「空っぽ」がない。「肉体」と「肉体の外部(森)」がぴったりと重なり合う。ぐい、と引き込まれていく。
 時里は「空っぽ」をもっぱらことばの運動で埋めようとするのだが、その運動のなかに「肉体」が入り込んだ、この部分は、時里のあたらしい何かを見るような、新鮮な驚きがある。
 「肉体」がおぼえていることに「空っぽ」はない。「肉体」がおぼえていることは、いつでも世界そのものと直接、交渉する。その「直接性」に「空っぽ(空隙)」が入り込む余地はない。「闇」も存在しない。「闇」を通り越して、「肉眼」が「肉体」のおぼえているものを見てしまうのである。
 この「肉体」を時里は「身体」と呼び、それを「幻」とも呼ぶ。その「身体」は「森の民(少年)」の「肉体」と同じであるのだが、もう「森の民」は存在しない--少年と「われら」とをつなぐ部分に「空っぽ」がある。具体的な「もの/こと」ではなく「記憶」がある。
 その「空っぽ」ゆえに、

われらの身体。
われらの幻の身体。
われらの手はわれらの幻の手より遅れ。
われらの足はわれらの幻の足を追いかけ。
われらの頭はわれらの幻の頭に投影される。
われらの身体というとき、われらの幻の身体は未だにひりひりと痛む。

 言い換えると、

〔森の民〕が森の空洞に充填した〔空虚〕の痕跡をわれらは身体に宿し
ている。

 ということになる。あ、ここから「空っぽ」と「身体(肉体)」の関係、記憶(ことば)と「肉体」の関係は一直線にワープして結びつくけれど--私はそのことを書かない。書くかわりに、少年の足裏へ引き返す。その「肉体」の具体的な「もの/こと」へ引き返し、あそこがこの詩のいちばん美しい部分だったとだけ言っておこう。
 時里も、そう感じているのかもしれない。

われらは、足裏を見つめて坐する〔弓執る者〕の眼差しを通して思い出
していたのだから。

 という文が出てくる。

 「空っぽ」を「頭(ことば)」だけでとらえるのではなく、「肉体」の直接性として把握しようとする「思想」の転換点が、この詩集かもしれない、というようなことも考えたが、こういう「結論」は魅力的だからこそ、これ以上は書かない。「うそ」になる。書きすぎて、すべてのことを、その「結論」でしばりあげてしまうことになるから。
 かわりに、もう一度書いておく。
 少年が足裏の皺と森の地形を重ね合わせる瞬間が、とても美しい。その美しさを確かめるために、私はまたその部分を読み返すだろう、と。




石目
時里二郎
書肆山田
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