林美佐子『鹿ヶ谷かぼちゃ』(詩遊社、2013年08月08日発行)
林美佐子『鹿ヶ谷かぼちゃ』のなかで「私(林、と仮定しておく)」はいろいろな「名前」で呼ばれる。「らんちゅう」という作品では、
「私」は「らんちゅう」と「言われる」(男は「そう言った」)。つまり、それは「呼ばれる」ということ。
「別の名前で呼ぶこと」は、「比喩」ということかもしれない。「らんちゅう」は「比喩」。「比喩」が、別のことばを呼び寄せて世界の「いま/ここ」を少し違ったものにする。別の名前で呼ばれた瞬間から、世界は「別」のものになる。
部屋は水底。
そうか。世界とは「あるがまま」にあるのではなく、ことばといっしょに動いていく(変化していく)ものなのだ、ということがわかる。「醜い顔」「見苦しい体」も「高級金魚」ということばにかわれば、あるいは乗っ取られれば(そういうことばで乗っ取ってしまえば)、「らんちゅう」は「美しい」……のか、どうか、よくわからないけれど、まあ、世界がことばといっしょに変化していくということはわかる。
でも、それは、ほんとうに世界の変化? もしかしたら「私」の変化かもしれない。そして、「私」がかわってしまうとき、それでは相手は?
相手(男)も変わるのだけれど、それがわかったとき、「私」もまた変わる。いや、換えさせられるのかな? もう「高級金魚」ではない。「恋人」。
さて、このことばの変化は「ほんとう」か。
あ、むずかしいなあ。「私」は男がほかの女(らんちゅう)と歩いているのを見たのか。まあ、ふつうに読んでしまえばそうなんだろうけれど、もしかすると、自分が男と歩いている姿を「客観的」にみつめなおす、描写し直すと、そういう具合に見えるということかもしれない。「見かけた」のは街の雑踏の中かもしれないし、ショーウインドーのガラスの中(ガラスに映った自分と男の姿)かもしれない。
背骨の瘤は、裸になって、それに直接触れた手でないとわからないだろう。そうだとすると、そのとき見かけた女が他人であったとしても、その手の動き、そして瘤を感じる手のひらというのは、他人の女ではなく、「私(林)」自身の手のひらだからね。無意識のうちに「一体化」している。他人の女と「ひとつ」になっている。
なんだかよくわからないけれど(正確にことばの中にある変化を追いかけ、別のことば、「流通言語」で言いなおしつづけるとめんどうになるので省略するけれど)、「別な名前」で呼ばれることをとおして、「私」は知らず知らず「別な存在」と「ひとつ」になる。
「ひとつ」になってしまうので、そこからはじまる世界は「まったく別の世界」というわけではない。「私」をひきずっている。その「まったく別の世界ではない世界」を、林は、拒絶するわけではなく、完全に受け入れるというわけでもなく、「こんなものかなあ」という感じで向き合っている。
そういうときの、あいまいなことばの動きがおもしろい。おもしろいなあ。
男が書いてしまうと、「あいまい」をあいまいのまま受け入れるというよりも、「あいまい」を構築してしまう。あ、私はカフカなんかを思い浮かべているのだけれど。でも、林は、構築しない。かわったものを、それだけ「ぽん」とほうりだしている。どうなったってかまわない。そういう「開き直り(?)」の強さがあるなあ。
あ、少し書きたいことと違ってきた。(「意味」が強くなりすぎてきた。)
別な作品を読んでみる。「公園の鬼コーチ」。
「名前」は次々にかわるのだけれど、「特訓を受ける」という「こと」はかわらず、それがつづいていく。名前が違うということを意識しながら、それとは別に、「肉体」は肉体で動いていく。名前とは別に「肉体」の関係が、理想的な状態に近づいていく--と書くと、うーん、なんだかセックス描写についての説明みたいになってしまうが。
ことばは(と、私は、突然「飛躍」するのだが)、
ことばは、こんなふうに何かを語っていると、別なものと重なり合ってしまう。その重なり合いは、逸脱というものなのだろうけれど。この重なり愛を「違う」と思いながら、それも「ある」(可能)と思ってしまう「動き」のなかに詩がある。
そしてそれは、
この最終連の「誰」のように、「わからない」ものである。
「わからない」のだけれど、それは「ない」のではなく、「ある」。「わからなく/ある」--その奇妙な重なり(すれ違い?)が詩である。
私のことばではつかみとれない(説明できない)おもしろさがある。
林美佐子『鹿ヶ谷かぼちゃ』のなかで「私(林、と仮定しておく)」はいろいろな「名前」で呼ばれる。「らんちゅう」という作品では、
君は美しいらんちゅう
そう言って
男は私を愛でた
醜い顔を愛でた
見苦しい体を愛でた
水底のような部屋で
高級金魚になぞらえて
男は私を飼った
「私」は「らんちゅう」と「言われる」(男は「そう言った」)。つまり、それは「呼ばれる」ということ。
「別の名前で呼ぶこと」は、「比喩」ということかもしれない。「らんちゅう」は「比喩」。「比喩」が、別のことばを呼び寄せて世界の「いま/ここ」を少し違ったものにする。別の名前で呼ばれた瞬間から、世界は「別」のものになる。
部屋は水底。
そうか。世界とは「あるがまま」にあるのではなく、ことばといっしょに動いていく(変化していく)ものなのだ、ということがわかる。「醜い顔」「見苦しい体」も「高級金魚」ということばにかわれば、あるいは乗っ取られれば(そういうことばで乗っ取ってしまえば)、「らんちゅう」は「美しい」……のか、どうか、よくわからないけれど、まあ、世界がことばといっしょに変化していくということはわかる。
でも、それは、ほんとうに世界の変化? もしかしたら「私」の変化かもしれない。そして、「私」がかわってしまうとき、それでは相手は?
男が私の手をとり
男の背中の
硬い瘤をなでさせ
男は言った
これは秘密の瘤
恋人だけに教える瘤
相手(男)も変わるのだけれど、それがわかったとき、「私」もまた変わる。いや、換えさせられるのかな? もう「高級金魚」ではない。「恋人」。
さて、このことばの変化は「ほんとう」か。
昨日私が見かけたのは
老いたあの男だった
男の横には
らんちゅうの女がいた
女の手が静かに
男の背骨の瘤をなでていた
あ、むずかしいなあ。「私」は男がほかの女(らんちゅう)と歩いているのを見たのか。まあ、ふつうに読んでしまえばそうなんだろうけれど、もしかすると、自分が男と歩いている姿を「客観的」にみつめなおす、描写し直すと、そういう具合に見えるということかもしれない。「見かけた」のは街の雑踏の中かもしれないし、ショーウインドーのガラスの中(ガラスに映った自分と男の姿)かもしれない。
背骨の瘤は、裸になって、それに直接触れた手でないとわからないだろう。そうだとすると、そのとき見かけた女が他人であったとしても、その手の動き、そして瘤を感じる手のひらというのは、他人の女ではなく、「私(林)」自身の手のひらだからね。無意識のうちに「一体化」している。他人の女と「ひとつ」になっている。
なんだかよくわからないけれど(正確にことばの中にある変化を追いかけ、別のことば、「流通言語」で言いなおしつづけるとめんどうになるので省略するけれど)、「別な名前」で呼ばれることをとおして、「私」は知らず知らず「別な存在」と「ひとつ」になる。
「ひとつ」になってしまうので、そこからはじまる世界は「まったく別の世界」というわけではない。「私」をひきずっている。その「まったく別の世界ではない世界」を、林は、拒絶するわけではなく、完全に受け入れるというわけでもなく、「こんなものかなあ」という感じで向き合っている。
そういうときの、あいまいなことばの動きがおもしろい。おもしろいなあ。
男が書いてしまうと、「あいまい」をあいまいのまま受け入れるというよりも、「あいまい」を構築してしまう。あ、私はカフカなんかを思い浮かべているのだけれど。でも、林は、構築しない。かわったものを、それだけ「ぽん」とほうりだしている。どうなったってかまわない。そういう「開き直り(?)」の強さがあるなあ。
あ、少し書きたいことと違ってきた。(「意味」が強くなりすぎてきた。)
別な作品を読んでみる。「公園の鬼コーチ」。
惜しいっ マサコ!
鬼コーチは叫びながら
夕暮れの公園で今日も
私にマンツーマンの特訓をする
私はマサコではない
もう一回っ リサコ!
私はリサコでもないが
いちいち訂正せずに
特訓を受けることに集中する
いいぞっ ミカコ!
ついに鬼コーチは会心の笑みで叫び
両手をかかげ天をあおぐ
惜しい 私はミカコでもない
そのとき日が落ちて
公園は夜になる
行こうか ミワコ
鬼コーチが私の肩を抱く
私はミワコでもないが
黙ってうなずく
「名前」は次々にかわるのだけれど、「特訓を受ける」という「こと」はかわらず、それがつづいていく。名前が違うということを意識しながら、それとは別に、「肉体」は肉体で動いていく。名前とは別に「肉体」の関係が、理想的な状態に近づいていく--と書くと、うーん、なんだかセックス描写についての説明みたいになってしまうが。
ことばは(と、私は、突然「飛躍」するのだが)、
ことばは、こんなふうに何かを語っていると、別なものと重なり合ってしまう。その重なり合いは、逸脱というものなのだろうけれど。この重なり愛を「違う」と思いながら、それも「ある」(可能)と思ってしまう「動き」のなかに詩がある。
そしてそれは、
暗がりで私の肩を抱くこの男は誰だ
抱かせる私は誰だ
この最終連の「誰」のように、「わからない」ものである。
「わからない」のだけれど、それは「ない」のではなく、「ある」。「わからなく/ある」--その奇妙な重なり(すれ違い?)が詩である。
私のことばではつかみとれない(説明できない)おもしろさがある。