詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川朱実「自由研究」

2013-11-22 09:35:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「自由研究」(「CROSS ROAD」2、2013年11月16日発行)

 北川朱実「自由研究」は夏休みの宿題が終わっていない向かいの家の少年のことから書きはじめて、

子供のころ
川の多い町に住んでいた

大きな夜明けを抱いて
海が流れ込んだ川は

何かから逃れるように
理由もなく枝分かれした先で澱み
手足をほどいていた

 この川の描写に、うっとりとしてしまう。海へ流れ込んだ川ではなく、「海が流れ込んだ川」。満ち潮で海が川を上ってくる。その流れとぶつかり、川はいく筋にもわかれる。そしてあるところでは澱んでいる。--私はそれを見たわけではないが、そしてそういうものが見えるかどうかはっきりとはわからないが、北川のことばをとおして、それを見る。その「枝分かれ」を北川は「手足をほどいて」と書く。そうか。何にもできなくて、ほんとうは海へ流れていくはずなのに、海に逆に押し寄せられて、ぼんやりしている感じ。そんなふうに、人間の時間も何かに押し寄せられて(ちょうど夏休みが終わるという「時間」に押し寄せられるように)、どうしていいかわからないなあ、ひとまず休憩(何をしたい、何をするという目的をほうりだして)、ぼんやりする。放心する。あれは「手足をほどく」というのだな……。そんなことを思い出す。
 川が人間の「肉体」になったのか、それとも人間の「肉体」が川になったのか。比喩は、そのあたりを厳密にはしない。どっちでもいいように、人を引き込んで行く。
 だからこそ、それは入り交じって、

(人の足は
(なぜ前へ前へ進む形につくられたのですか?

 これは、

(川の流れは
(なぜ海へ海へ進むようにつくられたのですか?

 とゆったりと溶け合う。
 溶け合ったまま、北川は、ちょっと変わったことを書く。

今ならわかる
背後は
見てはいけないものでいっぱいなのだ

 この3行は、私には、わからない。わからないのだけれど、わからないものはわからないままにしておいて読み進むと(放心とはそういうなりゆきまかせのところがある)、最後の3連が、なんだかうれしい。

始業の朝
少年は
飼い犬を連れて登校した

<先祖はオオカミ>
一万年前の作品を引っぱり
引っぱられて
校門をくぐっていく

足を前に出して

 飼っている犬--それが「宿題」の答え。自由研究で犬の歴史を調べた。犬は1万年前はオオカミだった--それを「文字」ではなく実物で示す。
 こういうことを、少年はほんとうにやったのか。これは現実なのか。それとも北川の空想なのか。--このわからなさが、また、いい。わからないといいながら、私は現実の方を選んで、なんだかわくわくしている。
 川の水と海の水がぶつかり、とけあい、その瞬間にそこから「人間の手足」の比喩がうまれたように、何かが融合するとき、そこに「いま/ここ」にないものが噴出する。放心のなかへ、それまで見落としていたものが「無意味」のままするりと溶け込んでくる。「無意味」が勝手に動いて、何か豊になった気持ちになる。
 1万年前から、たぶん、人間は「足を前に出して」、ただ歩いたのだ。前へ前へと。
 そんなことが、ぼんやりと納得できる。いや、それを納得したがっている私がいる。
 そうやって進むとき、その背後には「見てはいけないものがいっぱい」かどうか、私はわからないが、ただ前へ進む。何かにぶつかり、進めなくなったら、そこで「手足をほどく」、そして「澱む」。それでいい。宿題ができなければできないでいい。でも、前へ前へと進む、学校へ行く。それでいい。
 1万年に比べれば、「いま/ここ」はほんの一瞬。

 不思議な広さが、この作品にはある。「ほどかれた」広さがある。

 「夕暮れのはなし」は吉行淳之介、安岡章太郎、開高健の鼎談を古い文芸誌でみつけたことを書いたあと、動物園の動物をへて、

地中深く
はるかな時代を通過してきたのだろう

地下鉄に吹く風は
微かに腐臭がして

 としめくくられる。ここには「1万年」のかわりに「はるかな時代」が出てくる。北川は「いま/ここ」を遠い過去(時間)と結びつけてみている。それは、過去と結びつけるということだけではなく、「いま/ここ」を「ほどく」ことでもある。「いま/ここ」を支配している「時間」をほどいて、もう一度「過去」と「いま/ここ」をかきまぜることでもある。
 川と海が出会い、混ざるように。水が互いをかきまぜるように。


ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ
北川 朱実
思潮社
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西脇順三郎の一行(5)

2013-11-22 00:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(5)

 「眼」

白い波が頭へとびかゝつてくる七月に

 波の描写、波が高いということはわかる--と書いたら、それは実感とは違う。私は波の高さを実感していない。「とびかゝつてくる」という動詞に、波のいきいきした動きを見ている。そのときは波を高いとは思わない。波を危険とは思わない。
 たとえば防波堤で、あるいは岩場で、波がたたきつけてくるしぶきを頭から浴びる。そのとき、「わああっ」と声を出して、私は喜んでいる。おもしろくてしようがない。
 そういう明るさがある。輝きがある。
 「白い波が頭へ」ということばのなかでは、また「白い波頭」ということばも動いている。
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