蔡天新「天神」(未発表)
蔡天新が「日本三首」と題して福岡に来たときのことを書いた詩を送ってくれた。中国語は読めないのだが、そのなかの「天神」をむりやり「翻訳」してみた。翻訳といっても、知っている漢字から強引に「意味」をつくりだしたものである。で、そういうことをしてみると詩というのは(文学というのは)、作者の思いなんかは関係がないなあ、読むひとが読みたいことを読み取るだけなんだなあ、「誤読」するだけなんだなあ、ということがわかる――というのは、まあ、言いすぎか。
蔡天新の詩、私の「翻訳」を並べる。
蔡天新と私が話したのは二時間ほど。半分はレセプションの会場だったので、実際は一時間ほどか。福岡や天神の話はしなかったが、この詩を読むと「天神」という地名に強い関心を持ったようである。天の神様――それが福岡の繁華街の地名である。そうならば、そこは神様が住む土地なのか……。
天神までは、空港から地下鉄で博多駅を経由してやってきている。(1連目)そこで「博多」という地名に触れる。博多というのは厳密には福岡の「別称」ではないのだが、福岡以外のひとにとっては、そういう区別は意味を持たない。博多=福岡。博多は福岡の別称。そう思われている。(通訳も、そういう具合に説明したのかもしれない)
そういう「別称」に触れてきたので「天神」という地名も「別称」のように蔡天新を刺戟したのだと思う。地下からのぼれば、そこは地上を飛び越えて、「天」。そして、そこには神が住んでいる。実際には、そこに行き交うのはひとなのだが、それは神の仮の姿かもしれない。
夜になればネオンがきらめき騒がしいが、昼間はそういう歓楽のけばけばしさはなく、対照的に静かで穏やかである。近くには公園があり、犬といっしょにひとが散歩している……。その静けさが蔡天新をとらえたのかもしれない。
4連目は、なんだか見当もつかない感じなのだが――それまでの3連のつづきでことばを動かすと、自分は故郷に帰るのだが、これからも世界を飛び回る時間よりも多く、「天神(神の土地)」へと心は何度も何度も帰って、そこで過ごすだろう――という具合に、福岡をたたえてくれている詩なのだと思った。
まあ、これは最初に書いたように、私が勝手に「読みたい」ように読んでいるということである。せっかく日本に来た、福岡に来たのだから、そのことを忘れずに何度でも福岡を思い出してもらいたい、とうい気持ちを反映して、私が4連目を「捏造」しているのである。
そういうことは別にして。
私がこの詩でいちばんおもしろいと感じたのは、
である。「十二」。あ、天神の地下街の出口はいくつあるのかなあ。私は思い出せないのだが、蔡天新は「十二」と明確に書いている。それが正しい番号かどうかはわからないが、きちんと数字を書くというところに、蔡天新の「数学者」の顔がのぞく。
あるいは「十二」には、何かしら中国の伝統が反映しているかもしれない。「十二支」の「十二」である。「満」が「十二」、「十二」によって世界が完結する。もし、そうなら蔡天新は偶然「十二番出口」から出たのではない。目的地(たとえば滞在するホテル、セミナーの会場)にいちばん近いのが「十二番」だったら、そこから出たのではなく、意識的に「十二番」を選んだのである。たまたま目的地の近くが「十二番」だったとしても、その数字に触れたとたん、どこかで「満(完結)」という意識が動いたと思う。
「十二」を超えれば、そこは「別世界」なのである。それこそ「天」なのである。理想郷なのである。
そんなふうに考えると(読むと)、まあ、これは「福岡」への「あいさつ」の詩なのだけれど、その「あいさつ」が意外と「理路整然」としている感じもする。起承転結という詩のスタイルが継承されていると言えばそうなのかもしれないけれど、この理路整然とした感じは蔡天新の個性なのかもしれない。数学が専門ということが影響しているかもしれない。
蔡天新が「日本三首」と題して福岡に来たときのことを書いた詩を送ってくれた。中国語は読めないのだが、そのなかの「天神」をむりやり「翻訳」してみた。翻訳といっても、知っている漢字から強引に「意味」をつくりだしたものである。で、そういうことをしてみると詩というのは(文学というのは)、作者の思いなんかは関係がないなあ、読むひとが読みたいことを読み取るだけなんだなあ、「誤読」するだけなんだなあ、ということがわかる――というのは、まあ、言いすぎか。
蔡天新の詩、私の「翻訳」を並べる。
天神
从空港乘坐机场快线
经过博多――福冈的别称
便到了天神车站
一个引人遐想的名字
那里有一条地下商业街
拥有数不清的出口
我选择的是第十二
从此每天出没其中
入夜有许多霓虹灯点亮
可仍与白天一样安静
犹如附近的大濠公园里
那些跑步或遛狗的人们
此地离开我的故乡
不过一个多小时的航程
我们的一生有多少时光
是在枯坐中独自度过
2013年11月1日,福冈-首尔
飛行機からおりて、飛行場からは地下鉄に乗る
博多を経て天神まではあっと言う間だ
福岡を土地の人は博多と呼びならわしている
それにしても天神とはなんと人を引きつける地名だろう
駅からつながる地下商店街は一本の道に沿っていて
いたるところに出口がある
私は十二番出口の階段をのぼった
たどりついた天上には人であふれかえっている
夜に入れば街はネオンが虹のように輝くのを許すが
昼は透明な天の光が辺りに満ちて静かな安らぎがある
近くには広々とした大濠公園があり
犬を連れたひとが一人二人と歩いている
私は自分の国に帰るために再び飛行機に乗る
飛行機が飛んでいる時間はほんのわずかだ
その短い旅の途上の時間よりも多くの時間を
私は何度も何度も帰ってきて、この街に坐って過ごす
蔡天新と私が話したのは二時間ほど。半分はレセプションの会場だったので、実際は一時間ほどか。福岡や天神の話はしなかったが、この詩を読むと「天神」という地名に強い関心を持ったようである。天の神様――それが福岡の繁華街の地名である。そうならば、そこは神様が住む土地なのか……。
天神までは、空港から地下鉄で博多駅を経由してやってきている。(1連目)そこで「博多」という地名に触れる。博多というのは厳密には福岡の「別称」ではないのだが、福岡以外のひとにとっては、そういう区別は意味を持たない。博多=福岡。博多は福岡の別称。そう思われている。(通訳も、そういう具合に説明したのかもしれない)
そういう「別称」に触れてきたので「天神」という地名も「別称」のように蔡天新を刺戟したのだと思う。地下からのぼれば、そこは地上を飛び越えて、「天」。そして、そこには神が住んでいる。実際には、そこに行き交うのはひとなのだが、それは神の仮の姿かもしれない。
夜になればネオンがきらめき騒がしいが、昼間はそういう歓楽のけばけばしさはなく、対照的に静かで穏やかである。近くには公園があり、犬といっしょにひとが散歩している……。その静けさが蔡天新をとらえたのかもしれない。
4連目は、なんだか見当もつかない感じなのだが――それまでの3連のつづきでことばを動かすと、自分は故郷に帰るのだが、これからも世界を飛び回る時間よりも多く、「天神(神の土地)」へと心は何度も何度も帰って、そこで過ごすだろう――という具合に、福岡をたたえてくれている詩なのだと思った。
まあ、これは最初に書いたように、私が勝手に「読みたい」ように読んでいるということである。せっかく日本に来た、福岡に来たのだから、そのことを忘れずに何度でも福岡を思い出してもらいたい、とうい気持ちを反映して、私が4連目を「捏造」しているのである。
そういうことは別にして。
私がこの詩でいちばんおもしろいと感じたのは、
我选择的是第十二
である。「十二」。あ、天神の地下街の出口はいくつあるのかなあ。私は思い出せないのだが、蔡天新は「十二」と明確に書いている。それが正しい番号かどうかはわからないが、きちんと数字を書くというところに、蔡天新の「数学者」の顔がのぞく。
あるいは「十二」には、何かしら中国の伝統が反映しているかもしれない。「十二支」の「十二」である。「満」が「十二」、「十二」によって世界が完結する。もし、そうなら蔡天新は偶然「十二番出口」から出たのではない。目的地(たとえば滞在するホテル、セミナーの会場)にいちばん近いのが「十二番」だったら、そこから出たのではなく、意識的に「十二番」を選んだのである。たまたま目的地の近くが「十二番」だったとしても、その数字に触れたとたん、どこかで「満(完結)」という意識が動いたと思う。
「十二」を超えれば、そこは「別世界」なのである。それこそ「天」なのである。理想郷なのである。
そんなふうに考えると(読むと)、まあ、これは「福岡」への「あいさつ」の詩なのだけれど、その「あいさつ」が意外と「理路整然」としている感じもする。起承転結という詩のスタイルが継承されていると言えばそうなのかもしれないけれど、この理路整然とした感じは蔡天新の個性なのかもしれない。数学が専門ということが影響しているかもしれない。