詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本博道「セナド広場の憂鬱」ほか

2013-11-11 09:01:26 | 詩(雑誌・同人誌)
山本博道「セナド広場の憂鬱」(「独合点」117 、2013年10月01日発行)

 山本博道「セナド広場の憂鬱」は情景がすっきりとしている。単純化されている。そして、それが不気味というか、不穏を隠している。

少女が自転車の外輪を棒で回しながら
だれもいない一本道を走っている
そこが埠頭に続く倉庫群なのは
通風孔しかない長い箱型の石の建物が
反対側にも建っているのでわかる

 「一本道」その「一」がとてもいい。少女が「ひとり」とは書いていないのに、「一本道」の「一」には少女は「一(ひとり)」でなくてはない。つまり、それは向き合っているということ。そして、そこに緊張があるということ。「一」と「一」は単純に数字だけ足すと「二」になる。ほんとうは、そういう足し算は「数学」では成立しない。単位(?)が違うからね。でも、「想像力の算数」では、それが「2」になる。この不思議な意識の乱れ(狂い)のようなものに拍車をかけるのが5行目の「反対側」である。「反対」ということば、「側」ということば。いま/ここで目に見えているものの「反対側(裏側?)」になるかがある。何かが隠れている。そしてその隠れているものが「一(本道)+一(人の少女)=2」を感じさせる。ありえないことがある、という感じさせる。日常の「数学」では道と少女を足したときの「1+1=2」は成立しないけれど、山本の書いていることばのなかでは、そういう動きがありうる。道と少女を、ふつうの「単位」ではない何かでくくる動きがある。「単位」があるとしたら、それは「本」「人」ではなく、「一」そのものが単位なのである。「いま/ここ」に「反対側」ぴったりと接続し、それが「一」をくっきりと際立たせている。その際立たせ方には「日常」を超える何かが感じられる。

すっぽりと死体を隠せる有蓋車もある
午後の陽射しが降りそそぐ黄色い道の先には
縫い針のような黒い柱の影と
だらりと手を下げた男の影が落ちている
空は爬虫類のような緑色だ
長い髪とスカートの裾をなびかせて
夢中で輪回しをしている少女が
羽交いじめにされるのは時間の問題だ

 この部分は「情報量」が多くてすこしうるさいのだけれど、その次の2行、

虫が知らせるそんな一枚の絵が
突然浮かんできた

 「いま/ここ」と記憶のなかの「絵」(これも反対側/裏側ということになるのかな)の登場で、うるさいものが洗い流される。先の引用が「うるさい」のは「いま/ここ」と「絵」が交錯しているからである。そこには「いま/ここ」があるだけではなく、「記憶」が動いている。
 「記憶」というのは不思議なもので、単に「過去」を生きるだけではなく、それが「いま/ここ」をととのえる、ととのえてしまうということがある。
 いったんよみがえると「いま/ここ」は「いま/ここ」のままの姿から変形してしまう。歪んでしまう。「肉眼」が「いま/ここ」を違うものにしてしまう。
 そしてここにも「一」枚の絵、と「一」が食い込んでくる。その「一」は知っている、という意味の「一」である。「ある」絵ではなく、「知っている」絵。だから、これからはじまるのは「知っている」ことなのである。「知っている」ことにつながるものが「一」のなかに動いている。

うねるような燕麦畑のかぜのような
灰色と青味がかった広場の道
絵とは違う場所なのに
流れている空気と影が同じだった

 ここで、私たち読者は最初の一連が「絵」であり、いま引用した2連目こそが「いま/ここ」だと「論理上」は知らされるのだが、もう遅い。私たちは(私は)、「絵」のなかの世界の方を「いま/ここ」として見てしまう。「いま/ここ」よりも絵の世界の方を「知っている」。そして、その「知っている」という意識が、記憶の(絵の)「いま/ここ」が現実のなかで動き、世界をかえていくのを感じる。--それを私は「肉眼」で見る、「肉眼」が世界を変形させると言う。ふつうは「想像力が」と言うのかもしれないけれど、「肉体」にしっかりからみついているがゆえに、「肉眼」と言う。
 その「肉眼」をかかえて、「肉体」は「絵」ではなく、ほんとうの「広場」を歩きはじめる。

少女を入れた有蓋車はどこだろう
人に揉まれながら
聖ドミニコ教会をさらに行くと
ジョルジュ・デ・キリコの絵を抜けて
だらりと手を下げた男の影が
物陰で動くのが見えた

 それは「空想」なのか、「記憶」なのか、「現実」なのか--「肉眼」は、それを区別しない。区別しないことによって世界を「ドラマ」に単純化、簡潔化する。三つを「ひとつ」にしてしまう。
 そんな「数学」はありえないかもしれないが、「肉眼」はそういう「算数」を成立させてしまう。

 --こんなことを考えてしまうのは、すべて2行目の「一本道」の「一」ということばのせいである。(あ、原因を山本に押しつけているわけではないのだけれど。)もし、その「一本道」が「まっすぐな道」「影のない道」「広い道」のように「一」ということばを抱え込んでいなかったら、私は、たぶんこんなことを考えなかった。「一」にさそわれて、私はこの詩に引き込まれた。

 私の書いたことは、ちょっとわかりにくいかもしれない。いや、とてもわかりにくいかもしれない。けれど、金井雄二の「葡萄」と比較すると、すこしわかりやすくなるかもしれない。この詩にも「一」が出てくる。

秋のはじまり
さわやかなテーブルの上には
大きな藍色の粒の一房なんかが
あったらいいなあ
あいにく我が家には
そういったものがあったためしがなく
テーブルの上には
いつものように
すべらかな毛をまとった生き物が一匹
腹を見せて寝転がっているのである

 葡萄の「一」房、寝転がった猫が「一」匹。でも、それは孤立していない。逆に言うと(この「逆」ということばはきっと間違ったつかい方だと思うけれど)、金井の書いている「一」には「反対側(裏側)」がない。「肉眼」に触れてこない。言い換えると、英語(外国語)の不定冠詞の「一(a )」である。山本の書いている「一」は定冠詞「the 」である。「定冠詞」つきの「もの」は「肉体(思想)」に深く関係している、「感情」がからみついている。(猫はなじみのある猫で、金井にとってかけがえのない猫かもしれないが、この詩のなかではかけがえのなさではなく、無関係を象徴している。)


光塔(マナーラ)の下で
山本 博道
思潮社
コメント
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