詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

木下龍也「地中の虹」

2013-11-14 09:15:37 | 詩(雑誌・同人誌)
木下龍也「地中の虹」(朝日新聞2013年11月12日夕刊)

 木下龍也「地中の虹」は10首から構成されているのだが、その関連を考えずに単独に読んでみる。いちばん印象に残ったのは、

引き抜けばそれはきさきさ濁点は鳥の腹部に残されたまま

 これは鶏を絞めて、羽根をむしりとった姿を描写したものだろうか。「羽根を」が省略されているのだろうか。羽根のむしり跡が濁点のように残っている。なるほどね。そうとらえると「写生」の歌だ。木下の書いていることは、それは「ぶつぶつ(つぶつぶ/ぼつぼつ)」というのが一般的かもしれないけれど、木下は「ぎざぎざ」ということばが最初に浮かんだのだろう。なかなかおもしろいなあと思う。
 10首の「タイトル」は次の歌からとられている。

虹 土葬された金魚は見ているか地中に埋まるもう半輪

 虹は空にかかる。それは半円である。残りの半円はどこか。地中にある。それを死んで、土に埋められた金魚は見ているか、という。これも「写生」なのかな? 写生ではないにしろ、まあ、情景が思い浮かぶ歌である。
 と書いた瞬間に疑問が浮かぶ。
 虹は見たことがあるが、私は地中の虹は見たことがない。空の虹を半円と認識したあと、では残りの半円はと考えたときに、地中にあるかもしれないという考えが浮かぶ。これはいわば「考え」のなかに浮かんだ虹である。「頭」で考えた虹であって、目で見た虹ではない。
 だから写生とは言えない。
 これはことばがつくりだした世界。ことばで「わざと」つくりだした世界である。この「わざと」に目を向けると、「現代詩」と呼ぶことができる。(西脇順三郎は、詩を定義して「わざと」書いたものと言っている--言っていた、と思う。)

 ここから「濁点」の歌に戻って考えると、それもやはり「頭」の歌である。「きさきさ」と「ぎざぎざ」の違いは清音か濁音かということになるが、それを木下は「音」の問題ではなく、「濁点」の問題に「すりかえ」ている。濁音は耳(聴覚)と喉(発声器官)野問題だが、濁点は「視覚」の問題である。
 木下の「頭」は「視覚」優先で動くようである。
 これは、実際の羽根をむしられた鳥(鶏)を想像するとはっきりするかもしれない。あの、鳥肌。先に書いたが、あれはふつう「ぶつぶつ」という。「ぎざぎざ」も突起をあらわすけれど、「ぶつぶつ」よりも鋭角的。鳥肌に対して「ぎざぎざ」とは言わないと思う。
 「ぶつぶつ」と「ぎざぎざ」が人間の肉体のなかで出会うとしたら、それは「触覚」である。ともに「ざらざら」した感じがある。(少なくとも「すべすべ」「つるつる」ではない。)この「触覚」を「ぶつぶつ」と「ぎざぎざ」から取り除くと、木下の場合「濁点」という「視覚」が残る。--視覚が世界を構成する。

 で、私の考えは往復するのだが(行ったり来たり、取り留めがないのだが)、「視覚」なのに、木下は実際には目では「世界」を見ていない。「濁点」の歌は、まだ目で見たといえるかもしれないが、「地中の虹」の場合は、絶対にありえない。
 だから、木下の歌は「写生」を装いながら、実は「写生」ではない。「視覚」を刺戟しながら、肉眼を刺戟しない。あくまで「頭」に働きかけて、「頭」で「絵」を見るように誘い込む。
 これは一種の「知的操作」(わざと)である。「肉体」が動いていないのである。

 これって、何かに似ていない?
 「古今」か「新古今」だ。--と、私は知りもしないのに、適当なことを書くのだが、実際の風景(目に見えるもの)ではなく、目に見えないものを「頭」に訴えて、存在するかのように「考えさせる」。感じるというよりも、そこに新しい「考え」があるという感じ。新しい感覚があっても、それは「考え」を経由することで「感覚」が新鮮になるという感じ。
 適当な例といえるかどうかわからないけれど、定家の「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」は、新しい聴覚の誕生をつげているが、この聴覚は「目に見えない」という視覚(視覚の否定?)との対比によって強烈になる。この「対比」のなかに、「頭」がある。視覚を否定し、聴覚に神経を集中するという意識の操作を、私は「頭」の仕事と考えている。感覚がかってにどちらかを選択するわけではない。
 「肉体」のなかでは「対比」ではなく、感覚の融合がある、というのが私の考え方だ。感覚はもともと「ひとつ」であり、便宜上「視覚」「聴覚」「触覚」などとわかれているが、感動した瞬間、それは混じりあってしまう。目で聞いたり、耳で見たりする。目で触る、耳で触るということもある。
 「古今」「新古今」は「万葉」の「融合した感覚(図太い感覚)」を「頭」で「分離/整理」して洗い清めている感じがする。--これは、私の「感覚の意見」であって、実際にあれこれ調べて言っているわけではない。
 なので、こんないいかげんなことを言っていいかどうかわからないけれど、木下の知的操作に富んだ歌は、「平成の古今/新古今」なのである。

きみは詩を窓は雷雨を引用し終バスはもう行ってしまった

 この歌の「引用(する)」ということば「頭」そのものである。エリオットの詩が「引用」で成り立っているのは、それが「頭」で書かれているからである。

 おもしろいのは、「頭」の操作で、新しい感覚(視覚)を表現しているのに、「考える」ということを歌ったとき、そこには「頭」のかわりに「視覚」が動く。

てのひらの坂の傾斜をゆるめつつ蟻の処遇を考えている

 蟻をつかまえてみたが、さて、どうしようかと手のひらを広げてみているのだと思うけれど、そこに「考える」ということばが出てきて、実際に動いているのは傾斜を「ゆるやか」と認識する目である。目で、考えるのである。
 ここにも、木下の「頭=目」という関係を見ることができるかもしれない。
 この「頭=目」というのは、私にはちょっと窮屈な感じがする。これは、私の個人的な事情なのかもしれないが、網膜剥離手術以後、目を刺戟してくるものが苦手になってしまった。視神経を刺戟されると、つらく感じるようになってしまった。
 
 そういうことが影響しているのだと思うが、10首のうちで、私がいちばん好きなのは、冒頭の、ちょっと寺山修司を思わせる

ゆるされて校庭をゆく少年に少年からのやわらかいパス

 これは「写生」そのものの歌と言えるかもしれない。校庭を少年が横切っていく。その少年のところに別の少年からサッカーの(おそらく)やわらかなパス。それが「絵」として見える--と同時に、私には「音」が聞こえる。ボールを蹴る音が。木下は「やわらかい」と書いているが「ゆるされて」「ゆく」という聞いたあとでは、それは「ゆるやかな」パスのように聞こえる。そしてその音は「パス」の半濁音そのものの、軽い感じを含んでいる。
 「音」を具体的には書いていないのに、音が聞こえる。視覚と聴覚が融合している。とても気持ちがいい。






つむじ風、ここにあります (新鋭短歌シリーズ1) (新鋭短歌 1)
木下 龍也
書肆侃侃房
コメント
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