詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斉藤なつみ「小鳥」ほか

2013-11-12 10:24:24 | 詩(雑誌・同人誌)
斉藤なつみ「小鳥」ほか(「この場所ici」9 、2013年11月05日発行)

 「知らない」と「わからない」は、どう違うか。斉藤なつみ「小鳥」を読みながら考えた。

庭のこぶしの木や木蓮の枝から
葉を揺らし飛び立って 電線にとまったり
再び 空を飛んだりしながら 鳴いている鳥

(鳥)としか呼べない
本当の名まえも知らない私が
囀る声を聞いていると
緑滴る深い森のなかにいるように
あるいは薄青い空の色になってしまったように
こころが易々と解かれていくのはなぜだろう

 「知らない(知っている)」は鳥の「名まえ」について語るときに使われている。私もほとんど鳥の名前は知らない。でも、斉藤は不思議なことを「わかっている」。この1、2連目では「わかる」ということばはつかわれていないのだけれど、鳥が「緑滴る深い森のなかにいる」、あるいは鳥は「薄青い空の色」のなかを飛んでいるということが「わかる」。そして、それは鳥について「わかる」のか、森や空について「わかる」のか、はっきりとは区別されていない。いや、区別はしていない。鳥と森、鳥と空が「一体」であることが「わかる」。
 それも「こころ」で「わかる」。
 知る、知らないは「頭」の仕事。わかる、わからないは「こころ」の仕事なのかもしれない。
 3連目は、しかし、どうだろう。同じように言えるか。

一つとして同じではない囀り方
チチ チ チ
掠れたり 弾んだり 間延びしていたり
何を思い 鳴いているのか
鳴いて どんな物語を告げているのか
耳を澄ましても わからない

 「一つとして同じではない囀り方」というのは「頭」で判断している。「知っている」ある鳴き方と比較して、それが「同じではない」と判断している。「掠れたり 弾んだり 間延びしていたり」というのも「こころ」でわかるのではなく、「頭」でわかることがらだね。そのあとの「どんな物語」か「わからない」というのも「頭」では「わからない」だね。
 「頭」が、やっぱり認識(わかる)の基本?
 うーん、ちょっと違うと思う。
 「わからない」は「わかる」があって、「わからない」と言ってしまうのだ。どこかで「わかる」、「わかる」けれど、それをことばにできない。だから「わからない」と言ってしまってるような、悔しさがここにはある。
 「こころ」には鳥の「物語」が森や空にあることが「わかる」。けれど、それを「頭」のことばで言いなおすことができないので「わからない」と便宜上、言うしかない。こころはそれを「思い出せない」。こころはそれを体験したことがある。だけれど、こころはそれをことばであらわすことができない。--このじれったいような矛盾(?)が「わからない」である。
 で(あるいは、だから……と言った方がいいのかも)、ほんとうに斉藤が言いたいことは次の連に出てくる。

いつか
思い出すことができないほど遥かな遠い私の
記憶の裡でも
鳥は羽ばたき 囀っていたろうか
そこが広々とした空であるかのように
あるいは 手繰り寄せることもできないほど
遠い鳥の記憶に
私は一本の木としてそよぎ立っていただろうか
そこが豊かな森であるかのように

 「頭」のことばでは言えなけれど(言いなおすことはできないけれど)、「こころ」は覚えている。頭では「思い出すことのできないほど遥かな遠い/私」。「肉体」というか「遺伝子」の、まだ「他人」のなかにいる「私」。いのち以前の「私」。--いのち以前の「私」は存在しない、と「頭」は言うだろうけれどね。でも、「肉体」は延々とだれかのいのちを引き継いでいる。肉体が続いているけれど、「頭」は続いていないのだと思う。だから、毎回生まれるごとに、「学び」直す。でも、「こころ(欲望)」は学ばなくても覚えていて、赤ん坊は、腹が減ったら泣いて訴える。だれかから教わったわけでもないのに、おっぱいに吸いつく。「自然」はとぎれない。そういうものを「こころ」は覚えているのだ。こころは「本能(自然)」である。そして「本能(自然)」は間違えない。
 「自然/本能」にまで戻ってしまうと、そこには「人間(私)」と「鳥」の区別もなくなる。「私」が覚えていないくても、「鳥」が「一本の木」である「私」を覚えている。「鳥」は「私」がかつて「木」であったことが「わかる」。
 この3連目に書いてあることは「頭」には「わからない」。けれど、「こころ」には「わかる」。
 「知らない」「わからない」ということばを書くことで、斉藤は「こころ」を生まれる以前の世界から取り戻している。鳥の力を借りて(鳥になることによって)取り戻している。
 4連目。

その時には
鳥の本当の名まえを知っていたに違いない
囀る声も理解できたいに違いない
今(鳥)としか呼ぶことのできない私の
思いだすこともできない
遠いむかしに

 この連の「主語」は「頭」のようにも読めるけれど、「こころ」を主語にすると、よりすっきりする。つまり、

その時には
「こころは」鳥の本当の名まえを知っていたに違いない
「こころは」囀る声も理解できたいに違いない
今(鳥)としか呼ぶことのできない私の
「こころが」思いだすこともできない
遠いむかしに

 「知る」(理解する)が、「頭」と「こころ」の分業になる前、すべてのことは「こころ」がしていたのだ。「こころ/本能」には「わからない」ことなど、ない。「こころ/本能」は「知る」より先に「わかる」。「知る」必要はない。



 房内はるみ「日々」も「こころ」の詩である。

しずかな人の寝息のなかで寝ていると
はるかな昔を旅してきたような気持ちになる

 「頭」で旅をするのではなく、「こころ」で旅をする。知っていることではなく「わかる」こと、覚えている昔を旅する。「はるかな昔」には房内の「体験」を超えるものがある。だから、それが読者の「体験」と混じりあう。そして、詩になる。


私のいた場所―詩集
斉藤 なつみ
砂子屋書房
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