詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

やまもとあつこ『ぐーらん ぐー』

2013-11-07 10:31:03 | 詩集
やまもとあつこ『ぐーらん ぐー』(空とぶキリン社、2013年10月30日発行)

 やまもとあつこ『ぐーらん ぐー』には、何でもないことが書かれている。何でもないこと--というのは、つまり、そこから「意味」が生まれてこないということである。
 たとえば「公園」は日曜日の公園の風景である。いろんなひとがいる。そのいろんなひとのなかにバドミントンをしている親子がいる。バドミントンなのに、打ったシャトルがすぐに落ちてしまう。

ふたりっきりで
サーブばかりの
つづかない
バドミントン
つづけている

 何でもないのだけれど、へえーっと、私はそこで立ちどまってしまう。「つづかない」「つづけている」という矛盾を矛盾とは感じずに(?)、しっかり書いているその目に吸い寄せられてしまう。やまもとが書いていることなのに、まるで自分がそれを見ているみたいに感じてしまう。
 つながらないバドミントンをつづけているのは親子ではなく、その親子を見ているやまもとなのだと気づく。いや、やまもとは見ているだけではなく、バドミントンをしているのだ。やまもとの「肉体」が昔バドミントンをしたことを覚えている。そのときの「覚えていること」が、やまもとの肉体の中から「つづけている」ということばをひっぱりだしたのだ。
 書きはじめると、ちょっとややこしくなる(めんどうくさくなる)が、「つづかない」を「つづけている」と言いなおすとき、そこにやまもとの「肉体」が参加していくことになる。
 バドミントンの遊び(?)はつづかない--つまりゲームにはならないが、そういうものでも「つづける」ことができる。「つづける」はシャトルの動きとは関係がない。シャトルを打つという肉体の動き、肉体を動かしてシャトルを打つという「こと」のなかに、「つづける」がある。「つづく」のはバドミントンのラリーだが、「つづける」のは人間である。そして、それは親子が「つづける」というよりも、やまもとが「つづける」ということばで結びつけるから「つづいている」になるのである。
 やまもとが書くまでは、それは「つづかない」バドミントンで終わっていた。やまもとが書くことで「つづいている」に変わったのである。

 この変化は、大きいか、小さいか--というような問いを立てると、きっと「小さい」ということになり、「思想(哲学)」の領域から押し出されてしまう。つまり、「無意味」という部類に分類され、無視される、ということが起きる。
 けれど。
 あらゆることがらに「大きい」「小さい」はない。「いま/ここ」に「ある」ことがらにしか人間は関係できない。「いま/ここ」にある「こと」を生きることしかできないのだから、その瞬間に、すべての「こと」は、その人にとっては「いちばん大きい」ことなのである。他人から見て、それがどんなに「小さいこと」であっても、人は自分が関係していることを「小さいこと」として自分から切り離すことはできない。「小さい-大きい」という区別は便宜上のものであり、どのことも「直接性」のなかでは、「同じ」。
 で、この「直接性」というのは「つづける」に似ている。「肉体」を「こと」に「つづける」--つまり「つなげる」と、そこに「直接性」があらわれてくる。そこには「直接性」しかない。
 やまもとは簡単なことばで書いているので(私のように、「直接性」などというめんどうくさいことば、意味ありげなことばをつかわないので)、その動きが見えにくいけれど、この「直接性」というのは、とっても奇妙なものである。
 「直接」なのに、「直接」以外のものを引きずる。そこに「肉体」の不思議なところがある。
 「この山は」というのや山登りをしたときのことを書いている。山だから当然「登り」がつづく。歩いて歩いて歩いて、

5時間歩いて
やっと出合えた
平らな道
からだはよろこんで
前へ前へいくんだけれど
足がのぼりの着地の場所に
地面を求めるので
思いちがいを正しながら

一歩 一歩
足が思うところよりも
足を伸ばして
着地していくことになる

 山道をのぼったときの足と山道の「直接的な関係」、歩幅、力の入れ具合--それが平地ではそのまま通用しない。だから、あ、いけない、こんな歩き方で前へ進まないと、肉体の「思いちがい」を修正しなくてはいけない。
 「思いちがい」と書くと(そう書くしかないのだが)、「主語」は「私(精神?)」のように見えてしまうけれど(たぶんデカルト以来の「二元論」のせい)、やまもとの書いている「思いちがい」の「主語」は「肉体」。「肉体」のなかで「思う」が「直接」動くのである。精神も脳もとおらない。媒介としない。そういう「直接性」が人間にはある。そして、その「直接性」は肉体が覚えていて、それを思い出して、その思い出すままに動くので、突然の平らな道ではぎくしゃくする。登り道を歩く足(肉体)の「直接性」は平地に触れたからといって、突然平地を歩く足には変わらない。肉体の「直接」は「過去」をひきずりながら、少しずつ「修正」していくしかない。少しずつ、というのは、「つながる(つづける)」ということでもある。切り換える(つまり、切断して新しくつなぐ)のではなく、ひきずりながら、ねじまがっていく(?)。
 「直接」はねじまがるものとだけれど、「直接」というのは基本的に「点」に集約できるので、点のなかにはねじまがりがないので、それはねじまがりとは意識されない。で、あれ、なんだか変だけれど、そうだなあ、あるいは、あっ、そうなのかというような、何かが遅れてやってくる。何かを「意識」と呼んでもいいのだけれど、そうするとややこしくなるで、これは、ここでおしまい。

 めんどうになったので(うーん、うまく説明できなくなったので、というのが正直なところなのだけれど)、はしょって、飛躍する。
 やまもとのことばは「肉体」の「直接性」をとても明確に反映している。「肉体」のなかにある「正直」を動かしている。その「正直」が、私にはとても美しい、生き生きしたものに感じられる。この「正直」のあり方を、やまもとは「らく」と呼んでいる。いやあ、これはすごいなあ。「らく」ということばは、詩集のタイトルにもなっている「ぐーらん ぐー」という詩の中に出てくる。

昼間の電車は
座席がゆったりとうまる密度で
出発した

はじめは
みんな起きていたはず

頭が 一人 二人 と
ゆらゆらしてきた
三人 四人
となりの人も揺れだして
その頭をよけるために
体をよじらせてみるが
目を閉じてしまったほうが
らくな気がして
まぶたをおろす

日差し ぽかぽか
ほどよい 揺れが

 ぐーらん ぐーらん
 ぐーらん ぐー

 寄りかかってくる頭をよける(切り離す)のではなく、ふれてくるものをそのまま受け入れ、自分も同じように居眠りをする。いっしょになって、「ひとつ」になって、ぐーらんぐーらん。居眠りをするという「こと」のなかで、やまもとと隣の人の「肉体」が「ひとつ」になる。頭と肩の接触という表面的なできごとをとおりこして、「肉体」の奥で起きている「居眠り」に直接合体する。
 そのとき、「らく」になる。
 気分が? うーん。そうかもしれないけれど、まず「肉体」だろうなあ。「肉体」がらくになるというのは、意識しないで動くということ。山を登るときの足が自然に平地とは違う足の動きになるように、そして、その動きを意識しなくなったときに「らく」に山に登れるように。そして、その「らく」を覚えてしまった肉体は平地にもどった瞬間に「らく」をつづけたがるので足が乱れるという変なことをおこしてしまうのだけれど--その変なことの奥には「肉体のらく」がある。
 「肉体のらく」が「正直」なんだなあ、とわかる。「肉体」はいちいち何かを意識するのではなく、意識を忘れて「らく」になりたがる。
 「肉体のらく」は思想(哲学)ではない、という人もいるかもしれないけれど、私は「肉体」こそが「思想」だと思っているので、こういう詩は好きだなあ。「肉体のらく」(その直接性)から動きはじめることばは、「頭」のことばに対抗する力になる。これを組織化することはむずかしいのだけれど、というか、それは組織化とは反対に、すべてを解体し、「直接」という「点」にひきもどし、そこから勝手に動いていく力になるしかないものだけれど……。(あ、この部分は、メモ、だと思ってください。私には、説明がむずかしい。私が考えていることなのだけれど、まだことばにはならない。)
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ロレーヌ・レビ監督「もうひとりの息子」(★★★★)

2013-11-07 00:41:22 | 映画
監督 ロレーヌ・レビ 出演 エマニュエル・ドゥボス、パスカル・エルベ、ジュール・シトリュク、アリーン・ウマリ、カリファ・ナトゥール

 イスラエル、パレスチナのあいだで起きて赤ん坊の取り違えを描いている。「そして父になる」と設定が似ていると言えるかもしれないが--描き方は完全に違う。この映画では、こどもがすでに18歳に近づいていて、彼らに「自分はだれなのか」という自覚がはっきりとある。そして、問題は両親ではなく(両親の問題もあるが)、彼ら自身の選択にある。
 とてもおもしろいと思ったのは、パレスチナ人でありながらユダヤ人として育った少年と宗教の関係である。宗教と人種の関係である。突然ユダヤ人ではないとわかり、ユダヤ教から排除される。ユダヤ教の教会から排除され、ユダヤ人ではなくなる。--この関係は、私のような宗教感覚が希薄な人間には、あまりピンと来ないことがらなのだが、この問題を短いシーンではあるけれど、とてもていねいに描いている。「割礼もしているし、洗礼も受けた。それなのにユダヤ人ではないのか」と少年は問いかける。教会側は、母親がユダヤ人でないかぎりユダヤ人とは認めない。改宗とユダヤ人であるかどうかは別だと言う。うーん、厳しいというか、なんというか……。この非寛容(?)に対して、少年がとる態度(祖母の葬儀に出席しない)、その悲しみと怒りが、あ、そうなのか、と思うしかない。
 で、こういう非寛容をしっかり描いたあと。そのパレスチナの少年が、実の両親の家を訪問するシーン。そこでの関係は最初はぎくしゃくしている。なんといっても土地を不法に選挙しているユダヤ人として育てられた人間がやってくるのだから、息子であるとは「頭」で理解していても、すぐには受け入れることができない。
 このぎくしゃくした食事のシーンで少年が歌を歌いはじめる。最初はひとりで。その声にあわせて、まず母が声を出し、家族全員がくわわる。父親はリュート(?)のような楽器を弾きはじめる。少年は音楽が大好きで、それはどうやらこの父の血らしい。この音楽の和に、寛容がある。宗教のように、他者を排除しない。
 ずーっといっしょに時間を共有してきたユダヤ教が少年を排除するのに対し、音楽は少年を受け入れ、同時に少年をその音の広がる彼方まで拡大する。押し進める。支える。あ、これはいいなあ。思わず涙が出てくる。少年は、この瞬間、「育てられている」と感じる。この新しい家族に。

 この映画のラストは、実は答えを描いていない。「そして父になる」のように、少年がどちらの「家族」の方に行ったのか、明確にはしていない。しかし、私は、あの音楽の「寛容」のシーンから、パレスチナの少年はイスラエルに残り、ユダヤの少年はパレスチナにとどまると思った。生みの親ではなく、育ての親の「家族」を選んだと受け止めた。(もちろん、その後も交流はつづくだろうから、厳密にどちらを選んだとは言えないけれど。)ユダヤ人、パレスチナ人という対立をこわすとしたら、それぞれの「内部」に入り込むしかない。彼らは、対立を「内部」から「寛容」にかえていく最初の人間として描かれているのだと感じた。
                    (2013年11月06日、KBCシネマ1) 
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